「生きづらい世の中で」2020.11.1
フィリピの信徒への手紙 4章10~14節

 この世は生きづらいでしょうか。この問いに対してどう答えるかは人によるでしょう。今日の題には、世の中は生きづらいものだ、という断定が含まれています。生きづらいと思っていない人がいたら、まずそこで反発するかもしれません。ただ、今はそう思っていないとしてもかつてはそう思っていたかもしれません。また、今後そう思うようになるかもしれません。いずれにしても、生きづらい、というのは何かやろうとしてもうまくいかない、普通に生活したくてもできない、人並みの生活ができない、性別や能力でふるい分けられて思うようにいかない、といったことが要因となってそのように人は感じるのでしょう。なぜ世の中はそうなのか、そういう世の中でどうしたらよいのか。今日はそういったことについて、神の御言葉である聖書は私たちに何を教えているのかを聞きたいと思っています。


  1.いろいろな立場によって生きづらさも様々

 「女性はなぜ生きづらいのか」という題名の本があります。精神科医や臨床心理士の三人の女性が書いているものですが、この題名だけでも或る事実を示しているのではないでしょうか。女性、というだけですでにこの世、この社会は生きづらい、ということです。いや男性も生きづらいという声も聞こえてくるかも知れません。確かにそうかもしれませんが、だいぶ前から、女性の社会進出が謳われる時代にあって、確かに女性が自分の仕事など、やりたいと思うことをしようとしても、いろいろな壁があるというのは事実でしょう。男性と同じように就職しても、結婚、出産等を通して、退職に至ったり、退職までしなくても子育てしながら働こうとして保育所を捜してもなかなか入れない、ということもあります。もちろんそれは夫がいるなら夫婦で協力すべきですが、妻の方がどうしても子どもの面倒を見る時間を多く割くことになる、こともあるようです。こうしてみるとやはり子供を産むのは女性であるという決定的な事実に向かうことになります。勢い、子育ては妻が担い、夫は外で働くという図式ができてきます。また、古来考えてみれば男性の方が力があり、外で狩猟や漁業や林業に携わる、土木工事や建設に携わるとなるとやはり男性が外で働く、という形ができているのでしょう。

 もちろん、今の社会では、男性も能力によって道が開かれたり閉ざされたり、リストラされたり、社会の中ではやはり生きづらい、息苦しいと思う面があるのでしょう。生きづらい、というとき、この世の生活や生きていることそのものが大変である、という感じが拭えないからではないでしょうか。そしてその時代ごとの問題などもあって、私たちが思うようにはこの世の生活が進められない、ということになっています。誰でも子どもの頃に、自分の将来を考えることがあるかと思います。どこに住んでどんな仕事をして、どんな家庭を築いているだろうか、など。特に職業面では、あれやこれやと夢は膨らみます。しかし中学、高校と進学していくと、段々と思い通りの道へ勧めるとは限らないことを思い知らされます。順風満帆のような歩みをしてきた人であっても、就職してみれば思うようにはいかない。思い描いていたバラ色の人生など夢のまた夢、ということもあるでしょう。


  2.なぜ人は生きづらいのか

 今日はそういう社会問題の解決法を示そうとしているわけではありません。聖書が示す人間の真実に教えられて、私たちはまず、この世界の中での人間の状態を知る必要があります。聖書は、天地を造られた唯一の神がこの世界を治めておられることを教えています。そして人間も神の御手によって造られた被造物です。しかし神は人間に命の息を吹き込まれましたので、生きた者となり、神と言葉によって意志の疎通ができる者となりました。それが他の動物たちと大きく異なります。人間はその他多くの動物たちの中で最も進化した結果、今日のように知恵と知識において特別に優れているのではありません。進化していく中で人間が最も優れたものとなったとは聖書は教えておりません。

 その意味では人間は特別な存在で、神の言葉を聞く力を備えておりました。そして神に従って生きるようにと求められていました。ところが人間は神から与えられた、動物とは違う知恵、意志、考えを神に背いて用いるようになってしまいました。神に従う通すことをしなかったのです。それで自分流にやり始めたのですが、神はある程度はそれを見ておられましたが、全てが人間の思うようにうまくはいかないようになさったのです。聖書はそのことを教えていますから、私たち人間は神の御言葉に聞いて、神に立ち帰るように招かれているのです。

