「人生の揺るがぬ土台」2020.11.8
 マタイによる福音書 7章24~29節

 私たちは、この世で一体何を拠り所として生きているのでしょうか。この問いに対しては、いろいろな答えがあるでしょう。自分の信じる神様だ、とか、自分の意志決定だ、という勇ましい人もいるかもしれません。また、そもそもそんな問いに対する答え自体を考えない、という人もいるかもしれません。何も依り所などなくても、その時その時、良いと思った方へ進み、好きなようにやる。自分を縛るもの等ない、という自信に満ちた人もいるでしょうか。新刊書の広告を見ているといろんな宣伝文句が目に入ってきます。先日も、旧式の価値観に合わせることなどしないで生き延びる、というような作者の言葉が紹介されている書物の広告がありました。その本を読んだわけではありませんが、今、私たちが聞こうとしている聖書に書かれているイエス・キリストの言葉や、キリスト教の教えと価値観といったものも、もしかすると旧式の価値観という枠の中に入れられてしまうのかもしれません。実際、中世ヨーロッパでは、教会の権威が強く、人々がその旧来の権威に縛られていた中で、ルネサンスが起こり、人間がその旧式の権威から解放されて、人間性の強調、個性の解放と自覚、といった面が開かれた、という一面があります。宗教改革と共に展開された、という国もあったようです。ルネサンスはともかく、宗教改革によって光が当てられ、聖書の神の御言葉に改めて耳を傾けようとする姿勢が教会に与えられました。結局それは神の御言葉である聖書の光に照らされて私たちを、この世界を、神様と人間を理解するということでした。今日の私たちも、決して古びることのない、このイエス・キリストの御言葉に聞きます。私たちの人生において確かな 拠り所とすることのできる土台、これについてイエス・キリストの語られる御言葉に聞きましょう。


  1.賢い人と愚かな人

 主イエスは、大変慰めに満ちた、慈しみ深い御言葉を語られましたが、時には人の心の思いの深い所に突き刺さる御言葉を語られました。イエスの御言葉は、いつでも耳に優しい、受け入れやすい言葉ばかりではなく、私たち人間そのものの存在に深く関わることを語られました。今日の御言葉もそうです。賢い人と愚かな人、という二種類の人を描き出すことで明らかです。イエスが語られた「これらの言葉を聞いて行う者」は賢い人に似ている。逆に「聞くだけで行わない者」は愚かな人に似ている、と。

 私たちは自分のことを賢い人、と言われると気持ちよいでしょうが、愚かな人、などと言われると心穏やかではいられなくなると思います。ここで言われている賢さ、愚かさは、たとえで言われているように家の土台をしっかりと据えた人と、そうでなかった人の違いは良くわかります。しかし、イエスの御言葉を行うか否かで賢いか愚かか、という場合、それは神の前での私たちの態度に関わります。家が大風で倒れないため、洪水で流されないためであれば、人はそれなりの対処をして、備えることでしょう。しかし目に見えない神の前で同振る舞うかということになると、だいぶ違ってきます。

 そして、ここで見落としてはならないことは、岩を土台として家を建てた人にも、砂地に家を建てた人にも、同じように嵐は襲い掛かってくるということです。ですからそれは、単にこの世で襲い掛かってくる様々な災難以上のものです。イエスの御言葉を信じて従い行う人は、この世に起こってくるどんな災難にも慌てることなく立ち向かうことができる、ということが中心点にあるわけではないのです。

 雨が降り、川が溢れ、風が吹いてその家に襲いかかると、その倒れ方はひどかった、と主イエスは言われました。これは言うまでもなく比喩であって、それらの災難は、私たちが人生の中で出会う様々な災難を示していると言えましょう。しかしそれだけではありません。単に人生の様々な場面で出会ういろいろな困難な状況での試練というだけではなく、家が倒れるかどうか、つまりその人の存在そのものに関わってくることです。21節以下で主イエスが言われたように、それはこの世を去った後に、神の御前で、あなたたちのことは知らない、離れ去れ、と言われてしまうか、そうでないか、という大変な問題です。神の前で自分がどのようなものとして見られているかという問題です。私たちは、この世の評価で賢いか愚かかと判断されているのではなく、神の目から見てどうか、ということに心を向けるべきなのです。


  2.イエスの言葉を聞いて行うとは

 さて、主イエスは、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」と、「聞くだけで行わない者」という対照的な人々のことをあげておられます。「これらの言葉」とは、ここまでイエスが語って来られた言葉ですが、このマタイによる福音書では、5章以下、山に登ってお話しになった御言葉を指しており、ここでのお話は普通「山上の説教」と呼ばれています。

 イエスの語られたことは、何々のことを行いなさい、というような戒めの言葉を連ねただけのものではありません。特徴的な言葉があります。それは「天の父」とか「天の国」という言葉です。天の父は神のこと、天の国は、この地上にあるこの世と対比される神の国のことです。単純に人が死んでから行く天国、というわけではなく目には見えないけれども、今既にこの世で始まっている神の支配のことです。天の父である神は、私たち人間に太陽を昇らせ、雨を降らせ養ってくださり、人の行いに対して報いを与えるお方です。私たちの心の中の思いと言葉と行いとを見ておられます。それを心に留めねばなりません。イエスというお方は、天の父の御心を私たちに明らかにするためにこの世に来られたからです。

