「主の道をまっすぐにせよ」2019.9.8
 ヨハネによる福音書 1章19~28節

ヨハネによる福音書は、ほかのどの福音書記者もしなかったような仕方で、イエス・キリストのことを文書に表しました。ヨハネにとって、自分が約3年間ともに過ごした先生、主、救い主である、と信じたイエス様が、永遠から神として存在しておられたのだ、ということを神から示され、そして自分自身身近に過ごすことで確信してこのように書きました。初めから神と共にあり、神であり、初めに神と共におられた方であると。そしてそのキリストをロゴス、という言葉で示しました。そしてこのロゴス=「言」と言われる方が人としてお生まれになり、私たちの間に宿られたと。こうしてヨハネは神の御子キリストについて、全世界に対して他の誰もしなかった書き方で、神の御子イエス・キリストを証しし始めました。そして、今日朗読した19節以下で、18節で書いたことを展開してゆきます。父なる神の懐にいる独り子である神が、どのように神を示されたのかをいよいよ書いてゆくのです。

1.ヨハネとは一体だれか
まず福音書記者のヨハネは、洗礼者ヨハネについて記します。人々は、世に出てきて人々に洗礼を授け始めたヨハネを、もしかしたらこの人がメシア=キリストではないか、と思ったのです。ユダヤの人々は、長年メシア=キリスト、つまり救い主が世に到来してユダヤ人を救ってくださり、イスラエル王国を打ち立ててくださる、と期待していました。今でも期待して待っています。ですから、世に現れて毛衣を着てヨルダン川で人々に洗礼を授けているヨハネはそのメシアかもしれない、と思ったのです。
そこで人々は祭司やレビ人をヨハネに遣わして、ヨハネが誰なのか聞かせました、しかしヨハネは自分からはっきりと自分はメシアではないと公言します。すると彼らは、ではエリヤですか、とかあの預言者ですかとさらに聞いてきます。エリヤは紀元前9世紀に活動した預言者であり、旧約聖書の中でも重要な人物の一人です。旧約聖書の最後の書であるマラキ書に、エリヤが再び来る、と予告されていますのでそう思ったのです(3章23節)。また、「あの預言者」とは、旧約聖書の申命記18章18節で言われている、モーセのような預言者のことです。主はそのものに主の言葉を授ける、と言われました。しかし、ヨハネは、どちらについても違う、と言いました。しかし、後に主イエスは洗礼者ヨハネこそ現れるはずのエリヤだ、と語られました(マタイ11章14節)。
ヨハネの答えは、自分は預言者イザヤが語っていた、「荒れ野で叫ぶ声である」というものでした。その声が語る内容は、「主の道をまっすぐにせよ」というものでしたが、それについては後で学ぶことにします。イザヤは、紀元前八世紀に登場した預言者で、非常に大事な預言をいくつも語りました。特にメシア=キリストの到来を最も明らかに語った預言者と言えます。そのイザヤ書の40章3節に、「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」とあります。当時のイスラエルは、アッシリア帝国の脅威にさらされており、攻め込まれようとしていました。そして北イスラエル王国は紀元前8世紀のイザヤの時代に滅ぼされてしまいます。更にやがて南のユダ王国も紀元前6世紀に、バビロン帝国に滅ぼされてしまいます。
しかしやがて主はイスラエルを憐れんでくださって、民の上に慰めを与える、と約束されました。その時に備えて、主なる神を迎える心の準備をせよ、と言っているのがこの預言です。ヨハネはこの箇所を引用して、自分はこのように荒野で叫ぶ声であると言ったのです。それは、今、ヨハネがいるこの時代において、イザヤの時に起こったのと同じことが、しかももっと鮮やかに起こるということなのです。そしてこの叫ぶ声は、神からの呼びかけです。この神からの呼びかけはイザヤの時から、このヨハネの時を経て、今日にまで及んで続けられています。私たちはこの呼びかけを、昔の出来事として過去のお話の中に押し込めずに、今聞くのです。

