「恵みの雨で潤したまえ」2018.5.20
  使徒言行録 1章1~11節

 教会の礼拝では、聖書が朗読され、その聖書箇所の内容に基づいて説教をします。説教とは、神の御言葉である聖書の内容を説き明かし、礼拝に集っておられる会衆の方々に、今日神は何を語っておられるのか、と語るものです。その説教には毎週題が付けられますが、聖書の言葉をそのままつけたり、神からの語りかけの形でつけたり、聖書の示す真理とか事実とかをつけたりします。そういう中で時には、私たち人間からの言葉という形を取ってつける場合もあります。今日の説教の題は、その最後の形を取っています。「恵みの雨で潤したまえ」とは、私たちが神に向かって呼びかけている形です。この題は、今日この後に歌う讃美歌の歌詞から取られています。343番の3節の歌詞に「聖霊よ、降りて かわける心 めぐみの雨にて 潤したまえ。」とあります。恵みの雨とは何か。どのように潤していただけるのか。そのことを、聖書を通して教えていただきたいと願っています。

1.教会に降られる聖霊
 「恵みの雨で潤したまえ」とは詩的な表現です。「雨」と、「潤す」とは、共に比喩で語られています。先ほどの讃美歌の歌詞では、恵みの雨とは、聖霊が降られることによって与えられる、ということはわかります。聖霊、とは神の霊のことです。神はもともと体を持たない霊であられます。しかしその神の内には聖霊と呼ばれる方がおられ、キリスト教会がこの世に姿を現した紀元1世紀に教会に降られました。それによって、キリスト教会は力を得て、世界中にイエス・キリストのことを告げ知らせてきました。先ほど朗読しました、使徒言行録の1章8節に「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と言われていたのがそれです。
実は今日は、キリスト教会の暦では、聖霊が最初に教会に降られたことを記念する、年に一度の日となっています。ペンテコステ(聖霊降臨日)と言います。そのことを覚えつつ、私たちに与えられる恵みの雨について、聖書の教えを聞きましょう。
 聖霊は教会に降られたのですが、聖霊は教会という人の集まり、つまり団体に降られて個人は関係ないということではありません。一人一人に聖霊の恵みは与えられます。聖霊が教会に降られて働かれるのは、例えば今こうして私たちが教会の礼拝に集まっていること、そもそも教会がこの世に存在していること自体が聖霊のお働きであり、恵みです。しかし、今日は特に一人一人に働かれる聖霊の恵みについてお話しします。聖霊は、教会に力を与えて世界宣教へと押し出されるだけでなく、一人一人に力を与え、特にその心に潤いを与えてくださるのです。

  2.渇いている人の心
 私たちの心は、容易に荒んでしまったり、空しさや、侘しさ、寂しさ、悲しさを感じたりするものです。どんなに仕事が良くできて、お金があって、地位も名誉もあったとしても、心に真の潤いがなければ、いつも満たされない思いを抱きつつ生活してゆくことになるでしょう。私たちは自分の心の中で思ったり考えたりするだけでなく、人との関係の中でも、いろいろと思いめぐらし、悩み考えてしまいがちです。自分の心であるけれども、実は自分の思い通りにならない、という面があるのではないでしょうか。強く冷静な心の状態を保ちたいと思っても、思い通りにはならないわけです。世の中には様々な問題が次々起こります。そういったものはみな、人の心の奥深い所に原因があるからです。次のような一節が聖書にあります。「人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」(ヤコブの手紙1章14、15節)。
 これが人間の現実の姿である、と聖書は教えています。人間には欲というものがあって、それがあるために生きてゆこうとします。本能的に人間は(あらゆる動物も含めて)、生き延びようとします。人がいろいろなものを作り出して、何かを発明したり、文化を築いたり、社会を形成してゆくのは、もっと良いもの、もっと優れたもの、もっと生活を満たすもの、もっと欲望を満足させるものを求めているからではないでしょうか。この世ではその求めは尽きません。それはまさに、渇いている状態です。飢え渇いているから何かで満たそうとするわけです。
 「恵みの雨で潤したまえ」と神に願うのは、そういう人間の中に元々ある、最も重要な、人の存在の根にある飢え渇きを満たしてください、という願いです。それは娯楽や趣味によって生活に潤いをもたらす、という程度の話では済まない、とても重要な問題です。そして、私たち人間は自分の力でそれを満たすことができないのです。

3.恵みの雨に潤される
先ほど朗読した聖書箇所で、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」(1章8節)と言われていた言葉を思い出しましょう。降ると言われているからには、それは私たち人間の生きているこの世からではなく、神のもとから降ることを表しています。神のもとから来る神の霊によって初めて私たち人間は自分の力ではどうしようもない飢え渇きから癒され、救われるということです。
繰り返しになりますが、この飢え渇きは、ちょっと喉が渇いている、というようなものではなく、また、人生において趣味や娯楽などをたしなむことを通して生活に潤いが与えられる、というような次元のものでもありません。人間としてみればどんなに充実していると思われる人生だとしても、健康、仕事、家族、友人、趣味、などにおいていかに満たされているとしても、なお人の存在の奥深い所に根を張っているものなのです。しかし人間はそれに気がついていないのです。そしてこれで大丈夫だ、問題はない、と思ってしまう。つまり的外れに納得してしまうのです。目には見えないけれども、私たちの心の中まで見通しておられる神と言われるお方の存在に思いが至らないからです。自分に命を与えてくれて、生かしてくださっている神、というお方に目を向けないでも平気でいることが出来る。これを聖書では罪と呼んでいます。
さらに人間にとって良くないことは、私たちはその飢え渇きに気がついていないという点があります。私たちは日頃、どこか体の具合が悪くなるとお医者さんに診てもらいます。どこかが痛かったり、良く動かなかったりすることによって具合の悪いことに気がつきます。ところが、相当悪い状態になっても、自覚症状がないために放っておいてしまうことがあります。そして検査の結果、実はこんな病気にかかっていますよ、と教えられて初めて知るのです。それと同じように、先ほど言った「罪」というものを自分の内に抱えている人間は、自分の良くない状態に気がつかない。それどころかこれで大丈夫、至って健康で健全だ、問題なし、と思い込んでしまっています。
だから私たちは外から教えてもらわねばなりません。私たちの根本的な飢え渇き、魂の必要について、聖書から教えてもらう必要があるのです。そして同時に内側からも新しくしてもらう必要があります。その両方で働かれるのが聖霊です。外からは神の言葉を教え、私たちの心の中を照らして、魂の奥深い所の飢え渇きを示し、神を求めるように導いてくださるのです。そして神の遣わされた救い主イエス・キリストへと目を向けさせてくださいます。そうしていただいて初めて私たちは、この後歌う讃美歌の歌詞にある「恵みの雨で潤したまえ」という祈りの言葉を心から神に向かって発することが出来るようになります。ですから、私たちが自分の内に欠けているものがある、と感じるなら聖書に尋ねましょう。そしてもし自分は充実している、大丈夫だ、と思っているとしたら、果たして本当に大丈夫だろうか、と疑ってみることが必要です。もっとも、大丈夫だ、と思っている人は教会には来ないかもしれません。教会に来ている、というだけでも実はもうすでに神から注がれる「恵みの雨」によって潤され始めているのです。私たちはそれを十分浴びなければなりません。心からの、魂の飢え渇きを神の聖霊によって癒していただき、潤していただけるように祈り求めましょう。

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