「神の言葉を受け入れる」2022.7.3
 使徒言行録 17章10~21節

 神の御言葉が語られる時、人はいろいろに反応します。素直に聞き、受け入れようとして学ぶ人、初めから疑いの目をもって見る人、あからさまに反発する人など、様々です。それはいつの時代も同じです。それは何故かといえば、主なる神は、人の口を通して語られるからです。神の御子イエス・キリストでさえ、御言葉を語ると激しい反発にしばしば合われました。今日の朗読箇所には、使徒パウロたちの宣教を通して神の言葉に対する人々の反応が示されています。今、こうして神の御言葉を前にしている私たちは、どう聞くのか。このことを今また主から問われています。


  1.神の言葉を聞き、聖書を調べる

 使徒パウロは、シラスを連れて、いわゆる第2回宣教旅行に出ていました(15章40節)。今のトルコの内陸部を抜けてギリシャに入り、フィリピ、テサロニケ、そしてベレアという町へ来たのでした。ベレアのユダヤ人たちは非常に熱心に神の言葉を受け入れて毎日聖書を調べていました。ここで言われている聖書とは、旧約聖書のことです。また、聖書と言っても今日のように冊子の本で各自が簡単に持ち運べるようなものではなく、巻物ですから、恐らく会堂に備え付けてある巻物の聖書を毎日調べに通っていたのだと思われます。もしもその頃の信徒たちが今日の信徒たちの教会生活、信仰生活をみたら、相当うらやましいと思われるでしょう。何しろ、自分用の聖書があって、しかも簡単に持ち運べて、1冊に全部入っている。何と有難いことか。創世記の巻物を調べたら、次はイザヤ書の巻物、というように、一つ一つがそれなりの大きさであったわけで、全体をいっぺんに持ち運ぶことなど到底無理な話でした。それを考えると、聖書は大きくて重たいから持ち運ぶのが大変だ、などと考えるとしたら、初代教会の信徒たちに、何ともったいない、うらやましい、と思われることでしょう。こんなにコンパクトで軽くて、しかも1冊に聖書の全巻が入っているなんて!と。

 そういう意味では、私たちが20世紀、21世紀に生きているということは、どれほど文明の益を受けているかわからないです。今ではスマートフォン一つあれば、聖書の全巻が読めるし、いろいろな翻訳も、原文も見ることができます。2,000年前の人が見たら、この小さな薄っぺらい板の中に、どれ程小さな文字で書きこんだら収まるのだろうか、と思うかもしれません。そういったことを考えると、今日の私たちはよほど恵まれていると言えるかもしれません。がしかし、また逆に考えてみると、今日は非常に多くの情報が溢れかえっていて、人を惑わすもの、惹きつけるもの、目を眩ませるものが満ちています。そういう膨大な情報の中に、最も大事な救いの福音が埋もれてしまうことも考えられます。現代人は膨大な量の情報の中から、人が生きるにあたって大事な知らせを聞きとれなかったり、聞き逃してしまったりするのかもしれません。そう考えると紀元1世紀のべレアの信徒たちは却って恵まれていたかもしれません。実に直接に神の言葉を聞くことができたのですから。

 しかし、時代や環境がどれだけ変わろうとも、神がこの世にお語りになった福音ですから、決して廃れないこともまた、私たちは信じます。そして大事なのは、聞いたならば聖書を調べるということです。ベレアの人々は、パウロたちの宣教を聞いて、それを聖書によって確かめていました。逆に言うと、使徒パウロは旧約聖書の預言がイエス・キリストについて証し、つまり証言をしている、という点から語っていたということです。


  2.イエスと復活について宣べ伝える

 そのパウロたちの宣教は、イエスと復活についてでした。キリスト教では、イエス・キリストについての聖書の教えを告げ知らせることを、福音を宣べ伝える、あるいは宣教する、と言います。その際大事なことは、どのようなイエスを告げ知らせるのか、という点です。十字架にかけられて処刑され死なれたのだけれども、3日目に復活したイエス・キリストです。しかもその復活は、ただ息を吹き返したのではなくて、新しい体に復活されたという点が重要です。イエスの十字架の死と復活を告げ知らせなければ福音宣教とは言えません。

