「自分探しに疲れた人へ」2019.11.10
 ヨハネの手紙一 2章28節~3章3節

 私は一体何者か。こういう問いを自分に投げかけてみたことのある方は結構いるかもしれません。このような問いに対して、大きく分けて二つの考え方があるように思います。一つには、私は人間であるが、そもそも人間とは何なのか。何のために存在しているのか、という問題についてです。もう一つは、私という人間は、いったい何ができるのか、人として、どんなことが自分にとってふさわしいのか。例えば社会の中で、どれだけ役に立つ人間になれるだろうか。このような問いも関わってくると思います。私も含めて人間とはいったい何者なのか。あるいは、私は、この世で社会において、いったい何ができるのか、何の役に立つのか。いずれにしても、今日は、このことについて、聖書がなんと言っているか、それを聞きたいと思っています。聖書が何と言っているか、ということは、神が何と言っておられるか、ということです。

1.存在意義や、役目を必要としている人間
私たち人間は、自分の居場所とか、存在意義とかをどこかで求めているのではないでしょうか。自分が、家族や地域や、学校や、ひいては社会の中で、何の役にも立っていないとしたら、ある種の寂しさを感じるのではないでしょうか。自分がいてもいなくても、人には何の影響もないのではないか、と思うとしたら、本当に淋しくなってしまいます。
先日あるテレビ番組で、アリの研究をしている人が出てきまして、アリの生態について話しておられました。アリの中には全く働かないアリがいる、と通常言われているようですが、実は普段働かないアリにも存在意義があるのだそうです。というのは、普段働いているアリに何か問題が起こって働けなくなった場合、普段何もしていないアリがその代わりをするのだそうです。そうすることで、全員が倒れてしまうのを防いでいるのだとか。人間の社会でも、何の役に立っていないように見えても、実はその人がいることで、周りにある影響を与えている、ということはあることでしょう。
私たち人間の場合、自分の存在理由などをつい考えますから、自分に何の役割もないと、生きがいを感じられなくなってしまうかもしれません。そして自分などいてもいなくても大して変わりがない、と思ってしまうのです。何にしても、自分以外のものに対して役に立っているかどうか、というのは人間にとっては非常に大事なことだと言えるでしょう。
だから、私たちは、自分にはどんな仕事が向いているのだろうか、とか、自分の個性、特徴、特異なことは何か、自分を生かせるのはどういう場所か、ということを考えるのだと思います。今日の説教題には、「自分探し」という言葉を入れてあります。私たちは、やはり人から、誰かから自分をよく評価してもらいたいし、そのために自分を磨きたい、高めたい、という思いを持つものだと思います。特に若い時はそういう思いは強いかもしれません。そしてもしかすると自分には特別な才能があって、人よりもすぐれている面があるのではないかと思いたい。しかし、段々と年を取ってきますと、そうでもないことがわかってきます。極端な例としては、一流大学に入った人が、いざ入学してみると、それまではいつも学校で一番だったのに、自分よりもはるかに優れた人がいることを知って、自分など大したことはないと思い知らされる、という話を聞いたことがあります。そして凡人としての生活に甘んじるようになるのです。それでも、私たちはやはり自分を高めたい、高く見られたい、一角の人物だと認められたいという思いがどこかに潜んでいるのかもしれません。
そして、やがて自分の分を知り、並みの人間として生きてゆくか、人には自分の才能はわからないのだ、と開き直るか、ということになるかもしれません。結局、私たちは自分を正しく認めて受け入れてくれるところを求めているのでしょう。

