「信じるなら神の栄光を見る」2022.1.9
 ヨハネによる福音書 11章28~44節

 私たちが目に見えない神を信じ、その御子イエス・キリストを信じているのは聖霊なる神が恵み深いお働きによって、私たちを信仰に導いてくださったからです。では、私たちがこの世で信仰を与えられて生きていく時、何が変わってくるのでしょうか。救いが与えられ、永遠の命が与えられます。少し角度を変えてみると、人生観世界観が新しくなります。今日の主イエスの御言葉では、信じるなら、神の栄光が見られる、と言っておられます。今日はこのことを中心に主イエスのなさったことを見、その御言葉に聞きましょう。


  1. 死人を前にしたイエス

 主イエスは、親しくしておられたラザロが病気であることを知らされてから、なお2日同じ所に滞在され、それから出かけられました。ついた時には既にラザロは死んで墓で既に4日も経っていました。ラザロの2人の姉妹、マルタとマリアに主イエスは会われますが、この2人とも全く同じことを口にします。日本語訳でもそうですが、原文でも一言一句同じです。恐らく2人の姉妹は、死にそうなラザロを前に、もしイエス様がいてくれたらよかったのに、ということを語り合っていたかもしれません。全く同じ気持ちを抱いていたのでした。しかしこの2人はやはり性格も違っていたようで、主イエスを前にしての行動は少々違いました。マルタは恐らく姉でしょうが、悲しい状況の中でも落ち着きを失わず、村に来られたイエスを出迎えます。しかしマリアは家に留まり、イエスがお呼びだというマルタの言葉を聞いてから初めて立ち上がり、イエスのもとに行きますが、イエスを見るなり足元にひれ伏した上で、先ほどの言葉を発し、そして泣いていたのでした。あふれる感情を抑えきれなかったのでしょう。

 この様子をご覧になった主イエスはマリアや一緒に来た人たちの泣く姿を見て、「心に憤りを覚え、興奮」して言われたとあります(33節)。このイエスの様子を巡っては、理解の仕方が人によって多少違うようです。つまり、人の死を前にして、神の御子であるイエスは、私たちのように死を前にして無力な、普通に弱さと罪を持つ人間とは違って、感情に動かされることはないのではないか、というような考え方です。確かに私たちは、死というものを前にすると、平静ではいられません。どんなに神を信じ、また復活を信じていても、目の前で自分の特に愛する者が死んでしまった時に全く冷静ではいられないでしょう。そして時には嘆き悲しんで取り乱してしまうことすらあります。

 主イエスが心に憤りを覚え、興奮された、とありますが、新改訳では「霊に憤りを覚え、心を騒がせて」、聖書協会共同訳では「憤りを覚え、心を騒がせて」、口語訳では「激しく感動し、また心を騒がせ」となっています。これらのことは私たちの日常生活の中でも時にあります。この2つの表現が重ねて言われているのは、そのような人間の持つ激しい感情、大きく心を動かされている状態を表しているからで、身近に主イエスを見ていたヨハネは、主イエスのそのような姿を見て、この2つの言葉で表現したのです。つまり、主イエスは神の御子であられるけれども、私たちと同じ人間なので、そういう人間としての感情を持ち、それを大きく動かされることもあるのです。この点について、イエスは神の御子なのだから、この世の様々なことで心を激しく動かされたり、興奮したりすることはないはずだ、という考えもあったようです。しかし、そうだとすると、主イエスは人間としての感情を持ち合わせておらず、人間ではないことになってしまいます。確かにイエスには神の前に罪はありません。しかし人間としての感情を持っておられます。ただ、その感情を時に爆発させてしまったり、溢れださせて自分で制御できなくなってしまったりするのが私たち罪人ですが、主イエスはそのようなことはなく、十分な節度を持っておられたとみるべきです。

 また、イエスは涙を流されました。心に憤りを覚え、興奮し、涙を流されたのは何故でしょうか。それは単に愛する人が死んだことを悲しまれたというだけではなく、人に大きな悲しみをもたらす死そのものに対する憤りであり、死を人にもたらした罪そのものに対する憤りでもあり、その中に悲しみ苦しみ人間の姿を味わわれたのでした。しかし主イエスはそのような悲しみの内に埋没してしまうことはなく、御自身がなすべきことに向かわれます。


