「主を知る心を与える」2019.10.27
  エレミヤ書24章1~10節

 今日は預言者エレミヤの預言から神の御言葉を聞きましょう。この24章にはいちじくの譬えが出てきます。良いいちじくと悪いいちじく。この対比によってこの当時、二つに分断されてしまったイスラエルの人々のことを現しています。そして、良いいちじくとみなされた人々に、主なる神は何をしてくださるのか、ということをこの箇所は教えています。そしてこの箇所から、今日の私たちに対しても主なる神は何をしてくださっているのか、を私たちは聞き取るのです。そして今日教えられていることは、私たちの信仰の根本に関わることであり、私たちの信仰はどこから来ているのか、どこに根拠と土台があるのか、つまり私たちが神を信じることの確かさはどこにあるのか、ということです。

1.預言者エレミヤの時代
エレミヤは紀元前7世紀の後半から6世紀にかけて活動した預言者です。旧約聖書の中で、イザヤ書がまず預言書の最初に出てきます。イザヤはエレミヤよりも1世紀前、紀元前八世紀の預言者です。イザヤ書は66章まであり、章の数では最多です。エレミヤ書は52章です。それだけ見るとイザヤ書が一番長いのですが、分量で見ると、新共同訳ではちょうど同じページ数になります。イザヤ書に匹敵するかそれ以上の分量に及ぶ預言をしたのがエレミヤなのです。彼はイスラエルの王から迫害されて命を狙われ、大変苦しみを受けた預言者でした。その個人的な苦しみを述べたところもあります。そういう意味で預言者の個人的な心の思いが非常によく現されている預言書です。今日の箇所は、エレミヤ個人のことはあまり関係ありませんが、ここでエレミヤは主から二種類のいちじくを見せられて、これから主がなさることを教えられました。主の神殿の前に、いちじくを持った籠が文字通り置いてあったのか、あるいは幻として主が見せられたのかはっきりはわかりません。主は時に幻によって預言者たちに何かを伝えられましたから、このいちじくも幻のようにして示されたことは十分考えられます。
この頃のイスラエルは、バビロン帝国の脅威にさらされており、ネブカドネツァル王が紀元前六世紀の初めころにユダに攻め込んできて、国のおもだった人たちを捕囚としてバビロンへ連れ去ってしまいました。この一節の出来事は、紀元前597年のこととされています。

2.良いいちじくと悪いいちじく
ある人たちが連れ去られた結果、イスラエルの国に残った人たちと、連れ去られた人たち=「捕囚の民」との間に、溝が生じました。残った者たちは、自分たちが主の御心にかなっているから連れ去られなかったのだ、と考えたのでした。ゼデキヤ王や高官たちは国に留まっていました。そしてバビロンへ連れ去られた者たちは、神の裁きを受けて、罰を受けているのだ、という考え方です。
しかし主が言われたことは違っていました。捕囚として連れ去られた人々は良いいちじくであり、国に残った民は非常に悪いいちじくに譬えられたのでした。悪いいちじくは非常に悪く、食べられないものでした。それは世界のあらゆる国々の恐怖と嫌悪の的となること、そしてやがて主に追いやられたところで辱めと物笑いの種となるのでした。主が良いいちじくに譬えられた者たちは、主が恵みを与え、やがてイスラエルに連れ戻してくださいます。実はこれと同じようなことを既に主はエレミヤを通して告げておられました。近隣の悪い民からユダの家を抜き取り、その後彼らを憐れみ、元の土地に帰らせると(12章15節)。その時には、もしその民が主に従わなければ抜き捨てられる、と言われておりました。しかし、今度の場合は少し違います。主は民に恵みを与え、連れ戻したらもう抜き捨てることはない、と言われています。ここには、単に民が従うかどうか、それ次第だということとは違う意味が込められています。捕囚となった民は、必ず帰ってくるし、その民は主の民となり、主が彼らの神となる、と言われています。ここには、従うかどうか、彼ら自身の信仰深さだけによらない恵みが示されています。

