「真の安らぎを得るために」2020.11.15
イザヤ書 32章15~20節

 この世の生活で私たちが必要としているものは何でしょう。一口に必要としているもの、と言ってもいろいろな面があります。住む家、食べ物、着るもの、健康、お金、などいろいろな答えが返ってくるでしょう。少し精神面に関して考えてみれば、愛、あるいは喜び、希望、などもあるでしょう。今日は、題にも付けましたように私たちにとって必要なものは「真の安らぎ」である、という点からお話しします。私たちはこの世で、知らぬ間に心と体に痛手を受けていて、その癒しのためには真の安らぎが必要なのではないでしょうか。「真の」というときには、他のものが安らぎをもたらす、というのと一線を画して、それだけが与えることのできる安らぎを示します。その場限りの、時間と共に色褪せてゆくような安らぎではなく、決して奪い去られず、時間と共に過ぎ去ってしまうものでもない。そういう安らぎです。しかしそのような安らぎはなかなか手に入れることができないので、私たちは、つい手近なもの、目に見えるもので安らぎを得ようとします。しかしこの世にあるものは、やはり過ぎ去ってしまうのです。今日は、聖書が私たちに教えている真の安らぎについて、聞こうとしています。神がくださる真の安らぎがあることを私たちは教えられています。


  1.神に立ち帰れ

 先ほどイザヤ書の32章から朗読しましたが、この少し前から、イスラエルの裁きと救いについてしきりに語られています。苦しむ人が主にあって喜び祝うようになる(29章19節)、と言われたりするのですが、すぐに厳しい審判の言葉が出てきます(30章1節)。その繰り返しのような印象すら受けます。神の目から見ると、神がご自分の民としてお選びになったイスラエルの人々は、どうしようもなく罪を犯しているが、主なる神はそれでも赦しと救いの道を備えているのだ、と言っているのです。

 「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」(30章15節)とも言われています。しかし民はそうしなかったのです。静かになどしていられない、馬に乗って逃げようと。それでも主は憐れみを与えようとして立ち上がられるのです(同18節)。

 人々は、自分たちの国が危機に見舞われた時、近隣の大国に寄りかかろうとしていました。イスラエルにとっては北にあるアッシリアという大国に攻め込まれそうになると、南にあるエジプトに頼るのだけれども、主なる神に頼ろうとしない。それにもかかわらず神はイスラエルを助け、救われる、と言って、神に立ち帰れ、と繰り返し命じておられます(31章1~6節)。

 そうして、やがて一人の王が正義と公平をもって統治する時が来る、と約束しておられます。それがこの32章です。その時がいつであるかは隠されていますが、未来に必ずそのようになる、と神が言われるのです。ところが、そのような神の約束があるにも拘らず、自分たちの不正や罪を気に留めないで安んじている人々がいます(9~14節)。そのような町は、作物を収穫することができず、土地が荒廃してしまう時がきます。   2.ついに、高い天から霊が注がれる

 それ程に鈍く、自分たちの罪と不正を自覚しない民に対して、ついに神は天から霊が注がれる時が来る、と約束しておられます。それが今日の朗読箇所です。何度も口で言い聞かせても、民は同じことを繰り返していました。それは人の中に、神に対する反抗心がもともとあって、神に素直に従わず、戒めを聞き入れないからです。それが私たち人間の神の前での姿でもあります。イスラエルの人々だけが特別に頑ななわけではなく、全ての人が神の前に頑なであり、耳からいくら神の御言葉が入って来ても、その心が受け入れる態勢を作ることができないので、今のままで大丈夫だ、と安んじてしまうのです。

 そうなると、神はただ耳に向かって言葉を語るだけではなくて、御自身の霊を注ぎ、頑なな人々の心に直接働きかけて、心が神の方に向かうようになさるのです。そうまでしないと、人間は神の御言葉を素直に聞こうとしない。これが人間の現実であります。

 このイザヤ書の預言は、今から2,700年以上も前のものです。しかもイスラエル、というこの日本からはるか遠い国の話です。このような旧約聖書の預言の言葉は、今日の日本に住んでいる私たちには関係ないことのように思われるでしょうか。しかし、何百年、何千年経とうと、人間の神の前での姿は変わりません。私たちは神の前に頑なであり、素直に神の御言葉を聞こうとはせず、自分勝手に、自分流に生きようとします。そして神の言葉が何か警告していても、「いや、大丈夫だ、自分たちで何とかなる」と思っているのです。見えない神が本当にいるのかどうかわからない。その証拠がないなら、信じることはできない、と。