2.すべてを知る神がおられる
このような私たちに対して、先ほど読んだ新約聖書のヨハネの手紙には、神が私たちのことをどう思っておられるか、ということが書かれています。この手紙を書いたのは、イエス・キリストの12弟子の一人であるヨハネです。彼は、いつもイエスのそばにいた弟子で、ペトロ、ヤコブと共に、いわば側近中の側近でした。イエスのなさることを間近でいつも見ていたのです。
28節で、「御子の内にいつもとどまりなさい」と言っているのは、イエスを信じたならば、その信仰にしっかりと踏みとどまりなさい、ということです。どうしてかというと、この当時、すでにイエス・キリストが神のもとから来られた方であると信じない人たちが大勢おり、イエスが神の子であると認めない人たちがたくさんいたからです。そういう人々の中にいるとだんだんと自分の信仰が流されて行ってしまいがちだからです。
そういう環境の中にいる信者たちに、ヨハネは、御父、つまり神が私たちを愛してくださっているのだ、ということを思い出させています。今日、ここにおられる方々は、キリストを既に信じている方でなければ、このことはよくわからないかもしれません。しかし、ここでまず一つ知っていただきたいのは、神は、私たち人間をお造りになった方であり、命を与えてくださった方である、ということです。そしてさらに知っていただきたいことは、その神は、私たちをご自分の子どもにしたいと願っておられる、ということです。こういうと、おかしい、と思う方がいるかもしれません。神が私たち人間を造って、命を与えたのなら、もう私たちは既に神の子どもなのではないか、と。もっともな意見かもしれません。しかし、残念ながら、今の人間は生まれながらにはそうなってはおりません。本来、一緒にいるべき神のもとにいなくなってしまったので、人間にはいろいろと苦しみ悲しみが降りかかってくるようになってしまったのです。聖書には、人間は道を誤ってそれぞれ自分の生きたい方に向かって言った羊の群れだ、と書かれています(イザヤ書53章6節)。そのような人間に対して、神は、帰ってきなさい、と呼び掛けておられます。神のもとから離れて行って、自分は何者か、とさ迷い出て行った人間は、行き着くべき所に行き着くことができず、迷子状態になっているのです。それが「自分探しに疲れた人」だと言えるでしょう。もしかすると、自分は自分なりに、自分というものを見出してそれなりに人生を切り開いている、という人がいるかもしれません。しかし、実はすべての人間が自分探しに疲れている人であります。真の神に出会うまでは、私たちは真の自分の姿を見出すことはできません。自分に満足し、自分はこれで十分だと思う人よりも、自分探しに疲れてしまっていることを自覚している人の方が、神の前ではまだ希望があると言えるかもしれません。

3.神に愛されていることが幸い
 しかし幸いにも、神は神のもとからさ迷い出てしまっている私たち人間を探し出して、御自身のもとに引き戻そうとしてくださっています。そのことは、神がこの世にお送りくださったイエス・キリストを見ることでわかる、と先ほど朗読したヨハネの手紙は書いているのです。父である神は、神の子である御子を与えて、その御子キリストによって私たちを招いておられます。御父がどれほど私たちを愛してくださるか、考えなさい、と言われています。それは、キリストが私たちを救うために十字架で死んでくださったことに現されております。そうして、その十字架のキリストを見上げる者を、神の子どもにしてくださる、と言っています。見上げるというのはその救いを求めて願うことです。
 私たちは、ここに自分を見出す必要があるのです。自分にはキリストの十字架が必要だと認めて、十字架のキリストを仰ぐこと。そこでこそ、私たちは自分を見出すことができます。そして、そこにしか、私たちの本来の姿を見出せるところはないのです。神に寄りすがらなくても自分で何とか生きて行ける、という強がった思いを捨ててイエス・キリストの十字架のもとにくるなら、私たちは神に愛されている自分を見出すことができます。
 教会はキリストの十字架のもとに自分を見出した人たちの集まりです。ここでは、役に立つかどうか、仕事が良くできるかどうか、業務成績を誰よりも上げることができるかどうか、利潤をもたらすのに役立っているかどうか、で判断されません。キリストの十字架のもとに身を低くするなら、それでよいのです。それで神に愛されていることがわかります。それは神を喜ばせていることになります。私たちも、誰かを愛するなら、その人が自分にどれだけ役立っているか、役立つかで判断などしないはずです。愛は打算を超えているからです。自分探しに疲れていることを自覚する人がいるなら、その人は、イエス・キリストのもとに自分を見出し、そこに真の安らぎと居場所を見出すことができるのです。

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