「互いに愛し合いなさい」2022.7.17
 ヨハネによる福音書 13章31~35節

 12弟子の一人でありながら主イエスを裏切るイスカリオテのシモンの子ユダが、イエスのもとから出て行った後のことです。イエスは御自分が栄光を受けた、と言われます。このことをきっかけとして主イエスは、弟子たちに新しい掟を与えられました。それは今日の私たちに至るまで、ずっと主イエスを信じる者たちが聞いてきた掟です。私たちは、世界中の主の民が聞いてきたこの掟を、今また新たな思いで聞こうとしています。


  1.栄光を受けるイエス・キリスト

 イエスは、今や、人の子は栄光を受けた、と言われました。人の子、とは主イエスが御自分のことを言われる時に使われる言い方です。神の御子でありながら人間となられた方として、御自分のことを示しておられる言い方です。人間となって、この世にお生まれになったことを前面に出して言われる表現です。ここで主イエスは、神と人の子である御自分とを対比して語られます。このような言葉を聞くと、イエスは普通の人間で、神とは区別される存在だ、という考えが出て来そうなのですが、そういうことではありません。どうしてこのような言い方が出てくるかというと、神の御子である主イエスは、神としての身分をもっておられるにも拘らず、マリアから生まれて人となられました。肉体を取られたということは、正真正銘の人となられたということです。それで、ここでは神と人、という区別の仕方で御自身と父なる神のことを語っておられるわけです。

 ここで主イエスは、御自身が栄光を受けた、と言っておられますが、まだ十字架にかかってはおられません。しかし、世に来られて神の御言葉を語っているイエスは、神の御子であり本来輝かしい栄光の内におられます。そういう方が、御自身を低くして世に来られたということが、神から栄光をお受けになっていることを証ししているのです。もう少しはっきり言いますと、捕えられて十字架につけられ、殺されることが、実はイエスの受けられる栄光です。御自身を多くの人々の罪の償いの供え物として献げるということが、神から受けるイエスの栄光なのです。このような仕方で人間の罪を償うことのできる方は、世の中でただ一人神の御子であり人の子となられたイエス・キリストだけだからです。


  2.新しい掟―イエスが愛したように愛しなさい

 そしてイエスは新しい掟をお与えになりました。その内容は、互いに愛し合いなさい、というものです。これと似たようなものとして、旧約聖書には「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という掟があります(レビ記19章18節)。つまり、人を愛しなさい、ということについて言えば、イエスのお生れになるはるか昔から、ユダヤの人々は神様から掟を与えられていたのでした。  しかしここで主イエスは「あなたがたに新しい掟を与える」と言われました。どのような意味で新しいと言われるのでしょうか。この福音書を書いたヨハネが書き送った手紙があります。そこで彼は、兄弟を愛することについて書いており、それは新しい掟ではなく古い掟だと言います(ヨハネの手紙一 2章7~10節)。しかしその古い掟を新しい掟として書いている、というのです。隣人を愛することは旧約聖書に記されています(レビ記一九章一八節)。それだけではなく、イスラエルの人々は同胞を愛してきたのであって、人を自分のように愛しなさい、という教えは、古くから教えられているものですから、古い掟と言われます。ですから、イスラエルの人々は、皆その教えを知っています。とは言うものの、耳慣れてしまっているということも言えます。それを、今初めて聞くかのような思いで聞くべきである、ということです。

 しかし、主イエスが「新しい掟」と言われた時には、やはり何か新しい要素があるはずです。それは、「わたしがあなたがたを愛したように」というイエスの模範があるという点です。その模範を知って、その上で互いに愛し合いなさい、と主イエスは命じておられるのです。

 では私たちは主イエスが弟子たちを愛されたように互いに愛し合うことなどできるのでしょうか。イエスが弟子たち、即ち今ここにいる人も含めて、信じる者たちの模範となっておられるのですが、主イエスが私たちを愛されたことの究極の姿は十字架にあります。普通の人間である私たちは主イエスと同じように人のために十字架に架かって死に、罪の償いをすることはできません。そうではなく、この13章で示されているように、主であり、先生であるイエスが弟子たちの足を洗って御自分を低くされたように、互いに相手に仕える者として、それによって愛する者となりなさい、ということです。

 そして、互いに愛し合いなさい、と言われているように、どちらか一方が仕えるのではなくて、対等の立場で愛し合いなさい、と言われているのです。主の前では、特に同じ主イエスを信じる者の間では、上下関係はありません。主の前では誰でも、一人の罪人であり、主なる神の御前で自分の正しさを誇り、自分で打ち立てた義を神の前に持ち出せるような人はおりません。ですから、私たちが愛し合うとしたら、主イエスによって罪を赦していただいた者同士として愛するということです。夫婦も親子も兄弟姉妹も友人知人関係も、皆、上下の差はなく、同等なのです。

 主イエスが弟子たちを愛されたことを思いますと、主イエスには見せかけや格好だけということがありません。見栄のため、ということもありません。単にお互い様だから、ということもありません。イエスのなさることはいつでも究極の目的があって、それに沿うものでした。その目的とは、弟子たちがしっかりと神につながって永遠の命を受けることでした。


  3.イエスの弟子であることを皆が知るようになる

 そして、弟子たち、私たちが互いに愛し合うならば、私たちが主イエスの弟子であることを皆が知るようになると言われます。互いに愛し合うのが弟子たちのしるしなのです。ここでもう一度主イエスの御言葉に目を留めます。いましばらく、主イエスは弟子たちと共にいるけれども、御自分の行く所に弟子たちは来ることができない、と言われました。つまり、十字架の死の後復活され、そして天に昇るので、弟子たちがイエスを探しても地上でその姿を見いだすことができないのです。そして、その後で、この互いに愛し合いなさい、という掟を与えておられます。

 ということは、弟子たちはイエスの姿を見ることができなくなりますし、他の人たちも当然、イエスの姿を見ることはなくなります。それは今日も一緒です。ところが、イエスを信じてイエスにつながっている者たちは、イエスが弟子たちを愛されたように互いに愛し合います。すると、そのことを通して、愛し合うものがイエスの弟子であることが人々に分かるようになります。つまり姿は見えなくても、人々が「ああ、この人たちの中にイエス・キリストがおられるのだな、目には見えないけれども、この人たちは互いに愛し合っているからそれがわかる」と納得してくれるということです。主イエスが私たちを愛してくださっているので、それは私たちの中にも必ず実現するのです。

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