3.主を知る心を与えていただく恵み
この24章7節は、エレミヤ書の中でも、非常に大事な教えが示されています。その一つが先ほど言いました、民が主の民となることと、主が彼らの神となられることです。そしてもう一つの大事なことが、ほかでもない、主自ら、彼らに主を知る心を与える、ということです。ただ従え、と命じるのではなく、民の心そのものを新しくして、主を知る心に造り変えてしまう、というのです。
ところで、主を知る、とはどういうこととして言われているのでしょうか。実はそこが非常に大事な点です。知ると言ってもいろいろあります。名前を知っている、歴史の中で何をされたかを知っている。まずそれは必要なことではあります。しかし、それ以上のことです。イスラエルを選び、導いてこられた主なる神、天地創造の神が、自分の主であられることを知る。そうでなければ、どれだけ神についての知識をもっていても、ここで言うところの「主を知る」ということにはなりません。
また、主を知る心を与えられた者は、神の民としていただき、主が神となってくださるのですから、もはや神から引き離されることはありません。ところが、先のエレミヤ書の譬えのように、イスラエルの人は神に対して罪を犯すことで悪いいちじくとなってしまいました。では、神の恵みを受けて良いいちじくとされた人はもう罪を犯すことのない、全く清い人になったのかというと、そうではありません。この世に生きている限りは罪と過ちを犯す者です。では悪いいちじくと良いいちじくの違いは何でしょうか。良いいちじくと呼ばれる人たちには、主を知る心が与えられるのでした。主を知る心を与えられた者も、この世では罪を犯してしまいます。しかし、それでも主の御前に罪を悔い改め、主に立ち帰り、主につながっている者。主に立ち帰るなら罪を赦していただけることを知っている者です。そして主により頼む者です。真心をもって主なる神のもとへ帰る民とされるのです。
主が一度主の果樹園に植えてくださったなら、その者はもう二度と抜かれることはありません。主が自ら手入れをして、良い実を結べるようにしてくださいます。旧約聖書では、民をいちじくに譬えるよりも、しばしばぶどうに譬えられてきました。そして主イエスもご自分をぶどうの木に譬え、イエスを信じてつながっている者をぶどうの枝に譬えられました(ヨハネによる福音書15章)。今日、主イエスを信じてより頼み、その導きを信じ、何よりも主イエスの十字架の死による罪の贖いが与えられていることを信じている者は、主を信じる心を与えられた者の内にいるのです。この、聖書において語り、神の御子キリストを遣わしてくださった神こそ、真に主と呼ぶべきお方であり、他に主と呼ぶべき神は存在しない、ということを主を信じる者は知っています。
イスラエルの民は神の前に罪ある者であり、いくら外から耳に語り掛けられ、戒めを守れ、と命じられてもそれを行えないのが現実でありました。イスラエルの民の歴史は、それが人の現実である、ということを証明していました。それで神は、ただ耳に向かって戒めを守れ、と命じるだけではどうにもならない罪人のために、「主を知る」心を与える、という全く新しい恵みを施すこととなさったのです。このことがこのエレミヤ書の主題と言ってもよいものです。そして、主を知る心を与えられた者の姿を示す実例として、ヨシヤ王のことが挙げられています。「彼は貧しい人、乏しい人の訴えを裁き そのころ、人々は幸いであった。こうすることこそ わたしを知ることではないか、と主は言われる」(エレミヤ書22章16節)。王として権力を振るうのではなく、民のために適切な裁きを行ったのがヨシヤ王でした。その反対に不当な利益を追い求め、無実の人の血を流し、虐げと圧制を行っている。ヨシヤ王の息子のヨヤキム王がそうであった、と言われています(同17節以下)。
私たちも、もしかすると自分はヨシヤ王ではなく、ヨヤキム王ではないか、と思ってしまうかもしれません。むしろそれが現実かも知れません。なぜなら、私たちは自力で主を知る心を得ることができないからです。しかし、主は約束されました。生きておられる真の主を信じて、信仰を告白する民を起こす、そのような時代を来たらせる、と。それを実現されたのが救い主、神の御子イエス・キリストなのです。主を知る心を与えていただけるように祈り願う者に、主はその心を与えてくださいます。私たちの信仰の確かさは、主の約束に土台があるのです。

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