「恵みと真理が現れた」2019.9.1
 ヨハネによる福音書 1章14~18節

救い主イエス・キリストの弟子の一人だったヨハネは、イエスに選ばれて、12弟子、即ち使徒の内に加えられてその十字架の死を見届けました。そして三日目に墓から復活されたイエスにもお会いして、確かに自分の先生、主と呼んでいた方が生きておられることを知り、多くの人々にイエスのことを教え、教会を指導してきました。ヨハネは、イエスのことを語るだけでなく、書物に残そうとしてこの福音書を書きました。そして、彼はイエスのことを人々によく悟らせるために、ギリシャの世界で用いられるロゴスという言葉を用いました。
ギリシャの哲学者たちはこの言葉を用いて、世界を成り立たせていて、凡ての物に充満するある原理、宇宙の合理的な原理を現そうとしました。しかし、彼らは、このロゴスを原理または力としか考えなかったようで、人格的な者とはみなしていませんでした。ヨハネはこのような言葉を用いて、ギリシャ思想の中で生きている人々が、注意して聞くようにとこの言葉を用いたのだと思われます。しかしギリシャの人々にとっては、神々はこの世界に対して超然としていて、人々の苦しみや悲しみ、喜びに共感するような存在ではなかったのでした。ヨハネは、自分が伝えようとするロゴスなるキリストは、そういうものとは違って、私たち人間の生きるこの世に人としてお生まれになったのだ、ということを語りました。ですから、ヨハネはロゴス、という言葉を用いてはおりますがギリシャ哲学とは異なる意味でロゴスという言葉を用いてイエス・キリストを示そうとしました。そして、その方こそ実に恵みと真理に満ちた方だと言っているのです。

1.言は肉となって宿られた
「言」と呼ばれているお方、イエス・キリストは、ほかのすべての人と同じようにこの世に人として生まれ、私たち人間の世界に宿られました。「宿る」という言葉は、テントに住む、仮小屋住まいをする、という意味があります。旧約聖書の時代、モーセに導かれたイスラエルが荒れ野の旅を続けていた時、神はイスラエルの人々の天幕において、ご自身の栄光を現されました(出エジプト記40章34、35節)。また、主はイスラエルの人々の「ただ中にわたしの住まいを置き、~あなたたちのうちを巡り歩」くと言われたこともありました(レビ記26章11節)。ですから、これまでにも神は人々の内に宿られたことは全くなかったわけではありませんでしたが、それは目で見たり手で触ったりすることのできる仕方ではありませんでした。しかし今や、「言」と呼ばれる方が肉体を取って人々の間に宿られたのです。
しかしこの「宿られた」という言葉をめぐって、古代の教会においてある論争が生じました。神である方が人となってこの世に生まれたということは、どういう仕方で成り立ったのだろうかということです。そもそも神が体をとって人間として生まれてくることなどありうるのだろうか、という疑問がその出発点です。 私たちの間に宿られた、ということを、単に人としての姿が人々に見えた、というように理解する人たちがいました。こういう理解をキリスト仮現論と言います。この考え方には、神が人間となることなどありえない、という思想が背後にあります。しかし、ヨハネが書いたのは確かに「言」は肉となって私たちの間に宿られた、ということです。この「わたしたち」というとき、ヨハネは文字通りそこに居合わせたのであり、目の前で人として生活しておられるイエスを見て、声を聞き、それこそ寝食を共にしたのですから、そのイエスが、たとえばいわゆる幽霊のように実体はなく姿だけ見えていたのに、人となられたことを見誤るなどということはあり得ないわけです。

