「祈る勇気をいただく」2022.7.24
 サムエル記下 7章18~29節

 私たちと主なる神とをつなぐとても大切な恵みの手段として、祈りがあります。神様は、全能の方ですから、私たちの考えや働きや行動を超えて一切のことを実行する御力をお持ちです。しかしこの世で起こる様々な多くのことの場合、私たち人間の働きや行動を通して事をなされます。特に、主を信じる者が祈りを献げるということを通して、それに答えて、それを実行して行かれる、ということがしばしばあります。神は、私たちが祈り願う前から、私たちの願いをご存じです。それにも拘らず、祈ることを求めておられます。それは、神が何でも気前よく与えてくれない、出し惜しみをする方だからではなくて、私たちが自分の弱さを知り、そして主により頼むしかないことを知って、自分の力ではなく主の力に信頼する者となることを望んでおられるからです。そしてそれが私たちにとって有益だとお考えになるからです。人間の親も、子供が欲しがるものが分かっているからと言って、何でも先回りして求める前から次々に与えたりはしません。そんなことをしたら、子どもは自分にとって本当に必要なものは何であるかを全く考えなくなってしまいますし、いただいて当たり前という気持ちになり、感謝の心を持たなくなってしまうからです。


      1.ダビデ王のへりくだり

 今日の朗読箇所では、預言者ナタンによって、ダビデの子孫から出る者がイスラエルの王座を受け継ぎ、主がその王国をとこしえに揺るぎないものとする、という約束を告げられたダビデの祈りが記されています。ここには、主なる神を信じる者の祈りの様々な要素が込められています。これによって私たちは、祈りの中でどのように感謝や讃美を献げるかということを教えられるのです。

ダビデは、人間と神の隔たりを自覚しています。人間が持っている知恵は、元々神が人間に授けられたものでした。しかし、神を畏れ敬うことを人間がしなくなると、まず人間がし始めることは、神と人間との隔たりを忘れ、恰も神は人間と大差ない方であるかのように思ってしまうのです。人間の能力や知識、知恵を基準にして神を測ってしまうのです。これが人間の罪の性質です。最初の人アダムとエバが堕落した時も、蛇の姿で語りかけたサタン(悪魔)が唆したのはその点でした。神に背いたからと言って、決して死ぬことなどないのだ、と(創世記3章4、5節)。

 しかしダビデは、その点、神の前に自分が小さな者であることを自覚しています。自分の家、イスラエルの王として立てられて王位を確立したのですが、そのような事も神の目には小さなことだと言っています。自分の小ささを知っている人の言葉です。それだけでなく、主が自分の家の遠い将来のことまで語ってくださったというので、彼は恐れ多いことだと思っています。「このようなことが人間の定めとしてありえましょうか」。これは翻訳の難しい所とされていて、疑問文ではなくて「これが人への定め(律法)です」というような意味です。


  2.主の御心と御業を思い巡らして感謝する

 ダビデはさらに、ただ一人の真の神である主が御言葉によって御心と御業を示してくださったこと、イスラエルを選んでくださって御自分の民としてくださり、他の国々の神々から贖ってくださったと言って感謝を献げています。「異邦の民とその神々から、この民を贖ってくださいました」(23節)というのは、エジプトにはそこで信じられている神々がおり、人々はその神々が自分たちの国を守り、繁栄させていると信じていましたから、イスラエルの人々がその地で奴隷となっていたことは、イスラエルの民がエジプトの神々の支配下に置かれている、と一般には見なされていたからです。本当にイスラエルの神がエジプトの神々よりも力が弱くてイスラエルの人々を守ることができなかったということではありません。主なる神には深い御心と御計画があり、それに基づいてすべての御業をなさいます。一時的にイスラエルの人々がエジプトで奴隷の身分に置かれて苦しめられていたのも、イスラエルの人々に主の大いなる御業を示すためであり、同時にエジプトの人々にもそれを明らかにするためでした。

