「心からの喜びを求めて」2020.11.22
 使徒言行録 2章22~28節

 最近、何を喜びましたか、と問われたら何と答えますか。喜びにも大小様々ですが、大変な喜び、あるいは心から喜んだ、となると日頃の生活ではそれほどないかもしれません。今日の題には「心からの喜び」という言葉がありますし、今日朗読した聖書の箇所にも、「喜び」という言葉が入っていました。聖書には、「喜ぶ」という言葉がしばしば出てきます。ただ何かを喜んだ、というだけではなく、喜びなさい、と命じられていることもあります。今日はこの喜び、ということを聖書からわたし達は教えられています。


  1.この世の生活での私たちの喜び

 喜ぶ、というのは何かの知らせを聞いた時に、期待していた結果が出たので喜ぶ、ということがあります。あるいは、欲しかったものを手にした時に、喜ぶこともあります。試験に合格した、就職できた、結婚が決まった、子どもが生まれた、など。また、そこにいるだけで自然と喜んでいる、という場合もあるのではないでしょうか。何か素晴らしい結果が出たとかいうのではなくても、その場にいること自体が嬉しくて喜んでいる、ということです。

 そして私たちは、自分が喜ぶことについては、別に命じられなくてもそれを手にできる方へと動いてゆくことでしょう。自分を喜ばせてくれるものに対しては、それに向かって努力したり、多少苦労したりするのも厭わないのです。

 そして幸いにも臨んだ結果が与えられれば、大変喜びます。たとえば事業が成功して利益がたくさん得られた人はそのことを喜ぶでしょう。しかし、その人には持病があって、健康のことを考え出すと、気持ちが暗くなってしまう。いつもそのことが気になってしまうということはあります。逆に健康で家族ともども元気だけれども、仕事上のトラブルがあって、それを思い出すとついつい思い巡らしてしまい、楽しんで休日を過ごすことができない。こういうことはあり得ます。生活すべてを覆いつくして喜びをもたらすものなど、あるでしょうか。


  2.主の前での喜び
 そのような喜びは、やはりこの世の中だけを見渡していても、見出すことはできないでしょう。そこで、神のことばである聖書では、喜びについて何と言っているかを見ましょう。それが、先ほど朗読した使徒言行録2章という箇所にあります。使徒言行録は、救い主イエス・キリストが十字架刑に処せられた後、三日目に復活され、弟子たちに姿を現されてから40日後に天に昇られてからのことが書かれています。イエスが天に昇られた後、神のもとから神の霊=聖霊が降られて、イエスの弟子たち、つまり使徒たちに力を与えて世界への宣教が始まりました。使徒たちだけでなく、信徒たちも力をいただいて共同体を形成し、この世に教会が形を取って姿を現しました。

 この2章では、この世に姿を現し始めたばかりの教会において、イエスの使徒であるペトロがエルサレムの人々に対して語りかけた言葉が語られています。彼は、イエスが十字架につけられて殺されたのは、神が予め定められていた御計画によることだとまず言いました。しかし神は御計画通りにイエス・キリストを死から復活させられました。今日の朗読箇所で、ダビデは、とあるのは旧約聖書の詩編に書かれていることを指しています。これは詩編16編8~11節の引用です(旧約聖書が書かれたヘブライ語からギリシア語に訳されたものからの引用)。この詩は、イエスの誕生よりも千年ほど前のイスラエルの二代目の王であるダビデの詩とされているものです。彼は、①自分には主である神がいつも共にいてくださるので心は動揺せず、楽しみと喜びがある、とまず歌います。②そして心ばかりか体も希望によって生かされている。③さらに自分の魂が陰府、つまり使者たちの世界にずっと留まっていることはなく、命の道へと導き、神の前に喜びを満たしてくださる、と歌っています。死すらも自分から喜びと楽しみ、希望を奪い取ることはできない、と言っているのです。


  3.真の喜びで満たされる幸い

 これは、ダビデがキリストの復活について前もって語った預言の言葉だったのだ、と使徒ペトロはこの後語っています(31節)。ダビデが死すらも自分から喜びや希望を奪うことができない、と言ったその信仰は、イエス・キリストの十字架の死と復活によって実現したというのです。キリストが死んだ後、復活したのはなぜか。人が死なねばならないのは、誰にでも神の前に裁かれるべき罪があって、それゆえ永遠に生きることとは許されておりません。最初の人間であるアダムは、神に束縛されないで生きる道を選んでしまいました。自由になれると思ったのですが、実はそうではありませんでした。死を代償として、神から離れてしまったのです。人間は神から優れた知恵や知能をいただいていましたが、それによって神に従い、神と共にあって喜んで生きる道を捨ててしまったのです。

 今のこの世の中にある様々な悲惨な出来事、悲しみ苦しみ、そしてついに誰にでも訪れる死があるのは、そのためです。しかし、幸いにも、神は私たち人間を全く見捨ててしまうことはなさいませんでした。神は憐れみ深く、慈しみに満ちておられます。それゆえ、神に背いて離れてしまった私たち人間を、ご自分のもとに引き戻して、本当の喜びと楽しみの内に、希望を持ってこの世を生きられるようにと、御自身の独り子であるイエス・キリストを遣わしてくださったのです。イエスは、神の御子ですから、人として生まれましたけれども神に対する罪のない、聖なる方です。それゆえ、神に背いてしまっている私たち人間の罪を担って償うことができるのです。キリストは十字架で殺されはしましたが、罪のない方なので、死んでそのままずっと死者たちの世界に留まっているべき方ではなかったからです。そして、キリストが復活されたのは、キリストを信じる者にも、死からの復活をやがて与え、神の前に喜びと楽しみと確かな希望を持って生きられるようにするためでした。

 そもそも、私たちが何かを喜ぶことができるのは、私たちが生きていてそれを味わったり、他の人と一緒になって祝い、楽しむことができるからではないでしょうか。みんなで喜んでいても、自分だけ先にこの世を去ってしまったら、なお生きている人と喜びを共にすることができません。だからこの世での人間の喜びは永続しないのです。いつかは終わりが来ることを、私たちは知っているので、喜びも一時的なものだと、自然に納得しているのかもしれません。だから、今喜べるなら喜んでおこうと思うのでしょう。

 しかし、キリストによって神に結びつけていただいたなら、神と共にある喜びは決して奪い去られることがもはやありません。死が自分と周りの人々を引き離してしまう、というどうにもならない問題を、キリストが取り除いてくださいました。だから、私たちは神とキリストにあって、心から喜べる、喜んでよろしい、と言われているのです。

 新約聖書には、特に喜びなさい、という勧めの言葉がしばしば出てきます。無理に喜べと言っているのではなく、今言ったように、神とキリストに結びついているなら、本当の、消えてなくならない喜びが必ず与えられるのだから、そのことを信じて喜びなさい、と言われているのです。ここに真の喜びがあります。これは私たちに、本当の心からの喜びを与えてくれるものです。

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