「羊が命を受けるため」2021.10.24
 ヨハネによる福音書 10章7~18節

 主イエス・キリストは、御自分と、御自分を信じる者たちの関係を羊飼いと羊にたとえられました。羊である信者たちは、羊飼いである主イエスの声を聞き分けてついてゆきます。今日も、今私たちがこうして聖書の御言葉に聞き、羊飼いである主イエスについて行っているのは、その現われです。


  1.イエスは良い羊飼いである

 主イエスは再び「はっきり言っておく」と言われます。6節までで羊飼いと羊という大事な関係のことを述べた時にも初めに言われました。今度は更にそのことを深く掘り下げたお話をされます。それだから、またよく聞きなさい、という気持ちを込めて言われるのです。今日の箇所では、羊の門とはご自分のことであると語られました。羊飼いでもあり門でもあるのです。羊飼いがイエス、羊が信じてついてゆく者たちであるという点を抑えておけばよいのです。

 主イエスは「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である」と言われました。主イエスより前に来た者とは、これまでにイスラエルに登場した預言者たちのことではありません。彼らは盗人や強盗であるはずがありません。預言者たちは、救い主イエスが世に現れる400年ほど前にはすでに現れなくなっていました。旧約聖書に名前を残しているそのような預言者たちではなくて、旧約聖書の最後の預言者たちの後、イエスの登場まで四百年ほどの間にいろな指導者たちがいまして、主イエスの時代まで続いてきていますが、今、イエスを受け入れずに殺そうとまでしている指導者たちがいます。恐らくそのようなユダヤ人の指導者として自他共に認めている人々のことを指していると思われます。旧約聖書に登場する預言者たちは、神の御子イエス・キリストを世にお送りくださる天の父なる神によって遣わされた人たちですから、当時の人々にはよく理解できなかったとしても、彼らは救い主なるイエスを知らせるために働きました。だから盗人でも強盗でもありません。

 結局、イエスがキリスト、救い主であられることを証言しない人々は、羊の門を通って入らない盗人、強盗である、ということです。そして彼らは羊を滅ぼしてしまおうとするので、羊たちはその言うことを聞こうとはしないのです。


  2.良い羊飼いは羊のために命を捨てる

 しかし、主イエスは良い羊飼いとして来られました。羊が命を豊かに受けることができるためにです。今日の題は「羊が命を受けるため」としましたが、イエス・キリストという羊飼いと、イエスを信じる羊、という関係を全く知らない方がこの題を見たらどのように受け止めるでしょうか。メーメー鳴くあの羊。その羊が命を受けるとはどういうことか。死んでしまった羊を生き返らせるのか等々。羊はもちろんイエス・キリストを信じる民のことですが、ここで言う命とは、今生きている命とは別の、新たな命です。

 この命は、私たちが赤ちゃんとして生まれてきて以来持っている命のことではなく、その生まれながらの命とは違う次元で新しく生まれることによっていただく命です。私たちが知っている、生まれながら皆が持っている命は、必ず限りがあります。心臓が働き、呼吸しており、脳が生きて働いている間はその命は保たれていますが、それらの活動が止まってしまえば人は命が失われた、ということになります。もっとも、脳死の問題などがあり、人の生き死にの境目をどこに置くか、ということは難しい面もあるようですが、それはともかく、臓器の働きが止まり、もう2度と回復しなくなり、意識も戻らない状態であれば人は死んだ、と言われます。そして、そこで命は終わりを告げます。死後、どうなるかという点は宗教や思想によって違ってもきますが、私たちがこの世で見聞きしており、経験している命は、1度受けてそれを失ったら終わりという風に見なされています。  しかしここで主イエスは全く違うことを言っておられるわけです。そして、このことは今まで主イエスが語って来られたことを抜きにしてはもちろん理解できません。既に主イエスは命について語ってこられました。「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3章3節)。「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(同6章40節)。主イエスがこの世に来られたのは、主イエスを信じる者に永遠の命を与えるためであり、そういう羊飼いとして世に来られたのでした。

 そして、10章9節で、「わたしを通って入る者は救われる」と言われました。命を受けることと救われることは同じです。どこへ入るのかいえば、羊の囲いであり、そこにいる者は羊飼いによって守られています。更に、羊飼いは羊のために命を捨てるとも言われました。実際羊飼いたちは、相手が狼や強盗に対して、命がけで戦うそうです。そのように主イエスという羊飼いは、羊のために十字架で命を捨て、羊に新しい命を与えてくださいます。

