「羊の名を呼ぶ羊飼い」2021.10.17
ヨハネによる福音書 10章1~6節
主イエスは、生まれつき目の見えなかった人の目を見えるようにしてあげた後、ヨハネによる福音書の中でも、大変有名な羊飼いのたとえを話されます。9章の終りで見える人と見えない人について語られましたが、それは、結局のところ主イエスにつながるかそうでないかの違いです。この10章で語られる羊と羊飼いのたとえは、そのことについて更に教えているものです。私たちはこの教えを聞くときに、私は主イエスの羊として聞いているのだろうか、どうかを問われているのです。既に主イエスを信じた者は、自分を羊に当てはめ、主イエスを羊飼いに当てはめて受け止めているわけですが、改めて、主イエスが自分の羊飼いであることを顧みる機会としたいものです。まだその信仰に至っていない方に対しても、主イエスはこの世の歩みの中で、私たちを誤りなく導いてくれる羊飼いとして語りかけ、招いておられるのです。
1.盗人か羊飼いか
主イエスがはっきり言っておく、と言われる時は、よほど大事なことを語られる時です。「よくよく言っておく」、とか「まことに、まことに、あなたがたに告げます」などと訳されます。「アーメン、アーメン、私は言う」という意味です。このたとえの内容そのものを見る前に、一つ確認しますが、このようなたとえを用いてのお話しの場合、登場する人やものについて、一つ一つあまり細かく当てはめなくてもよい、という点です。羊の囲い、門、門番、盗人や強盗、そして彼らが乗り越えてくる他の所、などなど、いちいち現実の何かに当てはめるのではなく、真の羊飼いとそうでないものとの区別を教えているということです。ただし、羊飼いは主イエスを、羊は主を信じる民のことを表すという点ははっきりしています。他のたとえ話でもそうですが、その話の中心となる教えを聞きとり、周辺でたとえられているものは、その真理を教えるための道具立ての役割を持っているに過ぎない、ということです。
今日の箇所で主イエスは、御自分のことを当てはめて語っておられませんが、7節以降ですぐにはっきりとそのことを語られます。今日の箇所では、まず羊と羊飼いのたとえによって、その間にある親密さ、非常に強いつながりを述べておられます。要するに羊は、羊飼い以外の者にはついて行かないということです。
2.羊は羊飼いの声を聞き分ける パレスチナでは、羊たちは人の背丈くらいの高さの石垣で出来た囲いの中で飼われており、出入り口は一つしかなかったようです。門番は羊飼いには門を開くけれども、盗人や強盗には門を開きません。当然のことです。ですから羊は、ちゃんと門から入ってくる羊飼いには安心してついて行きます。ここには語られておりませんが、このお話の背後には、神は御自分の民をもっておられる、という事実があります。神は御自分の民を知っておられ、そしてその者たちを救うためにこの世に御自身の御子イエスをお遣わしになりました。そのことをまず覚えておくと、この主イエスの羊飼いのたとえが分かり易くなります。そして、神の民である羊には、自分たちの所に来た方が本当に自分たちのための羊飼いなのかを見極めるための決定的な点があります。
それは羊がその声を聞き分ける、ということです。それは、その声を知っているからです。なぜ知っているのか。それは、羊と羊飼いという関係が既にあるからです。もちろん、普通の羊飼いと羊や、あるいは親と子どもの関係でもそうですが、ずっと同じ声で呼ばれているので、親とか羊飼いの声として認識しているのだ、ということは言えますが、主イエスという羊飼いと、主を信じる民という羊との間では、聞き慣れているからということではなく、初めからその結びつきがあるのです。これは、私たちのあずかり知らぬところで、既に与えられている関係です。
つまり、主イエスを信じるに至った人は、神の羊の囲いに既に入れられていたのであり、そこに来るべき羊飼いである主イエスがやって来られて、御自身が羊たちの羊飼いであることを明らかにしてくださったのでした。ですから、私たちがある時主イエスに出会い、教会に集うようになり、信仰に入ってくるようになるのは、たまたまでも偶然でもなく、羊と羊飼いの関係がもともと神によって備えられていたので、それが実現したということです。だからこそ、羊は羊飼いの声を聞き分けることができるということです。
