「主の御前に清められる恵み」2021.10.10
レビ記16章29~34節
旧約聖書レビ記は、特に主なる神がモーセを通して与えられた律法の内容が初めから終わりまで一貫して語られます。そのため、イスラエルの人々の生活全般にわたる規範となるものです。大変細かい掟や規則が列挙されていますので、初めて読む時には、少々忍耐が必要かもしれません。しかし、このレビ記があるからこそ、今私たちに与えられている救い主イエス・キリストの十字架の死の意味がわかるのです。この書物がなかったら、主エスの十字架の死による罪の贖いの意味が私たちにはよくわからなくなってしまいます。そういう意味でこの書物によって、わたしたちは旧約聖書、新約聖書を通じて一貫している神様の救いの御計画と、その筋道立った教えの内容を悟らせていただけるのです。イエス・キリストというお方がこの世に登場されたのは、たまたまの出来事ではなく、主イエス・キリストがお生まれになるはるか昔から計画されていたことで、それを満たすため(実現するため)だったとわかります。
1.不変の定め
この16章では、新共同訳の見出しにあるように贖罪日について書かれています。年に一度、イスラエルのすべての人のために行われる罪の贖いのための儀式についてです。ここでは、まず大祭司の職務の重要さが示されています。16章の冒頭に、アロンの二人の息子が主の御前に近づいて死を招いた事件、というのがありますが、これは10章に書かれていました事件です。祭司は世襲制ですから、アロンの二人の息子も祭司でしたが、規定に反した炭火の上に香をたいて主の御前に献げたために厳しい裁きを受け、二人は主の御前に死にました。これだけみると何と厳しい裁きかと思うのですが、10章の9節を見ますと主はアロンに対して、「あなたであれあなたの子らであれ、臨在の幕屋に入るときは、ぶどう酒や強い酒を飲むな。死を招かないためである」と命じられていますから、もしかするとアロンの二人の息子は祭司でありながら酒に酔った状態で務めを行い、それで規定に反した炭火を用いてしまったのかもしれません。そうであれば、私たちの受け取り方もまた違ってくるでしょう。主の前に重要な祭司の務めを軽んじたための罰であったと思われるからです。
祭司たちも神の前に罪人であるには違いないので、罪の贖いの儀式をするためにはまず自分たちの罪の贖いをしなければなりません。そのための守るべき規定がここに記されています。そうして初めて民の罪の贖いの儀式を行うことができるのです。これは年に一回、イスラエルのすべての人のために、すべての罪の贖いの儀式を行うための不変の定めです。第7の月は今日の9月から10月にかけての時期です。この数え方は、イスラエルの人々がエジプトを脱出した時を正月としたことから始まっています(出エジプト記12章2節)。
この時に苦行をするように命じられていますが、これは「あなたがたの身を苦しめよ」という意味で、「身を慎みなさい」とか「自らを戒めなさい」という訳もあります。「断食をする」という意味もあります。何の仕事もせず、ただ主の前に自分のことを顧みて、自分の罪人たることを思い知り、主の前に悔い改めつつ贖いの日を迎えるということです。そしてすべての罪責が主の御前に清められることを、感謝を持って受け入れるのです。このことは時代が変わろうとイスラエルに属する人々の世代が変わろうとも不変の定めです。
2.年に一度の贖いの儀式
この民全体のための儀式は年に一度行われます。これは毎年繰り返さなければなりません。このことについて新約聖書のヘブライ人への手紙は救い主イエス・キリストの十字架の贖いと比較して述べています。旧約時代のレビ記の掟に基づく贖いは、毎年行うものですが、それはなぜかというといけにえの動物の血では人間の罪を完全に取り除くことができないからです(ヘブライ人への手紙10章4節)。しかし罪のない神の御子であるイエス・キリストが十字架にかかられたことにより、完全な贖いが成し遂げられました。それゆえ、イエスの十字架の贖いによって罪を贖ったいただいた者は、再び贖いをしてもらう必要がありません。それは旧約時代にずっと行われていたレビ記に基づく罪の贖いの儀式をもはや必要としない、ということです。ヘブライ書の記述を見ましょう。
「すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです」(ヘブライ人への手紙10章11~14節)。
今日、主イエス・キリストを救い主と信じる者は、この永遠の罪の贖いにあずかっています。それゆえ、もはや動物の犠牲の血は必要ありません。ただ主イエス・キリストにより頼み、その罪の贖いによる赦しをいただけるのです。
3.主の御前に清められる恵み
今日、主イエス・キリストを信じる者は、こうして主の御前に罪の赦しをいただき、罪責を清めていただけます。
つまり、神の前に自分の罪を追及されないのです。罪の責任を問われることがありません。救い主イエス・キリストが代わりに罪の責任を取ってくださったからです。主イエスは罪のない方ですから、旧約時代のアロンたちのようにまず自分の罪の贖いをする必要はありません。そういう罪なき、より頼むべき大祭司が与えられているのです。
では、今日私たちは、レビ記16章29節に言われていたような、苦行はしなくても良いのでしょうか。先ほど言いましたように、「身を苦しめる」「身を慎む」「自らを戒める」というようなことどうでしょうか。確かに今日、私たちはもはやこのレビ記の律法の掟に縛られてはいません。だから一年に1回、9月から10月にかけて、丁度今頃になるでしょうか、身を苦しめ、慎んで自らを戒めるということを掟として守り行うということはありません。しかし、年に1回ではなく、むしろ主の日ごとに主イエス・キリストの十字架の死と復活を思い、感謝して礼拝をします。
それは年に1回、しなければならないという縛りはありませんが、むしろ進んで覚えるべきものでもあります。私たちは主イエスの十字架の贖いの恵みについては、感謝しても仕切れるものではありません。だから私たちの日頃の生活は、世にある限りは主への感謝を表す生活となるものです。具体的には感謝の祈りと賛美をささげ、奉仕の業や献金をし、そして生活を通して与えられた働きをして主に仕えるという形で表されます。その表し方は、それぞれの事情によって千差万別です。自由に動き回れない人もいれば、教会の中で重要な奉仕を担う人もいます。それは様々ですが、与えられた恵みによって、それぞれの環境の中で主に仕えてゆくのです。
この世にある限りは、自分の罪を思い知らなければならないのが私たちですが、それにも拘らず既に主の御前に罪の赦しをいただいています。だからこそ私たちもまた自らを顧みて主イエスの十字架の恵みを本当に感謝して受け止め、主の御前に清めていただいた者として感謝と讃美と祈りと、賜物を用いて主の恵みに答えてゆきます。聖なる神が、私たちの罪を赦し、清めたいとお考えになって救い主を遣わしてくださいました。実に感謝すべき恵みです。
1.不変の定め
この16章では、新共同訳の見出しにあるように贖罪日について書かれています。年に一度、イスラエルのすべての人のために行われる罪の贖いのための儀式についてです。ここでは、まず大祭司の職務の重要さが示されています。16章の冒頭に、アロンの二人の息子が主の御前に近づいて死を招いた事件、というのがありますが、これは10章に書かれていました事件です。祭司は世襲制ですから、アロンの二人の息子も祭司でしたが、規定に反した炭火の上に香をたいて主の御前に献げたために厳しい裁きを受け、二人は主の御前に死にました。これだけみると何と厳しい裁きかと思うのですが、10章の9節を見ますと主はアロンに対して、「あなたであれあなたの子らであれ、臨在の幕屋に入るときは、ぶどう酒や強い酒を飲むな。死を招かないためである」と命じられていますから、もしかするとアロンの二人の息子は祭司でありながら酒に酔った状態で務めを行い、それで規定に反した炭火を用いてしまったのかもしれません。そうであれば、私たちの受け取り方もまた違ってくるでしょう。主の前に重要な祭司の務めを軽んじたための罰であったと思われるからです。
祭司たちも神の前に罪人であるには違いないので、罪の贖いの儀式をするためにはまず自分たちの罪の贖いをしなければなりません。そのための守るべき規定がここに記されています。そうして初めて民の罪の贖いの儀式を行うことができるのです。これは年に一回、イスラエルのすべての人のために、すべての罪の贖いの儀式を行うための不変の定めです。第7の月は今日の9月から10月にかけての時期です。この数え方は、イスラエルの人々がエジプトを脱出した時を正月としたことから始まっています(出エジプト記12章2節)。
