「恵みの善い管理者として」2022.1.23
 ペトロの手紙一 4章1~11節

 あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっている。まずこの一点について私たちはよくよく顧みる必要があります。賜物は神が一人一人に振り分けるものです。そしてそれは何のためかといえば、神がお立てになったキリストの教会において、互いに仕え合い、キリストの教会を担って行くためです。賜物は、神が振り分けられる以上、そのために役立つものであるはずです。私たちに命じられているのは、それをよく用いることです。そして心しておくことは、私たちは管理者であるということです。今年の歩みを思い巡らすにあたり、この御言葉に聞きましょう。


  1.神の恵みとは

 神の恵みについて、聖書は私たちにとても大事なこととして教えています。神の恵みなしには何も起こりえないと言ってもよいくらいです。恵みとは一方的に与えられるものであり、報酬とか代金とかを求めないものが恵みです。そして単にただで、無償で与えるというだけではなく、神の恵みが与えられる時にはそれは神の御好意が込められています。この世で、例えば何らかの寄付金を私たちが求められたとして、それに対してあまり関心はないけれども、しきりに願うのでこちらにも少し余裕があるから、では寄付に応じようとしたとします。寄付する相手のこともあまり知らないし、それに対する思いもさほど熱いものはないけれど寄付しておこうという気持ちです。神の恵みはそういうものとは全く違うものです。まず、神は私たちが願う前から恵みを与えてくださっており、用意しておられます。また恵みを与える相手に対して大変熱い思いを持っておられます。まずそのことをよく覚えましょう。

 神の恵みは、大きく2つの点に分けて考えられます。まず私たちをこの罪深い世から救い、私たち自身のうちにある罪を赦し、救うために注がれる恵みです。それは特別に神がある特定の人々に注がれる恵みです。キリストへの信仰に導き、救いを与えるのは、神が天から雨のように誰にでも降り注いでおられるものではなくて、特別な恵みです。

 それに対して、それこそ雨や太陽の光、いわゆる自然の恵みなどは、一般的な恵みです。善人にも悪人にも雨を降らせ太陽を昇らせてくださる恵みです。今日ここで学ぼうとしているのは、先に挙げた恵み、神の特別な恵みです。しかし、神のさまざまな恵みとありますように、これは救いを与える恵みから恰も流れ出すように与えられる恵みです。

 イエスをキリスト、つまり救い主と信じて罪の赦しを受けた人は、豊かな恵みをいただいています。そしてそれに加えて様々な恵みをいただくということです。ウェストミンスター小教理問答はこのことを次のように言っています。「この世で、義認、子とされること、聖化に伴い、あるいはそれらから流れ出る祝福とは、何ですか」(問36)。罪人が義と認められて罪を赦され、神の子どもされ、聖霊によって罪を清めて始めていただける、という救いの恵みを受けた者が、そこから更に祝福をいただけると言っているのです。

 その答えは、「神の愛の確信、良心の平和、聖霊における喜び、恵みの増加、終りまで恵みの内に堅忍することです」というものです。恵みの増加と言われていますが、それはこの世における生活の中で、私たちが実感できるものもあれば、時には気がつかずにいることもあるかもしれません。神の愛の確信、平和と喜び、信仰の成長などはそれらすべてが恵みそのものでもあります。この世で受ける恵みは、生活を豊かにするものもありますが、心を満たし、感謝や喜びをもたらす、という形で与えられることもあります。


  2.恵みの管理者である

 このような神の恵みの様々な管理者とされているのが主の民です。人間は天地創造の時以来、神からこの地上を治める務めを授かっていました。それは神からゆだねられた管理人という立場にあたります。私たちはこの世で、神から、この世界の管理人に立てられています。管理人がゆだねられているのは、自分の考えや希望に沿って務めを行うのではなく、管理をゆだねてくださった持ち主、分配者である神の御意向に沿って管理することです。