3.羊は名を呼ばれて羊飼いについて行く
そういうわけで、羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出すことができます。連れ出して先頭に立っていく、というのも実際の羊と羊飼いの様子をたとえたもので、この世における主イエスを信じる者の歩みは、常に主イエスの後について行くことを表しています。実際に羊飼いは羊に名前をつけて呼び、個別に見分けることができるそうです。
このたとえは、羊飼いである主イエス・キリストと主を信じる人々との関係を表すものですから、羊飼いが羊を呼んで連れ出すことと、先頭に立って連れ出すことは、やはり主イエスと信じる者の関係を表しているものです。先ほども言いましたが、イエスを信じる者がイエスを救い主と信じ告白するのは、まず主の方が私たちを知っておられて、それぞれの名を呼んでくださるからです。私たちがまだ主を知らない時から、主の方は私たちを知っておられ、そして呼び出す時も定めておられるのです。
神の聖霊が、私たちの内に信仰を働かせ、有効召命において私たちを主イエスに結び付けてくださり、救いを当てはめてくださることが明らかになってきます(ウェストミンスター小教理問答問30)。有効召命の教理が、この羊飼いのたとえの中に示されています。私たちが聖書を通してイエス・キリストの御言葉に触れ、そのなさったことに関心を抱くようになり、教会の礼拝で救い主イエスに近づいてゆきます。そして自分が知る前から、主イエスの方では自分のことを知っていてくださって、名前を呼んで召し出してくださったことを知るのです。
それゆえ、私たちが主イエスを信じて信仰を持つようになり、そして信仰の告白に至り、洗礼を受けるということは、羊飼いが羊の名を呼んで連れ出し、そして新たな世界へと招き出してくださったということなのです。そして、今度は、私たちの側が羊飼いである主イエス・キリストの御名を呼ぶようになります。羊は、自分の名前を呼ばれると、名前を呼んでくださった方のことを知ろうとするようになります。私たちが教会で聖書を通し、礼拝を通してますます主イエスのことを知るようになるのがそれを表しています。
この世には様々な声が満ちています。諸宗教、思想、哲学、人生観等、実に様々です。その中でイエス・キリストを信じた人は、自力で主イエスを羊飼いと認めて選んだわけではありません。自分で選んだように見えても、実は主イエスの方が私たちの気づく前に私たちを呼んで御許に招いてくださったのです。そして羊は不思議にも羊飼いの声を知っています。これは、主の方が聖霊によって信仰を起こして私たちを信仰に導いてくださったからです。
そして信仰の歩みを続けてゆく中で、信じた者はそれから後にも、羊飼いの声を様々な場面で聞くことになります。教会の礼拝において、聖書を学び読むことを通して、祈りによって、そして兄弟姉妹たちの信仰を通して。そして種々の出来事の中にも、私たちは羊飼いなる主の御声を聞くのです。その御声を聞き分けることができますように。
この羊飼いは、この世に対する主権をも持っておられます。すべてのことを御手の内に従えることのできるお方です。この羊飼いは、御自分の羊の中でしか御力を発揮できないような方ではありません。天地の主です。天と地の一切の権能を父なる神から授かっておられる主です。ですから、羊であるクリスチャンたちの信仰は、決して自分とその周辺だけの小さな世界の中だけで生きているものではありません。常に世界にも目を向けていることができます。たとえ主の民は小さく見えたとしても、その主であられるお方は全世界に対して主であるお方です。私たちはこのことを忘れないようにすべきです。そのようなお方だからこそ、一人一人の羊にも力強く御声をかけて名を呼び、召し出し、牧場へと連れ出すこともできるのです。
