「主を裏切る者は誰か」2022.7.10
 ヨハネによる福音書 13章21~30節

 主イエス・キリストは、弟子たちと食事を共にされ、弟子たちの足を洗う、ということをされました。それには深い意味があり、洗ってもらった者は、主イエスとのつながりの中にあって、神の前での罪を赦していただける恵みに入れていただいていることを示していました。そして、主イエスは、弟子たちに対しては互いに足を洗い合うことをお命じになり、それは互いに自分を低くして他の人に仕える者となるように、という点からの模範も示されたのでした。今日のお話は、その後でのことであります。


  1.一人がイエスを裏切ろうとしている

 弟子たちに対して、御自分と天の父なる神との深いつながりについて語られた主イエスは、心を騒がせて断言されました。「心を騒がせ」、という言葉は11章33節でも使われていました。その時は、親しくしていたラザロが病気で死んでしまった時に、その姉妹であるマリアが泣き、周りの人たちも泣いているのを見て、「興奮して」言われたという記事です。人の死を前にして悲しむ人の様子を見て、主イエスが心を動かされた様子が分かります。今日の箇所では、主イエスを裏切ることになる者について語られるので、主イエスとしても、心穏やかではいられなかったのです。12弟子の中で誰が裏切ることになるのかあらかじめご存じであるとは言っても、共に過ごしてきた弟子の一人が裏切ることになるのを、平然と見ていることはできなかったのです。

 しかし、主イエスはこのことは起こるべくして起こることであると知っておられますので、力強く断言されました。この「裏切る」という言葉には、敵や裁判官などの手に「引き渡す」、「託す」というような意味があります。12弟子の一人であるユダは、金と引き換えにイエスをユダヤの指導者たちに引き渡す約束をしていたのでした。弟子であるにも拘らず、イエスを殺そうと思っている人たちに引き渡そうとするのですから、文字通りの裏切り行為であったのでした。


  2.誰について言っているのか

 これを聞いた弟子たちは、誰について言っておられるのか、顔を見合わせました。28節にありますように、弟子たちにとっては、主イエスがこのようなことを言われるとは全く考えていなかったわけで、この後のイエスのユダに対する言葉を聞いても、誰のことを言っているのか全く分からなかったのでした。

 ペトロは、主イエスの隣にいたイエスの愛しておられた者、即ちヨハネに、誰のことを言っているのか尋ねるように合図したとあります。この食事の様式は、横になって左ひじをつき、足は右側に投げ出した格好になります。それで、ヨハネは主イエスの右側にいて、イエスの胸元に寄りかかって聞いたのでした。そして恐らくイエスの左隣りにイスカリオテのユダがおり、イエスはパン切れを浸して隣りのユダに与えたのでしょう。ユダがパン切れを受け取ると、サタン=悪魔がユダの中に入りました。サタンは既に、ユダにイエスを裏切る考えを抱かせていました(2節)。

 そしてここにきて、ユダは行動に移ります。決してユダはサタンに操られて自分の意志とは関係なくイエスを裏切ったのではなく、金欲しさにイエスを引き渡そうとして、イエスを殺したがっている人たちに取り入って引き渡す算段をするのです。私たち人間には生まれながらに神に背いている罪があります。その人間が特に何らかの罪を実際に犯すことがあります。心の中で考えていたり企てているだけではなくて、言葉に出したり、行動に移したりすることで、それが人に対して、あるいは社会に対して何らかの大きな影響を及ぼしてきます。心の中で悪事を考えたり、神に背くことを企てることも既に神の前では罪であるには違いありませんが、心の中だけで考えているだけに留まらないで、外にそれが現れて来たなら、それはもう取り返しがつかなくなります。ユダの場合も、イエスを裏切ろうという考えを抱くだけに留まらないで、実際に裏切る行動に出たのでした。ユダの場合、目の前で弟子たちの足を洗う主イエスの姿を見ていたにも拘らず、主を裏切ろうという気持ちを抑え込むことができなかったのでした。