 主イエスは、タラントンのたとえ話で(マタイ25章)、ある人が旅行に出かけるとき、僕たちに財産を預け、一人には5タラントン、一人には2タラントン、もう一人には1タラントンを預けて旅に出た、というお話をされました。主人は僕たちの能力に応じて分け与えたのです。主人が旅から帰って来た時に、5タラントンもうけた者と、2タラントンもうけた者には、「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」と言います。

 主が私たちに賜物を授けて管理させるのも同じであって、主から見ればそれは少しのものです。主の御手の中にあるものからすれば、一人に分け与えるものは少しのものです。しかしその少しずつを主は一人一人に分け与えられます。私たちは主が分け与えられたものをまず、感謝して受け止めねばなりません。そこには主の御心が込められているからです。そして私たちが自分のことを知っている以上に、主は私たちに分け与えてくださった賜物をよくご存じです。それを信じて、私たちは教会において賜物を生かして互いに仕えるのです。


  3.賜物を生かす道

 ペトロはここではその賜物についてあまり細かく示してはおりません。語る者と奉仕をする人の2種類の人たちについて語っているのみです。この点については使徒パウロがその手紙で詳しく書いていますが、今日はこの2つについて見ることにします。

 まず、語る者、とは教会において神の御言葉を説き明かす務めについている牧師、教師たちのことです。私たち日本キリスト改革派教会が、これをどのように理解しているかを示す1つの文章があります。教師が、各個教会において牧師とか宣教教師に就職する際、求められる誓約の内容がそれです。今全部を紹介することはしませんが、その第1番目に挙げられているのは、「あなたは、神の恵みによってこの職務に召されたことを確信し、神への愛と福音を宣べ伝える熱心によってのみ、この務めを遂行することを誓約しますか」というものです。私も2016年に尾張旭教会に招かれ、宣教教師に就職した時に誓約をしました。今日の聖句にあったように、御言葉を語る務めに召された者は、神の恵みによって召されたのです。どんなに語ることに長けている人で、どれほど聖書の言葉に精通していて、神学についても深い知識を持っているとしても、神の恵みによってでなければ、一つの教会において牧師としての務めにつくことはないのです。

 それゆえ、語る者は神への愛と福音を宣べ伝える熱心によってのみこの務めを遂行します。自分の名声や、この世のものへの愛や執着によってこの務めを果たそうとしてもそれはできないはずなのです。これは語る者が常に立ち帰らなければならない点です。

 もう一種類の人たち、奉仕をする人は、より広くいろいろな人たちのことを考えています。それがどんなものであれ、神がお与えになった力に応じて奉仕する。自分にはあまりに大きすぎる務めに無理に就こうとして頑張るというよりも、多くの兄弟姉妹たちの中で、自分にあてがわれた働きがあるのならば、それは主が振り分けられたものと信じて、奉仕するということです。参考に、私たちの教会で執事の任務について述べている教会規程の中にある政治規準の第一項を紹介します。それは「貧困・病気・孤独・失意の中にある者を、御言葉とふさわしい助けをもって励ますこと」です。第1番目にこれが挙げられています。教会活動とか、献金についてのことはその後に書かれています。皆大事なことですが、弱さの中にある誰かを助けること。これを執事さんたちは任職された者として特に行いますが、任職された人だけではなく、すべての信徒に共通のことでもあります。しかしそれもやはり力に応じてではあります。とても誰かを助ける力はなく、助けてもらう立場の方もいますが、それでも恵みの管理者としての仕え方はあることでしょう。

 賜物を生かす道は、自分で切り開くというよりも、何かの役割が与えられて賜物に気づき、段々と生かされて行くこともあります。自分だけで賜物を見切らないことも必要です。こうして、私たちはそれぞれの立場の中で、キリストの体である教会において、神からいただいた賜物の管理者とされていることをまず覚え、互いに仕える道を歩みます。そして善い管理者としていただけるように祈り続けます。善い管理者は、常にイエス・キリストを通して神が栄光をお受けになることを求めます。最後は神への感謝と讃美に至る。それが善い管理者のしるしとなるのです。

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