ファリサイ派の人たちは、聖書の知識はそれなりにありましたが、聖書(旧約聖書)で主なる神が語っておられたことがこのイエスというお方において実現していることを悟れませんでした。なんのことか分からなかったのです。今、私たちは、この主の御言葉が分かるように聖霊に導いていただけます。その御声に聞き従い、他の者の声に惑わされることなくついてゆけるように聖霊の助けを祈り求めます。求める者に父なる神は聖霊をくださるのです。
1.盗人か羊飼いか
主イエスがはっきり言っておく、と言われる時は、よほど大事なことを語られる時です。「よくよく言っておく」、とか「まことに、まことに、あなたがたに告げます」などと訳されます。「アーメン、アーメン、私は言う」という意味です。このたとえの内容そのものを見る前に、一つ確認しますが、このようなたとえを用いてのお話しの場合、登場する人やものについて、一つ一つあまり細かく当てはめなくてもよい、という点です。羊の囲い、門、門番、盗人や強盗、そして彼らが乗り越えてくる他の所、などなど、いちいち現実の何かに当てはめるのではなく、真の羊飼いとそうでないものとの区別を教えているということです。ただし、羊飼いは主イエスを、羊は主を信じる民のことを表すという点ははっきりしています。他のたとえ話でもそうですが、その話の中心となる教えを聞きとり、周辺でたとえられているものは、その真理を教えるための道具立ての役割を持っているに過ぎない、ということです。
今日の箇所で主イエスは、御自分のことを当てはめて語っておられませんが、7節以降ですぐにはっきりとそのことを語られます。今日の箇所では、まず羊と羊飼いのたとえによって、その間にある親密さ、非常に強いつながりを述べておられます。要するに羊は、羊飼い以外の者にはついて行かないということです。
2.羊は羊飼いの声を聞き分ける パレスチナでは、羊たちは人の背丈くらいの高さの石垣で出来た囲いの中で飼われており、出入り口は一つしかなかったようです。門番は羊飼いには門を開くけれども、盗人や強盗には門を開きません。当然のことです。ですから羊は、ちゃんと門から入ってくる羊飼いには安心してついて行きます。ここには語られておりませんが、このお話の背後には、神は御自分の民をもっておられる、という事実があります。神は御自分の民を知っておられ、そしてその者たちを救うためにこの世に御自身の御子イエスをお遣わしになりました。そのことをまず覚えておくと、この主イエスの羊飼いのたとえが分かり易くなります。そして、神の民である羊には、自分たちの所に来た方が本当に自分たちのための羊飼いなのかを見極めるための決定的な点があります。
それは羊がその声を聞き分ける、ということです。それは、その声を知っているからです。なぜ知っているのか。それは、羊と羊飼いという関係が既にあるからです。もちろん、普通の羊飼いと羊や、あるいは親と子どもの関係でもそうですが、ずっと同じ声で呼ばれているので、親とか羊飼いの声として認識しているのだ、ということは言えますが、主イエスという羊飼いと、主を信じる民という羊との間では、聞き慣れているからということではなく、初めからその結びつきがあるのです。これは、私たちのあずかり知らぬところで、既に与えられている関係です。
つまり、主イエスを信じるに至った人は、神の羊の囲いに既に入れられていたのであり、そこに来るべき羊飼いである主イエスがやって来られて、御自身が羊たちの羊飼いであることを明らかにしてくださったのでした。ですから、私たちがある時主イエスに出会い、教会に集うようになり、信仰に入ってくるようになるのは、たまたまでも偶然でもなく、羊と羊飼いの関係がもともと神によって備えられていたので、それが実現したということです。だからこそ、羊は羊飼いの声を聞き分けることができるということです。
3.羊は名を呼ばれて羊飼いについて行く
そういうわけで、羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出すことができます。連れ出して先頭に立っていく、というのも実際の羊と羊飼いの様子をたとえたもので、この世における主イエスを信じる者の歩みは、常に主イエスの後について行くことを表しています。実際に羊飼いは羊に名前をつけて呼び、個別に見分けることができるそうです。
