「悲しんでいる人は幸い」2019.11.3
 マタイによる福音書 5章1~12節

 聖書には、私たちに語りかける神の御言葉が記されています。本当に様々な仕方で神は語っておられます。今日朗読した箇所は、イエス・キリストが多くの人々に語られたもので、普通山上の説教、とか山上の垂訓などと呼ばれているものです。イエス・キリストは、多くのことを話されましたが、時にその言葉は、人々の常識的な考えとは相容れないものがありました。今日の題にしました、「悲しんでいる人は幸い」という言葉も、山上の説教に出てくるものですが、今日の私たちが通常考えていることとは違います。悲しんでいる人は幸い、だなどとは私たちは普通思わないからです。

1.キリストが語っておられる
私たちは喜んだり、悲しんだり、怒ったり、嘆いたり、そのような感情をいろいろな機会に抱きます。そして、人間にとって、例えば喜ぶことと、悲しむことだけに限ってみても、多くの人に共通に喜びをもたらすものと、共通して悲しみをもたらすものとがあります。例えば喜びをもたらす最たるものは人が生まれる、ということであり、悲しみをもたらすのは人の死、特に愛する人の死でありましょう。
では、ここでイエス・キリストが言っておられる、悲しんでいる人とは、どのような人のことでしょう。しかしその前に、まず目を留めるべきことがあります。それは、第一にこれを語っておられるのが、神の御子イエス・キリストである、ということです。神の御子キリストがこれを語っておられる、ということ。キリストが幸いである、と語っておられるということです。悲しむ人は慰められる、ということが、キリストとの関係の中で(つまり神との関係で)考えられる必要があるのです。
いつの世にもどこにでも、何らかのことによって悲しむ人はいます。愛する人を失い、持ち物も家も失ってしまった人がいます。そういう人たちに、このイエスの言葉はすぐに当てはまるのでしょうか。そうではないと言わざるを得ません。ですから、このイエスの言葉は、ただ一般的に普遍的にどこまでも広げて言われているわけではないのです。イエス・キリストは神のもとから来られた方であり、神に遣わされて、神による救いをもたらすためにこの世に来られた方です。その神を仰ぎ、神から遣わされてこの世に来られた神の御子イエスのもとでこの言葉を聞く必要があるのです。

