「民の代わりに死ぬイエス」2022.1.16
 ヨハネによる福音書 11章45~57節

 救い主イエス・キリストは、死んでから4日も経っていたラザロを生き返らせました。このことを聞いたユダヤ人の指導者たちがどのように対応したかということが今日の箇所に記されています。私たちはここから、神の御子のなさったことに対する人間の行動の一つの典型を見ることができます。そこには、目先の利益を優先する人々の姿が浮かび上がってきます。そして、そのようなこの世に生きる私たち罪人のために代わりに死んでくださった十字架のイエス・キリストを見るのです。


  1. 目先の利益を優先する指導者たち

 イエスがラザロを生き返らせたのを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じました。つまり信じない人もいたのでした。主イエスはいろいろな奇跡を行われましたが、奇跡がいくら行われても、それを本当に神からのものとして認め、へりくだってイエスを神の御子と受け入れるのでなければ人は信じるには至らないわけです。信じない人は、イエスが行った業には何かからくりがあるのか、神ならぬ何か別の力によっているのではないか、と考えるか、目の前で奇跡は見たけれども、受け入れたくないので受け入れないということもあり得ます。ここに登場する祭司長たちとファリサイ派の人たちがそうでした。目撃者たちの報告を聞いた彼らは、対策を練ります。その知らせを聞いて、本当だろうか、イエスはこれまでもいろいろな奇跡を行ってきたと聞いているが、一体その正体は誰なのだろうか、と真剣に考えるのではなく、どう対処したらよいか、という問題にすぐに目を向けていることが分かります。

 なぜかと言えば、彼らはイエスのなさったことそのものに目を留めるよりも、自分たちの国の成りゆきのことが心配で、ローマ人が来ることを恐れているのでした。この頃、ユダヤの国はローマ帝国の支配下にあり、ユダヤ人はこれを苦々しく思っていました。ローマ人が来て、というのは、イエスがしるしを行うことで人々がイエスを担ぎ上げて、ローマに反抗するようなことが始まるとしたら、神殿も国民も滅ぼされてしまうに違いない、と考えてのことです。それ程にローマの軍事力は強かったわけです。最高法院に属する人たちは、いわば国会議員ですから、国の成り行きに神経を使うのですが、イエスという人物がこの頃人々の注目を集め、神から来られた方として自分を現して様々な奇跡や良い業を各地で行っているのを見聞きしても、それが本当に神からのものなのかを訪ね求めようとはしないのです。そして目の前に起こってくるかもしれない政治的な問題を小手先のことで回避しようとしているのです。

 宗教改革者のカルヴァンは、ここを注解して、非常に厳しく彼らの態度を批判しています。「正しい道から外れまいとすればどうしても排除できない危険を回避しようとしている」と(ヨハネ福音書10章48節の注解)。そして、こうも述べています。「わたしたちの時代が如実に描き出されているのを見る」と(同)。カルヴァンは16世紀のフランス人で、スイスのジュネーブで改革運動を行いましたが、その時代のヨーロッパでも、賢明で分別があり、見通しが聞くと見られたいと思う人たちがいて、似たようなものだというわけです。

 今日の日本では、もちろん1世紀のユダヤとも、16世紀のヨーロッパとも違って、政治家のほとんどの人は生けるまことの神の前に政治を行おうなどとは思ってもいないことでしょう。そして何が真実であるかを明らかにするよりは、自分とその仲間の立場を守ることや、党派内の秩序を保つことにあくせくしているように見えます。古代も中世も現代も、人の本質にある罪の現実は変わらないということです。しかしまた、私たちのほとんどは直接政治の世界に関わらないかも知れませんが、政治の問題に限らず、今日神を信じる者として、何が神に喜ばれることであるかを尋ね求めつつ進まねばならないことを私たちも忘れてはならないと言えます。「何が神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」と使徒パウロが命じているとおりです(ローマの信徒への手紙12章2節)。


