「神に依り頼めば恐れはない」2022.1.2
 詩編 56編2~14節

 主にあって、新たな年を与えられました。主にあって感謝し、挨拶を申し上げます。私たちのこの世の生活では、前年に身内の誰かが亡くなると、新年のご挨拶は控えます、という喪中の通知を普通出します。私たちはそういう生活習慣の中にあります。これは聖書でも喪に服するということがなされていますから、そのこと自体、私たちは普通に行うものです。しかし、主にあっては、新たな年を迎えられたことについて共に挨拶を交わすということはします。お互いの内に主の恵みと祝福がありますように、という祈りを伴う気持ちはいつでも変わりはありません。今日は新年礼拝にあたり、この詩編56編から、神に信頼する人の信仰を見て私たちも神の光の中をまた歩み続けさせていただけることを学び、歩み始めましょう。


  1.神にあって御言葉を賛美する信仰

 作者は人に踏みにじられている、と神に訴えています。戦いを挑み、虐げ、陥れようとする者たちに取り巻かれている状態です。災いを諮り、待ち構えて争いを起こし、命を奪おうとして後をうかがうとまで言われています。まるで孤立無援の状態で、こんな窮地に立たされる経験をした人は、あまりいないかもしれません。しかしどんな状態であれ、似たような思いに落とされることを、この世の生活の中で経験される方はおられることと思います。ここでは特に人からの悪に基づくものですが、それに限らず私たちの周りには、私たちを恐れさせるものが常にあります。

 この作者は日頃から主により頼んで生きている人でしたが、特に、恐れを抱く時、神に依り頼むと言っています。神の前ではたとえどのような人が自分を恐れさせても、そのような者たちは肉にすぎない、とわかっています(5節)。神と肉とが対比されています。何と大きな違いでしょう。神は天地万物の創造者。人は塵から造られ塵に帰るべきもの。神の息が吹き込まれなければ生きることができず、死ねば朽ちてゆく肉の体を持っているにすぎません。そのように肉に過ぎない者は自分に何もなしえないのだと作者は知っています。主イエスも同じことを言われました。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」(マタイ10章28節)と。むしろ神を恐れなさい、と続けて教えておられます。しかし私たちは神を神として畏れ敬い、より頼むならば神は恐ろしい方ではなく、より頼むべきお方、頼れるお方であり、体も魂も共にお守りくださる方であることを知るのです。


  2.神に依り頼めば恐れはない

 このように追いつめられている状況の中でも作者は、神に依り頼む信仰をはっきりと口にします。そうすれば恐れはないと。この同じことを4節と11、12節で多少順番を変えて3つのことを言っています。肉に過ぎない人間は自分に何もなし得ないこと、神に依り頼めば恐れはないこと、自分は神の御言葉を讃美すること、この3つです。神の御言葉を讃美します、との告白ですが、細かく言うと神にあって、神において御言葉を賛美します、という言い方です。神の内に守られ生かされている者としてその御言葉を賛美します、というのです。御言葉を賛美する、とは神の約束が真実であることを心から認めて賛美する、という意味です。神はお語りになったことを必ず実現してくださる、ということを知っている者として、賛美するのです。

 では、今、私たちにとっての恐れとは何でしょうか。いろいろな角度から言うことができると思いますが、私たちが何かを恐れるという気持ちを抱くときは、やはり自分や大事な人の命に関わることが脅かされる時ではないでしょうか。私たちが病気や災害や事故を恐れるのは、確かにそうだといえます。あるいは、社会で接する誰かを恐れる、ということもあります。この詩編作者はまさにそれでした。しかしそれらも突きつめると自分の何かを脅かされるからです。自分の命、立場、穏やかに生活したいという願い、自分の持っているものを確保したいという願いなど。そういったものの存在を脅かされる時、私たちは恐れを抱くのだと思います。