 しかし、私たちが本当の安らぎを得ようとするなら、真の神の御言葉を聞くのが第一に必要です。そして天からの霊が注がれて、私たちが神の方へ心を向けるようにしていただくしかありません。そうするならば、神が生み出すとこしえに安らかな信頼関係が神との間にできるのです。16~18節に描き出されているものは、ある意味では理想的な社会の姿です。正義が平和を作り出し、さらにとこしえに安らかな「信頼」を生み出します。それは、9節で自分たちの状態を正しく把握していなかったものが「憂いなき女たち」、「安んじている娘たち」、と言われていたのと非常に対照的です。17、18節では「とこしえに安らかな信頼」となり、「憂いなき休息の場所」となるからです。安らかである、安んじている、とか憂いがないと同じように言われてもその実態が全く違います。

 この「正義」という言葉は非常に含蓄のある言葉で、辞典によればその独特さは他の言語では現しきれないそうです。人や物があるべき状態にあることを一般的には示すようですが、それはある一定の条件に合う時に実現するものです。そしてその規準は人間ではなくて神の御意志、御心にあります。この頃、何かと正義を振りかざす人がいる、ということがニュースの話題に取り上げられることがありました。新型コロナウイルスの流行に伴って、誰かを不当に中傷したりして、貶めようとするわけですが、自分が正義の規準になってしまっているわけです。


  3.真の正義が真に憂いなき休息をもたらす

 自分が正義そのものになってしまうと、自分の気に入らなければ、他人のすることはすべて問題があり、誤っており、正されなければならない、ということになってしまいます。ところが自分という規準などは実に頼りなく、揺れ動くものであり、正しい秤には到底なりえないのです。「正しい」というのにもいろいろ意味があって、大勢の人や社会がそれで良い、とすればそれが正しいことになる場合もあります。日本では車は左側通行をするのが正しいのですが、別の国では右側通行が正しいことになります。

 交通規則なら分かり易いですが、道徳倫理面になるとそうはいきません。「正義」あるいは「義」の規準は、罪を犯し、過ちを犯す人間ではなく、神の基にこそあります。そして、神の正義から初めて安らかな信頼も生じます。どれが真に正しいのかわからない状態では、私たちは不安です。裁判官が変わる度に判決が正反対になったら、私たちは安心できません。そして私たちの過ちも罪も、神の前でその重さが分からず、自分だけの判断でそのくらい大丈夫だ、と高をくくっていたとしたら、神の前に出た時には有罪判決を受けねばなりません。しかし神の規準が分かっているとしたら、神の裁きは受けねばなりませんが、どうしたら赦しを得られるかについて神から伺うことができます。なぜなら神は正義の神であると同時に、愛と赦しの神でもあられるからです。

 私たちにそのような神の正義と、愛と憐れみと赦しを示してくださったのが、イエス・キリストの十字架の出来事なのです。正義の神は、私たちの罪に対する裁きを、十字架で罪なき神の御子イエスの上に下されました。それは御子イエスを信じる者の罪を赦すためでした。十字架において、神の正義と赦しとが両立しています。人間の場合、正義を貫くと赦しは脇へ退き、赦しを優先すれば正義が通らなくなります。罪なき神の御子イエスの十字架は、見事にそれを両立された唯一のものです。

 神は正義を貫かれましたが、そこにおいて愛と赦しも実現されました。そして神を信じる者に神に対するとこしえの安心と信頼をもたらされたのです。これはこの世でだけのものではありません。私たちが世を去った後も、永遠に神との間に平和を実現してくれます。先ほど述べました「霊が高い天から注がれる」という預言は、初代教会において聖霊が教会に降られることで実現しました。聖霊は私たちにイエス・キリストを示し、罪の自覚をもたらし、神とキリストへの信頼の心を授けてくださいます。そしてとこしえに安らかな信頼、真の平和、憂いなき休息の場所を与えてくださいました。

 今はこの世で、何かと困難なこともあり、試練もあり、悲しみも別離も、嘆きもあることはありますが、それらは既に神とのつながりにあっては必ずやがて取り除かれることが保証されています。私たちに究極の安らぎと真の平和を与えてくださる神の御心を信じて、真の安らかさをいただきましょう。

コメント

このブログの人気の投稿

「聖なる神の子が生まれる」2023.12.3
 ルカによる福音書 1章26~38節

「キリストの味方」2018.1.14
 マルコによる福音書 9章38~41節

「主に望みをおく人の力」 2023.9.17
イザヤ書 40章12~31節