「主よ、信じます」2021.10.3
 ヨハネによる福音書 9章35~41節

 生まれつき目の見えなかった人が、主イエスによって目を開かれ見えるようになりました。この人は、単に視力を与えられただけではなく、自分の目を開けてくれた方が、神のもとから来られた方である、という確信を与えられました。それは、周りの人が何を言おうと、確かに自分の目を開けてくださったのであり、この事実は誰も曲げることができない、という強い確信があったからでした。私たちは、自分に確かに与えられたものについては、どんな科学的証拠を出せとか、論理的に十分な説明をせよ、と迫られたとしても、確信をもって語ることができます。私たちはこの目の見えなかった人に起こったことから、そのことを学びました。


  1.その方を信じたい

 しかしこの人の態度が気に食わなかったファリサイ派の人々は、彼を追い出します。目を開けてくれた方は神のもとから来られた方だ、という言葉が、ファリサイ派の人たちには受け入れがたいものだったのです。しかし、追い出された彼の前に主イエスが来てくださいました。この世の指導者たち、多くの人々が認めている権力や権威、そのような者によって追い出されたことによって、却ってこの人は主イエスに出会う機会を与えられました。

 主イエスとこの人のやり取りは、これだけ見ていると目の見えなかった人が見えるようにしていただき、そして主イエスを信じるようになった経過を、圧縮して語っているように見えます。主イエスは「あなたは人の子を信じるか」といきなり聞かれます。するとこの人は「それはどんな人ですか。その方を信じたいのですが」と答えます。人の子という言い方は、主イエスが御自身のことを言われる時に使われる独特の表現です。旧約聖書の終り頃の時代では、人の子のようなもの、としてダニエル書に登場しますが、それはやがて天から来られるメシア=キリストを表すものです。ただ単に人間という意味ではなくそれ以上の、特別な存在としての意味があります。主イエスとこの人の間にも、そういう意味での人の子を信じるかという問答が成り立っていたとみることができます。

 彼は、自分の目を開けてくれた方を信じたい、と言っています。彼の中では自分の目を開けてくださった方こそその方に違いないという思いがあって、今や目の前に現れてくださった方がその方だ、という確信に至ったのでした。

 彼は、目の前に現れた主イエスを見て、そのイエスから「あなたはもうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」と言われてすぐに信じます。なぜそんなにすぐに信じられたのでしょう。やはり、文面からだけではわからない二人の間に通ずるものがあったのだと思います。

 彼は一度主イエスの声を聞いていました。目の見えない方はその分耳が敏感だということを聞いたこともあります。恐らく彼も、一度聞いた主イエスの声を覚えていたのではないでしょうか。目を開いていただいたときは姿を見ていなかったのですが、その声と話し方は耳に残っていたはずで、その方が目の前に来てくださったとき、声の記憶と、その御言葉とが相まって、「主よ、信じます」という告白へと導かれたのだと思います。彼にとっては、目の前に来られた主イエスが、自分の目を開けてくださった方、神のもとから来られた方だということについて、何の疑いも抱く必要がなかったのです。


  2.裁くために来られた主イエス

 目の見えなかった人は、これまでなかった視力を与えられました。しかし同時に神から来られた方を見る信仰の目を与えられました。そして彼にとっては、視力を与えられたことに勝るとも劣らない大きな恵みをいただいたのです。主イエスは、御自身がこの世に来られたのは、裁くためである、と言われました。救い主イエスがこの世に来られた目的は、救い主と言われるとおり、世の人々を救うためです。しかし別の角度からみると裁くためです。裁くとは、イエスのなさったことにより、ある者は罪から救われるけれども、ある者はそのまま罪の内に留まることを表します。

 「見えない者が見えるようになる」とは、神について知らず、自分の罪について知らず、救い主を知らなかった者が、神の恵みによって信仰を与えられ、イエスを救い主と信じてその前にひれ伏すようになることです。逆に「見える者が見えないようになる」とは、ファリサイ派の人々がそうであったように、自分たちは神を知っている、世に登場してきて神の言葉を語っているというイエスという人に教えてもらわなくても、自分たちはこれまで旧約聖書に記されている教えによって、モーセの律法も神の御業も知らされている。自分たちは神の選ばれた民なのだ、という強い自負の中にいたわけです。自分たちは十分見えていると思っている。しかしそういう人たちは本当に神のもとから来られた神の御子イエスのことを認めることができません。つまり、見えていると思っていたけれども、実は神の御業が見えていないのでした。そしてイエスを受け入れられないということは、神御自身をも信仰によって見ることができない、ということなのです。そのように、イエスに対してどのような態度を取るかによって見えるようになるか、見えないようになるか、この大きな違いが出てきます。そのような結果をもたらすことを裁く、と言っておられます。