この時に苦行をするように命じられていますが、これは「あなたがたの身を苦しめよ」という意味で、「身を慎みなさい」とか「自らを戒めなさい」という訳もあります。「断食をする」という意味もあります。何の仕事もせず、ただ主の前に自分のことを顧みて、自分の罪人たることを思い知り、主の前に悔い改めつつ贖いの日を迎えるということです。そしてすべての罪責が主の御前に清められることを、感謝を持って受け入れるのです。このことは時代が変わろうとイスラエルに属する人々の世代が変わろうとも不変の定めです。
2.年に一度の贖いの儀式
この民全体のための儀式は年に一度行われます。これは毎年繰り返さなければなりません。このことについて新約聖書のヘブライ人への手紙は救い主イエス・キリストの十字架の贖いと比較して述べています。旧約時代のレビ記の掟に基づく贖いは、毎年行うものですが、それはなぜかというといけにえの動物の血では人間の罪を完全に取り除くことができないからです(ヘブライ人への手紙10章4節)。しかし罪のない神の御子であるイエス・キリストが十字架にかかられたことにより、完全な贖いが成し遂げられました。それゆえ、イエスの十字架の贖いによって罪を贖ったいただいた者は、再び贖いをしてもらう必要がありません。それは旧約時代にずっと行われていたレビ記に基づく罪の贖いの儀式をもはや必要としない、ということです。ヘブライ書の記述を見ましょう。
「すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです」(ヘブライ人への手紙10章11~14節)。
今日、主イエス・キリストを救い主と信じる者は、この永遠の罪の贖いにあずかっています。それゆえ、もはや動物の犠牲の血は必要ありません。ただ主イエス・キリストにより頼み、その罪の贖いによる赦しをいただけるのです。
3.主の御前に清められる恵み
今日、主イエス・キリストを信じる者は、こうして主の御前に罪の赦しをいただき、罪責を清めていただけます。
つまり、神の前に自分の罪を追及されないのです。罪の責任を問われることがありません。救い主イエス・キリストが代わりに罪の責任を取ってくださったからです。主イエスは罪のない方ですから、旧約時代のアロンたちのようにまず自分の罪の贖いをする必要はありません。そういう罪なき、より頼むべき大祭司が与えられているのです。
では、今日私たちは、レビ記16章29節に言われていたような、苦行はしなくても良いのでしょうか。先ほど言いましたように、「身を苦しめる」「身を慎む」「自らを戒める」というようなことどうでしょうか。確かに今日、私たちはもはやこのレビ記の律法の掟に縛られてはいません。だから一年に1回、9月から10月にかけて、丁度今頃になるでしょうか、身を苦しめ、慎んで自らを戒めるということを掟として守り行うということはありません。しかし、年に1回ではなく、むしろ主の日ごとに主イエス・キリストの十字架の死と復活を思い、感謝して礼拝をします。
それは年に1回、しなければならないという縛りはありませんが、むしろ進んで覚えるべきものでもあります。私たちは主イエスの十字架の贖いの恵みについては、感謝しても仕切れるものではありません。だから私たちの日頃の生活は、世にある限りは主への感謝を表す生活となるものです。具体的には感謝の祈りと賛美をささげ、奉仕の業や献金をし、そして生活を通して与えられた働きをして主に仕えるという形で表されます。その表し方は、それぞれの事情によって千差万別です。自由に動き回れない人もいれば、教会の中で重要な奉仕を担う人もいます。それは様々ですが、与えられた恵みによって、それぞれの環境の中で主に仕えてゆくのです。
この世にある限りは、自分の罪を思い知らなければならないのが私たちですが、それにも拘らず既に主の御前に罪の赦しをいただいています。だからこそ私たちもまた自らを顧みて主イエスの十字架の恵みを本当に感謝して受け止め、主の御前に清めていただいた者として感謝と讃美と祈りと、賜物を用いて主の恵みに答えてゆきます。聖なる神が、私たちの罪を赦し、清めたいとお考えになって救い主を遣わしてくださいました。実に感謝すべき恵みです。
コメント
コメントを投稿