 実際の羊と羊飼いでは、羊は羊飼いが命がけで自分たちを守ってくれたとしても、どれだけ自覚しているでしょうか。羊飼いが死んでしまったとしても、良く分からないかもしれません。飼い犬や飼い猫も、飼い主が死んでしまったということが分からなくて、ずっといつもの場所で待ち続けている、という話を聞いたことがあります。では、人間の場合はどうでしょうか。神の御子であるイエス・キリストは、罪のない正しい聖なるお方です。その方が十字架で辱めを受け、血を流して死なれました。それは私たち、神に対して罪を犯している罪人のために罪の償いとして死んでくださったのでした。ところが、私たちははじめ、イエスの十字架の死を聞いても、その意味がわかりません。そしてその意味を知らされても、それがいかに重大な事であり、神の御子が私たちのために死んでくださったことがどれだけ感謝すべきことなのかがわからないのです。

 旧約聖書時代の預言者イザヤを通して主が語っておられます。「牛は飼い主を知り、ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず、わたしの民は見分けない」と(イザヤ書1章3節)。牛やろばの方がまだましだ、というのです。イスラエルは主なる神を知っているはずなのに見分けない。牛やろばよりも知恵はあるけれども、却ってその知恵が邪魔をして牛やろばのように素直に飼い主に従わないのです。これは全く、神の前での人間の罪深さをよく表しています。しかし、主の大きな恵みによって羊飼いの声を聞き分ける者たちがいます。その羊たちも神の前には罪ある者ですが、憐れみによって羊飼いの声を聞き分けられるのです。


  3.囲いに入っていない他の羊も導く羊飼い

 そして、羊飼いの声を聞き分けられる羊たちが、他にもいます。羊の囲いに入っていない羊です。羊の囲いに入っていない羊とは、イスラエル以外の世界中の人々の中にいる羊たちのことです。主イエスは、今はイスラエルの中で旧約聖書の預言者たちのことを知っている人々の中で語っておられます。まず神が選ばれた民であるイスラエルのもとに主イエスは来られて、そして神の救いの御言葉を語られました。しかし救い主イエスは全世界のための救い主です。ですから、世界中にイエスの声を聞き分ける羊がいます。主イエスは30数年の地上の生涯を終えてから、天に昇られましたので、御自身で世界中を歩き回ることはなさいませんでした。本当に限られたイスラエルの中でだけ、御言葉を語り、神の御業をなさいました。けれども、最初から主イエスの視野の中には、あらゆる時代のあらゆる国々の人々が入っています。その羊たちをも導かれるのです。

 そして、今ここで主を礼拝している私たちは、まさに主イエスが羊飼いとして導いてくださっている羊たちです。そして時代や国は違えども一人の羊飼いのもとに集められている一つの群れなのです。先週礼拝で読みましたハイデルベルク信仰問答の問54では、聖なる公同の教会について述べていました。神の御子が全人類の中から、御自身のために永遠の命へと選ばれた一つの群れがあって、一人の羊飼い、イエス・キリストがその御霊と御言葉とによって世の初めから終わりまで集め、守り、保たれると。

 最後にもう一つのことが言われています。この羊飼いなる主イエスは、命を捨てるけれども、それを再び受けることもできるということです。これは、イエスの十字架の死後、3日目に復活されることを指しています。ここでの主イエスの御言葉は、命を捨てることを簡単なことのように話しておられますが、これは福音書の受難と十字架の記事を見ればそんなに簡単なことではないとわかります。ここでは主イエスは父なる神から授かった掟としてこのことを語っておられますので、このように語っておられますが、実際に十字架の苦しみと、御自分にのしかかってくる人の罪の贖いの重さのゆえに、主イエスは大変な苦しみを味わわれました。それ故、ここだけ見ていると十字架の死は大変なことのように見えませんが、神の御子であっても人間としての心と体を持っておられる主イエスは、苦しみをあえてご自分の身に引き受けて十字架で命を献げられました。そうまでして、御自分の羊たちを救おうとされたのです。

 今ここにこうしている私たちも羊の囲いに初めはいなかった者ですが、今や羊飼いのもとに集められています。2,000年の時を隔てて、この主イエスの御言葉は実現しており、これからも実現し続けてゆきます。囲いの中にいない「その羊をも導かなければならない」という強い意志のもと、主はこの地上に教会を立て、福音宣教をずっと継続させ、その時代ごとに働き人を起こし続けてくださっているのです。今、私たちはその恵みにあずかっています。

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