 イエスはここで、例えば地上に富を積むなとか、復讐をせずに、この世で敵と思われる人でさえ愛しなさい、と命じておられます。なぜそう教えるのかというと、私たち人間には天に父と呼ばれる神がおられて、その天の父によって私たちはこの世で生かされていることをまず覚えねばならないからです。

 それに対してイエスの言葉を聞いても行わないとは、この世での生活で、天の父である神の目など全く気にも留めず、自分のやりたいようにこの世を生きてゆくことです。神の言葉などには目もくれず、自分なりの生き方をしてこの世の生活を切り開くという態度です。しかしそれでは、いざ嵐が来て大風に吹かれると、その人の人生は砂の上に建てた家のように、脆く倒れ、しかもひどい倒れ方をする、と主イエスは言われるのです。


  3.揺るがぬ土台の上に立つ

 私たちは、このようなイエス、というお方の前に立っています。自分の語る言葉が、それを聞いた人の人生を左右する、そんなことを断言するとは、一体この方は何者だろう、と考えるのが私たちでしょう。そしてなぜこの人はそんなことを言えるのだ、と思うわけです。この時イエスの言葉を聞いていた人々もそうでした。聞いていた群衆は非常に驚いたのです。ユダヤの国では、聖書(ここでは旧約聖書)の教えが日々の生活を律していました。聖書の教えが国も民族も個人も律していましたから、それを研究して人々に教える学者や教師たちがたくさんいました。そういう人々は聖書にこう言われているから、この戒めはこのように守り行わねばならない、と解釈して教えていました。それが律法学者、と呼ばれるような人たちです。しかし彼らは自分たちもあくまで神の言葉を聞いて解釈し、聞き従う立場にある者として語ります。

 ところがイエスは違いました。ご自分が神の言葉を語る権威ある者として教えられたからです。ご自分が神の側に立つ者として語られたからです。つまり、イエスの言葉は、神が言われることと同じに受け止めて聞きなさいということです。これは、神のことを聖書によって教えられてきたユダヤの人々にとっては大変なことでした。そんなことを言う人はこれまで誰一人いなかったからです。

 イエスの言葉を聞いて行うとは、単に優れた働きをしたかどうかでは量れません。たとえ悪霊を追い出し、奇跡を行ったとしても、その心が天の父から離れているということもあり得る、とイエスは言っておられるからです(21~23節)。だから私たちは自分の行いとか働きに寄りかかってその上に自分の人生を築くことをまずやめて、天の父の前にへりくだり、ここで語っておられるイエスというお方の上に自分の人生を据えさせていただくようにするのです。自分のあれこれの行い、この世で成し遂げた仕事や実績、人々の評価、こういうものは、自分の人生の総決算をしなければならない最後の時には何の役にも立ちません。その人を天の国、神の国へと入れてくれるほどの重さはまったくないからです。

 逆に、たとえ大きな働きはなくても天の父の前にひれ伏し、その恵みにより頼み、天の父のもとに生かしていただくことを心から求める者は、岩の上に土台を据えた人です。自分の名声をこの世で求めることはしません。もはやそのようなものは自分を救ってはくれないと悟ったからです。この世でどれだけ富を積み上げても、自分を天の国に入れる力はないことを知っています。この世ではなく、神に仕えようとします。人に自分を良く見せる見せかけの行いをしません。人の目には隠れたことでもすべて見ておられる天の父を信仰によって見ています。イエス・キリストはそういうことをここで教えてくださいました。私たちはこのイエスの御言葉に聞き従っていくことで、人生の揺るがない土台を築くことができます。このイエスはその地上生涯の最後に、十字架にかかり、私たちのために神の前に償いをしてくださって、私たちを天の国へ入れるための道を備えてくださいました。この方により頼むなら、私たちは天の国の一員としていただけるのです。

 最後になりましたが、今日の礼拝は、この尾張旭教会の伝道開始40周年記念の礼拝です。尾張旭教会がこの地に立てられてからのことを、非常に簡単ですが週報の囲み記事に書きました。40年の間、この教会は私たちの人生の揺るがぬ土台である救い主イエス・キリストの言葉を語り伝えてきました。そして天の父を信じ、イエスを神の御子、救い主と信じる人々が共に集い、神への感謝と讃美を献げてきました。弱く欠けのある器ではあっても、これからもそれを続けてゆきます。神の力強い御言葉をこれからも告げ知らせ続けます。一人でも多くの人が人生の揺るがぬ土台を築けるように祈り続けます。地上の教会に属する人は時代と共に移り変わりますが、神の御言葉は変わりません。それを教えてくださって、御自身を十字架に献げてまで私たちに天の父の御心を示し、天の国への道を開いてくださった救い主イエス・キリストにより頼んで共に歩み続けましょう。

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