 このユダの場合は確かに特別に大きな罪であって、12弟子の一人でありながら、選んでくださった主イエスを裏切ったのですから比較できるような罪は他にないと言えるかも知れません。しかし人が罪を犯す時、このユダの場合と同じような道を辿ってしまうのではないでしょうか。ある考えが心にこびりつき、それに捕われると、理性的な判断や、神の戒めを知っているにも拘らず罪を犯してしまうのが人間の弱さであり罪深さなのです。ユダは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と主イエスに言われて、すぐに出て行ったのでした。


  3.主イエスを裏切らない者に

 さて、今日の題は、「イエスを裏切る者は誰か」というものでしたが、この問いに対する答えは、単純に考えれば「12弟子の一人であったイスカリオテのユダである」ということになります。確かに、人類の歴史上、唯一度この世に降られた神の御子、唯一の救い主イエス・キリストを死刑とするために引き渡したのは、唯一人、このユダだけです。ユダは、イエスを殺そうと考えている人たちにイエスを引き渡す、という仕方で神の御子イエスを裏切りました。私たちは、この話を聞いた時に、何を考えるでしょうか。ユダ以外の者はどうなのであろうかと、考えてみたいと思います。イエスを引き渡すという形でイエスを裏切ったのはユダ一人です。しかし、この世には、期待を裏切る、という言い方があります。神の期待を裏切ったという意味では、実はすべての人が神の期待を裏切っているとも言えます。つまり、神が望んでおられるように神に従うことをしなかったのが最初の人間アダムとエバであり、その後に生まれて来た他のすべての人々、普通に人間として生まれて来た人類も、その性質を受け継いで生まれて来ましたので、生まれながらに神の期待を裏切っているのです。

 それで、天地の創造者であられ、人を造られた神は、しきりに人に呼びかけて神に従うように、神に立ち帰るようにと呼びかけ続けて来られました。その呼びかけに答えて従った者もいましたが、聞き従わない者は多かったのです。この世界に住む人間は、このままでは神の期待に応えられるような歩みをすることができず、神の栄光を良く現すこともできず、いつも神の期待を裏切って来たのでした。先ほど、神に聞き従った者たちがいたと言いましたが、その者たちとて、常に神に喜ばれる歩みをしたわけではなく、しばしば過ちを犯し、罪を犯し、時には神の戒めに背き、神を悲しませてきたのです。神に聞こうとする者たちの中にも、まだ生まれながらの罪は依然として残っているので、それがある限り、完全に清く正しくなって神に喜ばれる者となることはできなかったのです。

 今日の私たちはどうでしょうか。今、私たちには神の御子イエス・キリストがおられます。そしてこの方が十字架につけられて死に、私たちの罪の償いをしてくださったので、神に罪を赦していただき、受け入れていただく道が開かれました。この世に生きている限り、私たちも神の期待を、主イエスの期待を裏切ってしまうことがしばしばあるのです。それでも、主イエスにより頼む者には、やがて神の期待を裏切ることもない、素晴らしい状態に入れていただける望みが与えられているのです。自分は弱く罪深く、どうしようもないと思う人でも、主イエスにより頼む道があります。その人は、もはや自分の力と努力と正しさによって、主の期待を裏切らない者となることを目指す必要はありません。自力では到底できなくとも、主が遣わされる聖霊が私たちを導いてくださり、歩みを支え助けてくださいます。主イエスを救い主と信じる者は、この主により頼んで、主に喜ばれる者となれる道へと招かれています。

 神の恵みを受け入れることが、まず神に喜ばれることです。神の御言葉を聞くことが、まず神の期待に応えることです。私たちはこの主を何か他のものと引き換えに引き渡すことなどできません。ユダはたったの銀貨30枚でイエスを引き渡して裏切りました。私たちは、この世の楽しみ、金銭、名誉、その他のものと引き換えに主イエスを裏切ることなど、できるわけがないのです。救い主イエス・キリストのもとに留まり続けましょう。

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