 ダビデは、主がイスラエルの民にしてくださったことをよく知っています。それをちゃんと歴史の中で、神学的にも弁えています。これは私たちにとっても、大事なことです。私たちには、旧約聖書とともに、新約聖書も与えられています。イスラエルをエジプトから救い出してくださったこの神が、その御子イエス・キリストを世にお遣わしくださり、この罪に染まった世から、贖い出してくださったのです。ですから、23節のダビデの告白は、私たちの告白でもあります。一人一人が主イエスによって罪と死と滅びから救い出していただき、贖い出していただきました。贖う、というのは、買い戻すという意味です。捕われていた者を、身代金を払って救い出すこと、囚われの身から解放することです。私たちは生まれながら罪に捕われています。自分ではそれに気がつきません。

 信仰を持たない人が信仰を持つ人のことを、宗教によって縛られている、というような見方をすることがあります。私も、そのようなことを言われたことがあります。自由を失って、その宗教の掟とか決まりごとに縛られるのではないか、禁欲的な生活をしなければならなくなるのではないか、と。果たしてそうでしょうか。もちろんそうではありません。むしろ生まれながらの状態でいることが、人を縛り付けているのであって、主は、私たちを死と滅びの縄目から解放してくださるのです。規則や戒めだけを受けて規律正しい生活をしたとしているだけで、私たちの中身が何も変わらないのならば、それは確かに縛られているだけになるでしょう。しかし主イエスによる救いは、私たちに神の前での罪の赦しを与え、真の自由をもたらします。私たちから出る善き行いではなく、主イエスの贖いにあずかるのですから、神の目から見て何ら問題がないのです。私たちが自分で自分の罪を償って取り除こうとしても、それは永久にできない相談です。神の目から見れば私たち人間の善き行いすらも、汚れたものとなってしまうからです。その昔、預言者イザヤは次のように言いました。「わたしたちは皆、汚れた者となり、正しい業もすべて汚れた着物のようになった」(64章5節)。これが私たちの現実だということを私たちは知るべきなのです。


  3.祈りを献げる勇気を得る

 ダビデは、そのように神と人との大きな隔たりを弁えていましたが、それでも自分は神のしもべであり、神は自分を認めてくださり、御言葉を賜り、自分たちの神となってくださっていることをよくよく弁えていました。そして預言者ナタンを通して「あなたのために家を建てる」と言われた主なる神の御言葉を受け止めることができました。

 このようにして、神の御言葉を、自分に向けて語られた恵み深い御言葉として聞くことのできた人は、ここでダビデが言ったように、主の前に祈りを献げる勇気を得ることができます。では、祈りを献げる勇気を得られないとするとどうなるでしょうか。そうなると次のような言葉が生じてくるのではないでしょうか。「自分のようなものが神に祈ってよいものだろうか。自分のようなものが祈っても聞いてもらえないのではないだろうか。何よりも、自分の祈りは神に届いているのだろうか」と。そもそも私たちは神に造られた小さな限りある存在です。しかも生まれながらに神に罪を犯し、神から離れて自分の道を勝手に歩き始めていた者です。そういう者に、祈りという仕方で神に求めることができるということ自体、大変な神の恵みです。つまり、神に対して背き、罪を犯してしまったものの、神は人間が神に立ち帰り、神の御言葉に聞き、へりくだって従うことを望んでおられます。だから、祈り、という手段を通して私たちとのつながりを持とうとしてくださっているのです。だから、へりくだって祈ろうとする気持ちを持っている人は、もうすでに、神とのつながりの道へと進み始めているわけです。

 そしてそういう人には、私たちに更に祈りを教えてくださり、必ず聞きあげていただけると約束してくださった救い主、神と人との仲介者である神の御子イエス・キリストが与えられています。主キリストは、「わたしの名によって願うなら、何でもかなえてあげよう」と言われました(ヨハネ14章13節)。この約束を信じる者は、神の前に実に小さな存在である私たちの祈りを聞いていただける、という幸いを感謝して、まず主の祈りを熱心に祈り求めます。祈るためには勇気がいる。そして心を祈りに向けてゆく必要があります。祈ろうとするなら、主である神の前に出る気持ちを持たねばなりません。そして自分がどんなに小さく弱く罪深い者でも、心から主イエスにより頼む心があるならば、私たちの内には祈る勇気が与えられているのです。「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブライ4章16節)。

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