 このパウロの宣教に対して、ギリシャの人々は、いくつかのことを言っています。まずおしゃべりである、と。これはパウロがイエスのなさったことと、復活について、多くのことを語り、ギリシャの人々が聞いたことのない内容だったからでしょう。広場に居合わせた人たちの中にはエピクロス派やストア派の哲学者たちがいました。エピクロス派は物質中心な考え方で、この世では個人的な快楽の追求を目的としていました。ストア派は、汎神論的な考えを持ち、神という存在を認めてはいるのですが、それは聖書が示す人格を持つ神とは違います。人間の理性を重視し、倫理的な生活を目指すものではありました。禁欲的な道徳観をもっていたとされていますが、結局は人間の理性によって善いものとなれる、という考え方で、聖書の教えとは相容れないものです。

 この人たちはパウロたちの言葉に興味をもって聞いていたのですが、それはあくまでも興味本位でした。それは奇妙なものだ、と言っています。イエスという人物についてのパウロたちの言葉が、今まで全く聞いたことのないものであり、特に復活のことは全く意味が分からなかったのでした。こうしてみると、紀元1世紀も、21世紀もあまり変わらないように見えます。一度死んだ人間が復活するという福音宣教の言葉は、「奇妙なこと」として扱われてしまうのです。


  3.神の言葉を受け入れて生きる

 そういう反応をする人々に対して、神の御言葉を受け入れた人たちもいたのでした。それがベレアのユダヤ人たちであって、宣教の内容を素直に受け入れていました。このユダヤ人たちは、毎日聖書を調べていたのですが、それはアテネの人たちが興味本位で宣教を聞くのとは違っていました。神の言葉を受け入れるとは、その人の生活全体を変えてしまうほどのものです。イエスと復活とが告げ知らされてそれを本当だ、と信じて受け入れた人は、人生の見方が変わってしまいます。人生観、世界観が新しくなります。

 イエスが復活されたということは、他の人間も復活することのしるしであり、イエスを主と信じるならば、その復活の力にあやかって復活させていただけるのです。神の言葉には力があります。その力ある御言葉を聞いて信じるようになる前は、人はそれまで生きて来たこの世の教え、つまり人間の教えに知らず知らずのうちに染まっていて、人間の作り出した世界観・人生観に基づいて生きています。神の御言葉はそういう人を新しく造り変えてしまうことができます。造り変えられるというと、自分の人生を勝手に操作されているように思う人もいるかもしれませんが、私たちを造り、命を与えてくださった創造主なる神が、その御子キリストによって私たちにとって最も良いと思われることをしてくださるのですから、私たちはその方にゆだねればよいのです。

 今日、洗礼式が行われました。一人の人が主イエスを信じて洗礼を受けたい、と願って洗礼を受けるということは、素晴らしい神の恵みがそこにある、ということの力強い証拠です。神の御言葉を受け入れ、イエス・キリストを救い主、自分の主であると信じ受け入れた人がそこにいるということです。神の力強い御手がその人に臨んだのです。その人は、自分を神が捕えてくださったことを知ります。自分が神を見いだしたのではない。自分が神に見いだされ、信仰へと導かれ、救いへと招かれたと悟るのです。それは神の一方的な恵みであり、贈りものであると。

 私たちが神の御言葉に対して試験をして、私の人生にとって有益である、と判定して認めるのではなく、私という存在が、救い主イエス・キリストによる罪の赦しと救いに引き寄せられていたことを知るのです。既に信じている人はそのように思っていることでしょう。そして主イエス・キリストはこの初代教会の頃と何ら変わることなく生きておられ、救いの福音を変わらず語りかけておられることを確信させていただけるのです。私が神の御言葉を受け入れたということは、実は私が主イエス・キリストにあって、神に受け入れていただいている、ということの目に見える現れであります。そのように御自身を現してくださった主を信じ、共にその御名をあがめ続けましょう。

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