2.ヨハネの授ける洗礼
それで、ヨハネがこの時行なっていたことを見ましょう。彼は、主の道をまっすぐにするために、神から遣わされて登場しました。彼はこの時、水で人々に洗礼を授けました。ヨハネのこの洗礼は、人々に自分の罪を認めて悔い改めさせるためです。彼は神の前に罪を告白することを人々に求めました(マルコによる福音書1章5節)。ルカによる福音書は、この罪を具体的に伝えています。徴税人が規定以上のものを取り立てること、兵士たちが金をゆすり取ったり、だましとったりすることなどです。そしてこれらをやめるようにと命じ、自分の給料で満足するようにと勧めます。さらに、物を持っている者は持たない者に、物や食べ物を分けてやるようにと言っています(ルカによる福音書3章10~14節)。
ところで、ヨハネがここで書いているだけのことを見ていても、洗礼者ヨハネがなぜ洗礼を授けていたのか、あまりよくわかりません。ヨハネの読者たちは、マタイやマルコ、ルカたちの書いた福音書の内容をある程度知っていた人たちもいて、洗礼者ヨハネが人々に悔い改めを命じ、それに答えて罪を告白した者に洗礼を施していたことは知られていました。それでヨハネはそれを前提として、29節で言われている「世の罪を取り除く神の小羊」の到来に備えて罪を悔い改めて洗礼を受けるように人々に促していたのでした。ヨハネの洗礼は、人々に神の前での自分の罪を真に自覚させて、救い主が必要であることを確認させ、そうしてヨハネの後に来られるメシア、救い主なるイエス・キリストを迎えるように備えをさせるためでした。それが主の道をまっすぐにする、ということでもありました。ですから、これは今日のキリスト教会の洗礼とは違うものです。ヨハネの洗礼は、この時だけの独特なものです。すでに神を知って生きているはずのユダヤ人に対して施された洗礼でした。神を知っているはずのユダヤ人こそ、神の前に真に悔い改めて、救い主=メシアを迎える備えをせよ、と言うのです。自分たちは神の民だ、などと誇っていないで、へりくだって神の前にある罪を認めて、行いを改めよ、ということです。

3.主の道をまっすぐにせよ
では、最後に、「主の道をまっすぐにせよ」というヨハネの言葉に改めて聞きましょう。主の道、とは抑々何かと言えば、イザヤが言ったことは、バビロン帝国に連れ去られていった捕囚の民がイスラエルに帰還できると主が約束なさったのだから、主が備えてくださった道をまっすぐにして、その道をへりくだって感謝して、主に従って歩め、ということです。そのずっと昔、神はエジプトで奴隷になっていたイスラエルの人々を、モーセを立てて救い出し、約束の地カナンへと導いてくださいました。それもまた、主の道が備えられていたことでした。その時のことも踏まえて考えると、主の道が見えてきます。主が、救い出してくださったことを感謝して、喜んで、主に従って信仰によって歩む道です。ヨハネは、その救いを備えてくださるメシアが、自分の後にもう来ておられるから、喜んで迎え入れよ、と言っているのです。
今日の私たちが信仰によって歩む道はどうでしょうか。私たちは、洗礼者ヨハネが指し示したメシア=イエス・キリストを既に示していただいています。この方を信じるなら私たちを罪と死と滅びから救い出してくださる、という福音を信じました。ただ、私たちも古い生き方を脱ぎ捨てて、新しくされて信仰の道へと踏み出してきたはずです。主イエスを信じて生きる道は、自分で自分を清くして、正しくして、まっすぐにして立派な信仰者になるということではありません。むしろ、主が備えてくださった救いの道はすでに目の前に敷かれているので、あとはその道を選び取って、喜んで受け入れて、先を進まれる主イエスを見つめて歩き出すことです。それは、主イエスが言われたように、狭い道でもあります。世の人の多くは歩こうとしないかもしれません。しかし、それは真の宝であり、永遠の命への道です。
すでに、キリストによって道は敷かれています。私たちは自分の心に救い主を迎え入れて、その道をひたすら進むだけです。私たちに求められているのは、今まで自分が歩いていたこの世の道、-それは真の神から外れていく道でした-、から乗り換えて、神に向かって方向転換し、この世に、そして私のもとに来てくださったメシア=救い主を受け入れることです。そしてそのまっすぐな道こそ真の命への道であると喜んで歩いてゆくことです。それは、今こうしているように、神への礼拝を献げて神に栄光を帰することです。生活の中でも、真の神がおられることを信じて、その恵みのうちに生かされていることを感謝し、喜んでいることです。この世では、私たちはなお、主の道から外れさせようとするものが多々あります。しかし、主イエスを見上げる時、先立って進んでくださる確かな導き手がおられることを知るのです。十字架と復活の主イエスを見上げて、歩み続けましょう。先週、天に召された愛する姉妹のことを思い出しつつ、私たちにも必ずその時が来ることを忘れずにいましょう。私たちは、主がまっすぐに整えてくださった主の道を、主とともに歩ませていただいているのです。

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