  3.主よ、信じます

 これを聞いたファリサイ派の人々は、我々も見えないということか、と聞いてきます。実は彼らがこのように聞いてきたときに、見えないということを認めて、主イエスの前にへりくだるならば、罪は取り除かれる道はありました。しかし主イエスが言っておられるように、自分たちは見える、と言っている限り、罪は残ります。なぜなら、神から与えられた罪の贖い主、罪を赦す権威を持つお方を退けてしまうことになるからです。

 私たちは、まず自分は見えない者であることを認めなければなりません。そして主イエスの前にへりくだり、主と仰ぐならば罪の赦しが与えられ、主を信じる者の内に加えていただけます。今日、私たちもまた、主イエスが目の前に来てくださっています。聖書を通して、この方こそ真の救い主と信じる信仰へと招いてくださっています。そして「主よ、信じます」という信仰の告白へと導いてくださるのです。

 そして「信じます」という告白は、あなたこそ神の御子、私の救い主であると信じます、という告白ですが、同時にもう一つの面があります。信じるということは、自分の命も成り行きも、すべて主イエスにゆだねるということです。ということはこれから先何が起ころうとも、それは主の御心によるのであるから、とにかく後に従ってゆきます、という決断を伴う信仰の告白です。自分にとっていつも良いことをこの世で与えてくださるなら信じてついてゆくという条件付きの信仰ではないのです。

 主イエスは信じた者を神のものとして贖い取ってくださったのだから、神の国が約束されています。しかしこの世では、まだ信仰によって歩む中で様々な困難なことや試練が待っています。しかしそれは信じた者をふるいにかけて落とすためではなく、ますます主により頼む者となるためです。私たちは栄光の神の国がどれほど素晴しいものなのかがまだわかっていません。だから信仰によって歩む時に、主よ、信じます、どうぞ導いて助けて下さい、と祈り続ける必要があります。しかし、主イエスは、私たちの歩む道に伴ってくださるお方です。時には途方に暮れそうになることもあるかもしれません。しかし主は信じる者を困難な状況の中に放っておかれるのではなく、私たちの弱さを見ておられて必要な助けや御言葉をくださいます。私たちはそれを受け取るために、祈り求める信仰が必要です。

 さて、目を見えるようにしていただいた人は、「その方を信じたいのですが」と言いました。この世で、本当に信じて自分をゆだねてゆける方がおられるということは、何と幸いなことでしょう。何を信じたいけれども、それが分からない、という人は多いかも知れません。良く聞く言葉に、自分を信じて進めばよい、そうすれば結果はついてくる、というようなものがあります。自分など信じるに足るものでしょうか。自分の命がどうなるかわからないと言う時に、自分を信じていくなどというのは実につらい、絶望的でさえあるのではないかと思います。

 確かにこの世ではある努力が報われたとか、自分を信じて頑張ったらよい結果が出た、という人もいるでしょう。しかし、いつも必ずそうであるはずがありません。信仰を持って生きることは、そういう努力や忍耐、などを全くしないこととは違いますが、そういう自分の努力や幸運などに自分をゆだねることはしないのです。自分の努力とか、運とかが人生を支配していないことを知っています。そして自分の努力にかけるのでも、運任せにするのでもなく、もっと確かな方、主なる神が自分を導き助けてくださることを信じます。その信仰に立って歩む時に、一日一日感謝と信頼をもって御言葉に聞きつつ与えられた場で祈り続けます。そうして歩む者に、主イエスは必ず御自身を現してくださって、「あなたはもうその人を(主を)見ている。あなたと話しているのが(あなたに御言葉を語りかけ、様々に働きかけてくださっているのが)その人(主)だ」と言ってくださるのです。その信仰をもって歩み続けましょう。

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