  2.イエスを信じる者は神の栄光を見られる

 主イエスは墓に来られて言われました。「石を取りのけなさい」と。マルタは極めて現実的な、常識的なことを言います。しかし主イエスは全く別のことを見ておられました。「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われます。これは、11章25、26節で言われたこと、「わたしを信じる者は、死んでも生きる、生きていてわたしを信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と言われた御言葉を指しています。そこでは主イエスは永遠の命に関わることを語っておられました。しかし、その前に「あなたの兄弟は復活する」とも言われました(23節)。マルタが言うようにやがて終りの時に復活することは確かですが、主イエスはここではラザロが生き返ることを語られました。やがて終りの日に、御自身を信じる者たちを栄光の内に復活させることのできる主イエスは、今、病気で死んで葬られて4日も経っているラザロをすら、生き返らせることができることを示されます。これによって、神の栄光が見られると主イエスは言われたのでした。

 11章前半についてお話しをした際、神の栄光は信仰がなければ見ることはできないと申しました。偶然や運任せの生き方では神の栄光を認めることはできません。そして神の栄光を仰がせてくださいという祈りの心をもって主なる神について行くことが大事であると。私たちは今日、神の栄光をどこで見るのでしょうか。


  3. ほどいてやって行かせなさい

 神の栄光をどこでどのように見るのか、ということについて、今日の箇所で主イエスが最後に言われた御言葉に大きな気づきを与えられます。手と足を布でまかれたまま出て来たラザロに対して、主イエスは「ほどいてやって、行かせなさい」と言われます。ラザロは恐らく自分に何が起こったのかよく分からなかったことでしょう。しかし、彼は主イエスの「ラザロ、出て来なさい」という大きな声が聞こえたので、とにかく手足は布でまかれたままで、顔も覆いで包まれていたままの状態ですが、そのままの状態で主イエスの御言葉に従って出て来たのです。

 ここに、私たちが主イエスに呼びかけられて、新たな命に生かされる時のことが重なって見えてくるように思います。この箇所はことさらにそのことを教えているわけではなく、単純に死んでいたラザロがイエスの声によって直ちに生き返ったことを記しているだけですから、聖書を読む時に、こういう場面であまり象徴的な意味を読み込まない方がよいのですが、それでも、このラザロの姿は、まるで主イエスに呼びかけられた私たちそのものです。私たちは生まれた時から様々な物に絡められて目も耳も覆いで包まれ、手足も何かで巻かれて自由を失っていました。いやむしろ、ラザロのように死んでいました。手足を布で巻かれて、顔も覆いで包まれているのは死んだ者の姿です。それが、主イエスの「出て来なさい、私のもとに来なさい」という力強い声によって目を覚まされ、自分の置かれている状況がまだ良くは分かっていないけれども、主イエスの呼ぶ声に従って、目を覚まし、起き上がり、とにもかくにも出て来たのです。そして死人を包んでいたものをほどかれて、新たな歩みへと歩み出させていただいたのです。

 今日のお話では、主イエスによって神の栄光を見せていただいたのは、マルタとマリア、そして周りにいる多くの人々でした。しかしラザロはどうだったでしょうか。彼を通して他の人々は栄光を見たのですが、彼は自分の身に起こったことを後から聞いて、主イエスがそんなに素晴らしいことをしてくださったのか、と感じ入ったことでしょう。そして彼も主を讃美し、その栄光を現したはずです。彼は自分の身に神の栄光が照らしだされたことを知ったのです。  また、主イエスは「もし信じるなら、神の栄光が見られる」と言われたのですが、さて、マルタやマリア、周りにいたユダヤ人たちは、ここで主イエスがなさること、ラザロを生き返らせることを信じて期待していたでしょうか。どうもそうは見えません。ところが主イエスはそれにはお構いなしのように、天の父を仰いで話しておられます。そして言っておられます。「あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」と。つまり、主イエスは、彼らがイエスによってなされる神の素晴らしい御業によって栄光を見て、そして、主イエスこそ天の神のもとから来られた神の御子であることを信じるようになることを望んでおられるのです。

 ですから、このお話で主イエスの御業を見た私たちが、主イエスを信じ、そしてラザロに起こったのと丁度同じことが私たちにも起こっているのだと知って、主イエスの道を歩み始めることで、主イエスが本当に神の御子キリスト、救い主であると知り、今この世で新たな命に生かされていることを悟り始めるのです。そして様々な出来事も、何もかもすべては神の御手のもとにあり、私たちはその中で神の栄光をほめたたえてゆけるのです。何よりも私たち自身が、神に感謝して礼拝する者となることが、それ自体神の栄光を現し、神の栄光を見ていることになるのです。

 主イエスがお生まれになったその時、天使たちが天から現れて羊飼いたちに神の栄光を見せてくれました。私たちもいずれそのような神の栄光を見させていただける時が来るでしょう。しかしこの世では、そういう目覚ましいものではなく、神の栄光は私たちの中に、私たちの間に表されます。私たちが主イエスを信じて歩みだすこと、互いの中に主イエスがおられることを認め、主の恵みを感謝していくことの中に神の栄光は現されていることを知りましょう。

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