2.悲しむ人は幸い
ここでイエスが言っておられる、悲しむ人のことですが、何を悲しむかが問題です。たとえば、この度の大きな台風によって、家族を失った人は悲しみの中にあります。単純にそういう人々のことを想定して言っているわけではありません。大事な人や物を失って悲しむ人が、ただそれで幸いだと言えるはずもありません。
あるいは、大勢の家族の中で生きている人が、特に愛する人を失った場合、家族が慰めてくれる、またはお互いに慰め合って亡くなった人を偲ぶことができる。だから幸いである、というようなことをここで言っているのでもありません。
しかし、この世にあるこれらの悲しみは、いったいなぜ生じるのか、なぜこの世には悲しみがあるのか、ということを知らねばなりません。人に悲しみをもたらすのは、あるべきものがなくなってしまった、という点に原因があります。無力感だったり喪失感、時には後悔の念、といったものが大きな悲しみをもたらします。今日はそういったことに対する対処法をお話ししようとしているわけではありません。そうではなく、人に悲しみをもたらすあらゆるものがあるわけですが、それらの元になっている原因を知って、それを悲しむかどうか、悲しむことができるかどうか、ということなのです。
イエス・キリストは、年およそ30歳の頃から人々の前に出て公に活動を始められました。その活動というのは、まず人々に神のことを語り、神がいかに素晴らしい天の父であられるかを、ご自分の言葉と行動によってお示しになりました。そしてあらゆる町や村を回って会堂で教え、神の国についての良き知らせを告げ、ありとあらゆる病気や患いをいやされました。そして人々が弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれたのでした(ルカによる福音書9章35節)。イエス・キリストは、病気や患い、そして民衆の様々な困窮状態を見て憐れまれました。それは、これらのものが人に大きな悲しみをもたらすものであるからです。今日でも、それは全く変わりません。いくら文明が進歩し、社会保障制度が確立されて、医療技術が発達しているとしても、基本的には人に悲しみをもたらすものに変わりはないのです。ただ、様々な学問が進歩し、より長く生きられるようになったり、より苦しみを少なくして病気治療を受けられたりするようにはなっています。それでも、ついには死を迎えねばならない。それが人間の世の現実です。
なぜ、せっかく生まれてきたのに必ず死なねばならないのか。これは人間の持つ宿命のようなものとして私たちの前に立ちはだかっています。聖書はその点について、はっきりとした説明をしています。私たち人間に悲しみをもたらす究極の原因を明らかにしているのです。それは、神に背を向けて生き、神に従うよりも自分に従い、自分の思うままに生きようとする人間の高ぶった思いと性質であり、そこから出てくる行為です。それを聖書では罪と呼んでいます。その罪の結果、人間は神との親しい、喜ばしい関係を壊してしまいました。人が死なねばならないのも、神に対して背いた罪の報いであります。すべての人がその罪を犯しているからだ、と神の言葉である聖書は告げております。
このようなことに対して、人はどのように反応するでしょうか。大きく、二つのことをあげてみます。一つはそんなことがあるわけない。神がおられるのなら、人が背かないようにできたのではないか、人が死なないようにすることだってできたのではないか、と。これは、神を認めない考え方になりますし、神に背を向けるものです。それに対して、もう一つの反応は、人間が神に背いてしまっていることを知ってそれを認め、その状態を悲しむということです。ここでやっと「悲しむ」ということが出てきました。
もう一度簡単に言いますと、二つの道があります。片方の道は、神がいようがいまいがどちらでもよい、とにかくこの世を、自分の人生を何とかよくして、人生をとにかくよりよく楽しく生きてゆくのみだ。最後の時が来たら死を受けいれるしかない。そして神に助けを求めたりはしないのです。そういう道です。  もう片方の道は、人の世に多くの悲しみや患い、悲惨なことがあるのは、聖書が言う通り、神に対する人間の態度に問題があるのか、と知って、神の前にへりくだり、神に助けを求める道です。そして、世の中にも、自分にも神に従わない罪があって、それがあらゆる悲しみをもたらしている、ということを悲しむ、という道です。そのような意味で「悲しむ」人は幸いだというのです。たとえば、社会を騒がせる大きな事件があったとします。その犯罪が非常に悪質なものだとします。私たちはそのニュースを見るとなんてひどいことをする奴だ、と思います。とても人間のすることではない、と。確かに今思いつくだけでも、ここ数年、あの事件この事件、と次々に思い浮かばないでしょうか。秋葉原の路上で、福祉施設で、新幹線の中で、そして最近ではアニメ制作会社で。では、大災害はどうでしょうか。これは人災ではないか、という面が場合によってはあるとしても、殺人事件とは違います。この場合、一つ言えることは、人間が大変弱い存在であり、その命は実に脆弱なものだということです。空気がなければ生きられない、外から大きな力が加わったら命を保てない、そういう存在です。人間はスーパーマンではありません。これまた悲しむべきことではないでしょうか。そしてすべての理由はわからないとしても、神によりすがり、神に助けを求めること。その意味で悲しむ人は幸いなのです。

3.慰められるから幸いである
 どうして幸いなのでしょうか。ここで言う幸いとは、一般的な意味での幸運とか幸せのことではなく、神との関係がどうか、にかかっています。神に助けを求めることによって慰めを与えられるからです。しかし神の慰めは、たとえば家族、友人、知人などによって慰められることと同じではありません。人に慰めてもらえるのはありがたいことですし、それによってこの世の生活の中で悲しみからまた立ち上がって歩み出せる、ということは確かにあります。しかし、それもまたやがて終りがきます。それに対して神の慰めは、人の悲しみを覆いつくすことができるものです。慰める、とは傍らに来る、という意味があります。傍らに来て助け、弁護してくれる、という意味もあります。神に対する罪を悲しみ、神に赦しと助けを求める者に対して神は自ら弁護者となってくださるのです。神の前に人間の罪と、この世に生きる人間の弱さ、儚さ、脆さを悲しむ人は、まずそのこと自体を悲しみます。悪い者を裁いて自分が正義の裁判官になるのではなく、神に反旗を翻して神の存在や権威を否定するのでもなく、まず人の悲惨を悲しみます。そして神に慰めを求めるのです。
 神は、このように悲しむ人のもとに来てくださいます。どのようにして来てくださるのか。それは、この聖書の箇所で語っておられたイエス・キリストとして来てくださるのです。キリストは既にこの世に来られました。そして今日、聖書の言葉を聞いて神を求める人の魂の内にも来てくださいます。慰めてくださいます。キリストは御自身の十字架の死によって私たちの罪を滅ぼし、復活によってそれを確かなものとして示されました。キリストによりすがる者には、神が拠り所となってくださいます。これ以上の慰めはありません。しかしこの世になお生きている限りは、私たちは悲しみを免れることはできません。しかし、神のもとで悲しみ、キリストによって与えられる神の慰めを求める者は、その悲しみに飲み込まれることがないのです。逆に悲しみを飲み込んでしまうほどの神の慰めがあります。この世で私たちはこの先も悲しみを経験するでしょう。しかしその先に神の慰めがあり、救いがあります。だから悲しんでいる人は幸いなのです。

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