  2.大祭司カイアファの預言

 このような最高法院の指導者たちの発言に対して、大祭司であったカイアファが言います。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済むことが自分たちにとって好都合ではないかと。この後、カイアファの話に基づいて、彼ら指導者たちはイエスを殺そうとたくらんだとありますから、カイアファの言葉は、イエスを殺せばよい、という意味であったことがわかります。人々はどうすればよいか、と思案していたわけですが、カイアファは迷うことなくイエスに亡き者になってもらえばローマ帝国側も、ユダヤでは特別な反乱など起こらなかったとみなしてくれようから、神殿もユダヤの国も滅ぼされることはない、というものです。

 しかし、カイアファの言ったこの言葉は、イエスがこの世に来られたことの目的を図らずも表わすものとなっていたのでした。一人の人間が民の代わりに死ぬこと。これは確かに主イエスがこの世に来られたことの目的を示すものです。カイアファが言ったのは、ユダヤの国がローマ帝国によって滅ぼされないためにイエス一人に死んでもらう、ということについてでした。

 イエスは国民のために死ぬ、ということですが、それは単にユダヤ人のためだけではない、という点についてもカイアファは語ったのでした。カイアファはイエスという人物が本当に神のもとから来た方で、多くの人の罪を贖うために十字架で死ぬことになる、ということを心から感謝して信じる信仰に基づいて語ったわけではありませんでした。しかし、それにも拘らず彼の語った言葉は、イエスがユダヤ人のためだけではなく、それ以外の多くの人々、散らされている神の子たちを集めるためにも死ぬ、ということを語ることになったのでした。


  3. 神の子たちを集めるイエス

 そしてこのカイアファの言葉を聞いていた他の指導者たちは、その発言をきっかけにイエスを殺そうと企み始めたので、イエスは公然とユダヤ人たちの間を歩くことはされなくなったのでした。エフライムという町に言ってそこに滞在されたのですが、もちろん隠れるためではなく、これから起こってくること、御自身がエルサレムで捕まり、十字架にかけられることを見越した上で、それに備えて退かれたのでしょう。こうして過越祭を迎えようとする中で、祭司長たちとファリサイ派の人たちは、イエスを逮捕するために手はずを整え始めていたのでした。

 さて、救い主イエス・キリストは、「散らされている神の子たちを一つに集めるために」死なれること、この点を今一度よく覚えておきたいと思います。散らされているとは、単に他の国々に散らばっているユダヤ人たちのことではなく、世界中の国々にいるあらゆる人々のことです。神は人を創造されましたが、人は自ら神に背いててんでに自分の行きたい方へ迷い出してしまいました。「わたしたちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かって行った」(イザヤ書53章6節)と言われているとおりです。そういう意味で散らされているのが全人類であり、その中に神の子たちがいるのです。

 このことは、既に主イエスが御自分のことを羊飼いにたとえられた時のお話で示されていたことでした。「羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(10章16節)。この真理を、心から信じているわけではないカイアファアが預言したのでした。

 私たちもまた、散らされている神の子たちの中に入っています。世界中の国々、そしてあらゆる時代を通じて、救い主であり、真の羊飼いでもあられる主イエスは神の子たちを捜し求めておられます。そして、主イエスの羊たちは必ずその招きに応えて見もとに来ます。今この世は一体どこへ向かうのでしょうか。今の時代、日本では若い世代が将来に明るい希望を見いだし辛い世の中になっている、と言われます。人の作り出したものにはどうしても欠陥があり、人を完全に満たすことはできません。私たちは、この世から出たものではなく、神のもとから来られた方、神の御子イエス・キリストを待ち望みます。この世に最終的な望みをおきません。

 しかし、だからといってこの世で投げやりに生きるのでもありません。見えない神の国が進展しつつあるこの世にあって、それぞれに与えられた務めを行い、祈りつつ神をあがめつつ、神を愛することと隣人を愛することを通して、私たちには神による救いがなくてはならないのだということを表しているのです。私たちが礼拝を続け、教会をこの世に立て、伝道をし、教会を維持して行くのは何故でしょう。散らされている神の子らを集めようとしておられる主イエスが民の代わりに十字架で御自身を献げて死んでくださったからです。そして復活し新しい命を私たちにもたらしてくださいました。それがなければ、私たちは今、こうして教会に集まって礼拝することなどありませんでした。私たちは小さな者ですが、そのような救い主イエスの大きな御業の中に入れていただき、共にこの世で神を仰いで歩むように召し出していただいたのです。

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