そのようなものがいかに私たちを脅かすとしても、神に依り頼めば恐れはない。それは何故でしょうか。神は、御自身に依り頼む者に対して、良きに計らってくださるからでしょうか。しかし神を信じてより頼む者も、この世で様々な災いや困難や病や試練に遭います。それらの中で戦ったり、辛抱したりしなければならないこともあります。それでも、神に依り頼んで恐れないのは、なぜでしょうか。それは神の愛が神を信頼する者には注がれているからです。

 「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」(Ⅰヨハネ4章18節)。神に依り頼む者は、神に愛されていることを知るようになります。そのことをこの作者は10節で語っていました。神を呼ぶことで、敵、つまり自分を恐れさせるものを退かせてくださり、それによって神が自分の味方だと悟ることができるのです。神に祈り、呼び求めることで神が味方だと悟れる。神が味方である、ということは何にもまさって頼もしいことです。これ以上頼りがいのあるものはありません。神が味方になっている者を被造物が恐れさせることはできないのです。


  3.命の光の中に歩ませていただく

 こうして、神に依り頼む者は、人間を恐れることなく、神による命の光の中を歩ませていただけます。そして人間を恐れなくてよいだけではなく、死からも救ってくださるのです。

 実は先ほど引用したヨハネの手紙では、恐れについてもう一つのことを述べていました。それは神の前での罪の罰という恐れです。全ての人間には神の前に罪があります。この詩編56編の作者を苦しめている人たちだけが罪深いわけではありません。全ての人には神の前に、神に対する罪があります。しかし神に依り頼む人は、その罪を認め、罪の赦しを神に求めます。しかし神に依り頼まないならば、神の前での罪は残ります。そうであれば、私たちは神の前に常に恐れを抱いて、罪の裁きを恐れて生きなければなりません。神を神として崇めもせず、神の御言葉に見向きもせずに退け、それで自分の一生を終えてしまったとしたら、神の前に自分の罪を弁護してくれる方を持たずに神の裁きの法廷に出なければなりません。それこそ最大に恐るべきことです。しかし幸いにも神は、救い主としてイエス・キリストを私たちに与えてくださいました。私たちのあらゆる恐れ、特に神の前での罪の裁きという恐れを取り除いてくださいました。そこに神の愛があります。私たちが主イエスを信じ受け入れ、その十字架の死による私たちの罪の償いを信じてより頼むなら、私たちからその恐れを取り除いてくださいます。その他のものを恐れるだけではなく、まず神を恐れてより頼むならば、神による罰を受ける恐れも取り除いてくださいます。

 詩編56編の作者は、イエス・キリストの十字架による罪の赦しをまだ具体的には知りません。それでも、神を信頼し、より頼んでいます。死からも救われる恵みを受けています。神の御前を歩かせていただいている、というのがそのしるしです。今の時代に生きている私たちは、この作者よりもはっきりと救い主による救いの恵みを知らされているのですから、一層神に依り頼んで、命の光の中に神の御前を歩くことができます。神の御前を歩けるのは、私たちにとって真の幸いです。神の御前を歩いていないとしたら、自分ではそれでよいと思っても、どんどん命の道から外れて行ってしまいます。「人間の前途がまっすぐなようでも、果ては死への道となることがある」(箴言14章12節)。人間からすれば前途洋洋に見えても、神に依り頼まない道は魂の救いから自らを遠ざけ、自らを死へと突き落とす道です。神は私たちを、神による命の光の中を歩むようにと招いてくださっています。私たちはこのことを今改めて心の奥深くに刻み、新たな1年において、主イエスによって神に依り頼み、御言葉を賛美する者となるように強く導いていただくように祈りましょう。そして、各個人と、各家庭、教会の歩みも、神の御手の中にあることを信じ、主イエスの光の内に神の御前を歩かせていただきましょう。それにより、世の人々にも救いの光が届くことを私たちは期待できます。新たな困難や、試練も訪れるかもしれません。そのような時こそ一層主に祈り、御言葉の約束を信じ、より頼む信仰に立つことで、神は主イエスにおいて私たちの味方であり、愛を注いでいてくださることを悟らせていただけます。

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