「真の王なるキリスト」2019.10.20
 使徒言行録 17章1~9節

 この世の中には、国家権力というものがあって、私たち庶民を治めています。これは今日では全世界どこでもそうであって、統治の仕方はいろいろです。王がいたり、大統領がいたりします。日本はどちらでもありませんが、象徴天皇制という独特な仕組みです。近年、特に皇室への親しみの度合いが国民の中で高まっているようには見えます。そういう中で、今週の22日に新天皇の即位の礼という儀式が行われようとしています。国が相当な費用を注ぎ込んで国を挙げて行おうとしているわけで、このこと自体、日本の抱えている問題を示していると言えます。そのような中、今日の朗読した聖書箇所から、私たちにはイエスという王がおられる、と教えられています。この、紀元1世紀に書かれた使徒言行録の今日の箇所は、今日の私たちにもまた、この世の国家とそこに生きる私たちに、私たちは誰のもとで生きているのか、だれを真の意味で王として仰いで生きているのか、ということを教えているのです。

1.一世紀のクリスチャンたちの置かれていた状況
この当時、ユダヤ人たちは各地に散らばっており、それぞれの土地で会堂を建てて、安息日の礼拝を行なっていました。安息日は土曜日です。このテサロニケは、マケドニアの都市です。2節で、パウロはユダヤ人の集まっているところへ入って行き、聖書を引用して論じ合ったとあります。ここでいう聖書は、今私たちが手にしている旧約聖書です。パウロはまず、メシア、つまりキリスト(救い主)は必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた、と述べました。そして、パウロが宣べ伝えているイエスこそ、このメシアである、と説明しておりました。聖書(旧約聖書)に親しんできたユダヤの人々にとって、最初の点は同意できるものでした。しかし二番目の点は同意することができない人がいたのです。パウロの話を受け入れて信じた人たちは、かなりの数の人たちだったと言われています。ユダヤ人たちが住んでいた地域にいたギリシャ人たちの中には、神をあがめる多くの人たちもいたのでした。しかし、ユダヤ人の中にはパウロの話を受け入れず、却ってならず者を抱き込んで暴動まで起こし、ヤソンという人の家を遅い、乱暴なことをしでかしたのでした。その動機は妬みから来るものでした。自分たちを差し置いて、後から入ってきたパウロたちが、ユダヤ人のみならず、多くのギリシア人たちまで信じさせていることを妬んだというわけです。いつの世でも、人の妬みというものは人をゆがんだ行動に誘うものなのでしょう。イエスが十字架につけられた時も、イエスを信じない人たちがローマ総督ピラトのもとに連れられてゆきましたが、その時の人々は、妬みのゆえにイエスを引き渡したのだ、とピラト自身が悟っていました(マルコによる福音書15章10節)。

2.世界を騒がせてきた連中
暴動を起こした人々は、ヤソンたちを町の当局者たちの所へ引き立ててゆき、クリスチャンたちを、「世界中を騒がせてきた連中」と誹謗しました。この人たちが世界中、というのと、今日の私たちが世界中というのとでは、だいぶ規模が違います。紀元1世紀の人々にとっては、イスラエルとその周辺、東はペルシャ、西には今のトルコ、ヨーロッパ、さらには地中海を囲んでローマ帝国、南西にはエジプト、といった国々があり、そのくらいの範囲で世界中、と言っていたわけです。今日の私たちが知っている地球規模での世界中というのとは違います。特に日本のことなど知らないですし、アジアも南北アメリカ大陸も、オーストラリアも知らないでしょう。いずれにしても彼らは自分の知っている「世界中」をクリスチャンたちが騒がせてきた、と言います。
紀元1世紀、ローマ帝国の一部であるユダヤの国で生まれたイエス、という一人の人物が、ガリラヤで宣教活動を始め、3年ほどの間にガリラヤとエルサレムの間を行き来し、時にはほかの地方にも出かけて行って病人を癒し、様々な奇跡を行っていた、ということは人々の間に知られていました。そしてローマ帝国のもとで犯罪人として処刑されたのにも拘わらず、そのイエスが十字架の上で死んでから3日目に復活した、とクリスチャンたちはあちらこちらで告げ知らせてきたのでした。イエスを信じないユダヤの人たちは、苦々しい思いを抱いていたのでしょう。
果たしてキリスト教会は、世界中を騒がせてきたのでしょうか。ここでユダヤの人たちがクリスチャンたちのことを、世界中を騒がせてきた連中、と言うのはあくまでもユダヤの、しかもイエスを信じない人たちにとっての言い分です。イエスも、イエスの復活も信じない人たちにとっては、ありもしない復活などをあちらこちらで告げ知らせているのですから、腹立たしいことこの上ないわけで、それこそ世界中を騒がせている、と言いたくなったということでしょう。自分たちユダヤ人だけでなく、世の中にとって迷惑だ、と言いたいのです。