 ところがそれをもしようとしない。そこに人間の罪があります。神に従うことが何より幸いなのですが、その道を選ばず、あくまで自力で何とかしようとする。それが今日までずっと続いている人間の世界です。神は人間に対する罰として、出産の苦しみ、日々の食糧を得るための労苦、そして様々な邪魔をするものを備えられました。ついには死を迎えるものとされたのです。この世にある様々な困難、生きづらさは、元をたどればすべてそこに行き着きます。その問題を克服することで、私たちはこの世の生きづらさの中でも、神によって支えられて生きることができます。この世にある限りは、生きづらさというものはずっとついて回るでしょう。神を信じたら、この世の生活が全て自分の思うようにうまくいく、ということではありません。そうではなく、生きづらいこの世にあっても、それに飲み込まれず、自分の立ち位置と将来を見据えて歩むことができるようになるのです。そしてそこには神を信じた者に与えられる秘訣がある、とパウロは書いていました。それが先ほど朗読した箇所です。


  3.生きづらくとも生かされる道がある

 この手紙を書いたのは、天に昇られたキリストから宣教のために使徒として任命されたパウロです。彼は宣教の旅を繰り返し、各地で教会を立て、しかし同時に迫害もしばしば受け、命の危険に晒されることも度々でした。旅を繰り返したため、あらゆる境遇を経験しました。投獄され、鞭で撃たれ、死ぬような目に遭い、石を投げつけられ、難船したり、一昼夜海の上で漂ったりしたこともあり、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、寒さに凍えて裸でいたこともありました。捕らえられそうになって、窓から籠で城壁づたいにつり降ろされたこともありました。

 そういう経験をしてきたパウロは、満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していてもいついかなる場合にも対処する秘訣を授かっている、と言えたのです。このパウロの経験は、もはや生きづらい、などというものではなくて、もう生きているのを続けられないほどの状況に追い込まれることがしばしばであったわけです。ということは、神を信じ、キリストを信じているとこのような困難な状況や、生きづらいと思わせられるような境遇に遭うことがないのではなく、そういう境遇に置かれても、それに対処できるようになるのです。

 初めにも述べましたが、私たちがこの世を生きづらいと思うとしたら、それは自分の先行きが見えなくて不安である、良いと思う方に事が進まない、何にしてもお金がないと手にできないものが多々ある、自由に道が開けない、世の中に対する不公平感がある、自分の力や才能が発揮できる場がない、仕方ない事情があるのに悪い方に誤解される、などいろいろあることでしょう。これらのことは、神を信じる者にも少なからずあるものです。それでも、先ほどの使徒パウロのように、どんな境遇にも満足する秘訣があるのです。

 それは、一切のことをご存じである真の神を自分の神とすることです。この神は救い主イエス・キリストにおいてご自分のことを現してくださいました。神は、御自身を信じる者に、困難な状況や貧しい境遇を全く与えないというわけではありません。たとえ貧しい境遇の中でも、養ってくださいます。不運な星の下に生まれた、と言って嘆いて投げ遣りになるのではなく、自分のことを顧みてくださる神を信じて先行きをゆだねます。逆に、豊かな境遇にあっても、神を忘れません。もう老後まで何の心配もなく暮らせるだけの蓄えも、土地も家もあるから大丈夫である、と過信してしまうこともありません。どんなに富が手元に溢れているとしても、天変地異によってすべて焼けてしまうかもしれないし、美しい土地も家も、自然災害によって崩れ去るかもしれません。運任せ、お金頼み、成り行き任せの人生は、何と頼りなくもろいものでしょうか。どれだけ大金持ちでも、自分の命を永久に保つことはできません。

 それほどに弱く脆い私たちのこの世での生活であり、命ですが、その命を神に預けた人は幸いです。元々命は神からの授かりものであり、私たちはこの世を去る時には神にそれをお返しするばかりです。そしてこの世を去った後、自分の命を確実に天国入りにさせることは私たちにはできません。それができるのはただ一人神のみです。私たちは自力で天国入りの資格を得られるほどに神の前に正しくもなく、人々の前に善人でもないからです。しかしそんな私たちも、神の御子であるイエス・キリストにより頼むならば、神は私たちをお救いくださいます。その救いをいただいたなら、この世の生きづらさは、一過性のものだと分かります。当座はいろいろと大変なことも面倒なこともあるのは確かですが、「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(13節)と語った使徒パウロの言葉は決して大袈裟なはったりでも、大風呂敷を広げた言葉でもありません。

 使徒パウロがここで言う秘訣は、長年の修行を経ないと手に入れられないような、悟りの境地に至らないと得られないようなものではありません。厳しい訓練の末にやっと習得できる熟練の業でもなく、神からの救い主キリストを信じる者には難しい道ではありません。キリストによって私を救ってくださる神がおられるから大丈夫だ、という信仰に立つ、ということがその秘訣です。どれだけのものを自分が手にできるとしても、どんな境遇が待ち受けているとしても、それは神が量りにかけて分け与えてくださるもので、神はそれによって私たちを潰そうとしているのではないから、先行きをゆだねることができます。私たちに常に先立っていてくださる、慈しみ深い導き手、救い主、主であられるイエス・キリストを信じて歩む者には必ず与えられる秘訣であり、恵みなのです。

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