このたとえは、羊飼いである主イエス・キリストと主を信じる人々との関係を表すものですから、羊飼いが羊を呼んで連れ出すことと、先頭に立って連れ出すことは、やはり主イエスと信じる者の関係を表しているものです。先ほども言いましたが、イエスを信じる者がイエスを救い主と信じ告白するのは、まず主の方が私たちを知っておられて、それぞれの名を呼んでくださるからです。私たちがまだ主を知らない時から、主の方は私たちを知っておられ、そして呼び出す時も定めておられるのです。
神の聖霊が、私たちの内に信仰を働かせ、有効召命において私たちを主イエスに結び付けてくださり、救いを当てはめてくださることが明らかになってきます(ウェストミンスター小教理問答問30)。有効召命の教理が、この羊飼いのたとえの中に示されています。私たちが聖書を通してイエス・キリストの御言葉に触れ、そのなさったことに関心を抱くようになり、教会の礼拝で救い主イエスに近づいてゆきます。そして自分が知る前から、主イエスの方では自分のことを知っていてくださって、名前を呼んで召し出してくださったことを知るのです。
それゆえ、私たちが主イエスを信じて信仰を持つようになり、そして信仰の告白に至り、洗礼を受けるということは、羊飼いが羊の名を呼んで連れ出し、そして新たな世界へと招き出してくださったということなのです。そして、今度は、私たちの側が羊飼いである主イエス・キリストの御名を呼ぶようになります。羊は、自分の名前を呼ばれると、名前を呼んでくださった方のことを知ろうとするようになります。私たちが教会で聖書を通し、礼拝を通してますます主イエスのことを知るようになるのがそれを表しています。
この世には様々な声が満ちています。諸宗教、思想、哲学、人生観等、実に様々です。その中でイエス・キリストを信じた人は、自力で主イエスを羊飼いと認めて選んだわけではありません。自分で選んだように見えても、実は主イエスの方が私たちの気づく前に私たちを呼んで御許に招いてくださったのです。そして羊は不思議にも羊飼いの声を知っています。これは、主の方が聖霊によって信仰を起こして私たちを信仰に導いてくださったからです。
そして信仰の歩みを続けてゆく中で、信じた者はそれから後にも、羊飼いの声を様々な場面で聞くことになります。教会の礼拝において、聖書を学び読むことを通して、祈りによって、そして兄弟姉妹たちの信仰を通して。そして種々の出来事の中にも、私たちは羊飼いなる主の御声を聞くのです。その御声を聞き分けることができますように。
この羊飼いは、この世に対する主権をも持っておられます。すべてのことを御手の内に従えることのできるお方です。この羊飼いは、御自分の羊の中でしか御力を発揮できないような方ではありません。天地の主です。天と地の一切の権能を父なる神から授かっておられる主です。ですから、羊であるクリスチャンたちの信仰は、決して自分とその周辺だけの小さな世界の中だけで生きているものではありません。常に世界にも目を向けていることができます。たとえ主の民は小さく見えたとしても、その主であられるお方は全世界に対して主であるお方です。私たちはこのことを忘れないようにすべきです。そのようなお方だからこそ、一人一人の羊にも力強く御声をかけて名を呼び、召し出し、牧場へと連れ出すこともできるのです。
ファリサイ派の人たちは、聖書の知識はそれなりにありましたが、聖書(旧約聖書)で主なる神が語っておられたことがこのイエスというお方において実現していることを悟れませんでした。なんのことか分からなかったのです。今、私たちは、この主の御言葉が分かるように聖霊に導いていただけます。その御声に聞き従い、他の者の声に惑わされることなくついてゆけるように聖霊の助けを祈り求めます。求める者に父なる神は聖霊をくださるのです。
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