3.イエスという別の王がいる
果たして、本当にクリスチャンたちは世界中を騒がせてきたのでしょうか。もしそうだとしたらなぜでしょうか。仮に、もしこの世界にイエス・キリストがお生まれにならず、キリスト教なるものが存在せず、キリスト教会も、もちろんなかったとしたら世界はどうだったでしょうか。世界中を騒がせて来た人たちがいなかったから、世の中は静かで、穏やかだったのでしょうか。確かに、キリストの福音は、目に見えるものや、実験で確かめられることしか信じない人たちにとってはことごとく受け入れがたいことを告げ知らせてきました。「目に見える世界は、目に見えない神の御手によって造られた。神は、預言者モーセによって海を真2つに分けてイスラエルの人々をエジプト軍から救われた。そしてついには神の子がこの世に人となって生まれた。そしてその神の子は、多くの奇跡を行い、風や波を鎮めることはもちろんのこと、死んだ人を生き返らせることさえした。そして極めつけは神の子キリストは十字架で貼り付けにされて殺されたけれども、3日目に復活された。そしてこの復活は、ただ息を吹き返した、ということではなくて、急に姿を現したり消えたりすることができる、まったく新しい次元の命に復活したのであった。そして、天に昇られたイエス・キリストは、やがて再びこの世に来られる、と約束している。」
これらのことを、キリスト教会は代々世界中に告げ知らせてきました。目に見えることしか認めない人にとっては、驚かされることばかりであり、今となっては奇跡などが科学的に事実であるかどうかを確かめることができなくなっていることばかりです。キリストの福音は世界を騒がせてきたかどうかはともかく、この世界に対して全く新しいことを告げ知らせてきたのは事実です。人々を驚かせ、目に見えないものに目を向けさせ、永遠の命、永遠の神の国を待ち望むようにと言っているのですから。そしてこのキリストの福音は、人々に真の希望と平安とその場限りではない喜びを与えてきました。そして、目には見えなくとも、イエスという真の王がおられることを示してきました。
クリスチャンたちも、この世に生きている限りは、どこかの国の国民であり、その国家権力のもとに生活しています。しかし、イエスという別の王を仰いでいます。この王は、王を信じる民を愛し、慈しみ、魂の救いを与え、来たるべき新しい世界に対して備えるようにさせ、必要なものを与えてくださる王であられます。この世で罪を犯し、神に対して罪を犯している私たち人間の罪を取り除くためにご自身を十字架で献げて犠牲の供え物としてくださった方です。いったい、この世のどこの国に自分の国民を救うために自分を犠牲として献げた王がいたでしょうか。王はその国に君臨して民の上に権力を振るいます。自分の国より強い国に攻め込まれれば、打ち取られて殺されるだけで、死んでしまえばそれまでです。しかし、キリスト、という王は違います。民のために死ぬことを通して民を救います。そして民を不安にさせ、悲しみを与える死そのものを滅ぼすために死から復活された方です。死すらもご自身の権威のもとに治めておられます。その権威には何にも勝る力がありますが、決して民に横暴なふるまいをすることがありません。民を強くし、成長させ、訓練された民とするために時に試練や困難な状況を与えるけれども、試練と同時に助けの道も備えてくださる王です。決して民を絶望の中に突き落としたままにしておかれることがありません。そして民一人ひとりの力量も、器がどのくらいかも見通しておられます。だから民は安心してその統治に身をゆだねることができます。そしてついにこの世を去るべき時が来たなら、私たちを栄光の、永遠の神の国へと招き入れてくださいます。キリストは死を経験されましたが、死に打ち勝たれたので、その後についてゆく者をもしに打ち勝たせてくださいます。このような王が私たちに与えられているのです。この真の王なるイエス・キリストの民としていただいた者は、まことに幸いな民であります。

コメント

このブログの人気の投稿

「聖なる神の子が生まれる」2023.12.3
 ルカによる福音書 1章26~38節

「キリストの味方」2018.1.14
 マルコによる福音書 9章38~41節

「主に望みをおく人の力」 2023.9.17
イザヤ書 40章12~31節