2.恵みと真理が現れた
イエスは、確かに見た目は普通の人間でしたから、ほかの人と比べて外見上の大きな違いはなかったはずです。しかし、ヨハネは寝食を共にすることを通して、また、事ごとにイエスがなさる御業や、語られる御言葉を通して、神の独り子としての栄光をその内に見ていたのです。他の福音書にありますが、外見上誰が見てもその姿が変わったことはありました。ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちだけを連れて高い山に登られた時に、その姿が真っ白に光輝いた、という出来事です。ヨハネは確かにこの栄光に輝く姿を見ましたから、1章14節で、「わたしたちはその栄光を見た」と言う時、この出来事が念頭にあったということは考えられます。しかし、ヨハネにとって、イエスの栄光はそのように目に見える輝かしい姿のことだけを言っているのではなくて、その生涯を通じて表されたものであり、特に十字架の死によって明らかにされたものです。人から見れば、惨めな死に映る十字架の死が、実は神の恵みと真理を現す栄光に満ちたものでした。私たちは十字架のイエスの姿の内に、神の深い知恵と恵みと真理が示されていることを信仰によって見るのです。
「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」とヨハネは書いています(17節)。この恵みは神からのものです。恵みとは、代償を求められずに何かをいただくことができることです。しかも、受け取るものは、良いものです。恵みとか恩恵とかいう場合、私たちに大きな利益や喜び、満足をもたらしてくれるものをさすと思います。つまらないものをいくらただでもらっても嬉しくもないですし、恵みだとは思いません。ここで言われている恵みは、神の満ち溢れる豊かさの中から与えられる恵みです。それは、1節以下で既に語られていたことをひとまとめにして言ったものです。光であり、命である方がこの世に来てくださったことによって神による新しい命を与えられ、神の子供となる資格をくださること。これが神が私たちに下さる恵みです。
そして、真理もまたイエス・キリストを通して現れました。ロゴスと言われるイエス・キリストは、人間を照らす光ですから、私たち人間が何者であって、どのような存在なのか、私たちはどうなるのか。そういうことについて光を与え、私たちを照らして、まず私たちを神の光の下にさらされます。そして、私たちには神から来られる神の御子、キリストが必要であることを教えてくださるのです。

3.神を示された独り子なる神
 このイエス・キリストというお方は、もともと神として存在しておられ、天地創造にも携わり、万物を成り立たせ、保っておられます。そのような方が神を示されました(18節)。この18節は、実に深い真理を私たちに告げています。「いまだかつて神を見た者はいない」。これは、聖書が教える厳然とした真理です。
 イエスご自身も言われたことがあります。「父を見た者はひとりもいない」と(ヨハネ6章46節)。ここで言う「見た」とは文字通り肉眼で、視覚的に見た、ということであって、信仰によって見るというような比喩的な意味で言っているのではありません。ところが、その誰も見たことがない神を、父なる神の懐にいる独り子なる神が示された、と言っています。見ることはできないが示すことをされた、と。この「示す」という言葉は、詳しく述べる、誰かに何かを物語る、陳述する、説明して聞かせる、という意味があります。神の御子であるイエス・キリストがこの世にお生まれになってなさったことは、人が肉眼でそのまま見ることのできない神を、人に示すためでした。その説明は、詳しく述べることであり、丁寧に物語るという仕方でなされました。百聞は一見に如かず、ということわざがあります。それくらい、見る、という行為は私たちに非常に多くの情報を伝え、確かな事実確認をさせてくれます。しかし同時に私たちの視覚、視力というものは、実に限られたものでもないでしょうか。というのも私たちは月の裏側を見たことがありません。人の視覚は、自分から見て反対側にあるものを見ることができないのです。また、一度に360度全体を見ることができません。右目と左目で同時に左右別々のものを見つめることができません。ましてやエックス線のように物を透視して見ることもできません。そんな私たちが、神を見ることができないのは当然です。神は人がパッと見て全て把握できるような方ではないからです。たとえば、小さな窓口に何かを申し込みに来た人がいるとして、向こう側に来た人の手元しか見えないとします。手とか、身分証明書、そして声、或いはその人について記してある書類等があれば窓口の人は、その人だと認めることができます。私たちが神を認めるのも、それに似ています。神はあまりにも大いなる方で、私たち人間の視覚や、知識、判断力などで簡単に把握することができません。
 しかしその神を私たちに示すために御子イエス・キリストが来てくださいました。そして私たちに説明してくださり、神とはどんな方であるかを陳述し物語ってくださいました。ヨハネはそれを明らかにしようとしているのです。ヨハネは直接イエス・キリストを示され、間近に見ました。その目撃証人として、私たちに語っています。そして、私たちにとって、神を示していただくことはこの上なく大事なことであります。極端な話ですが、私たちのこの世での人生は、真の神を示していただいて生きるか、それとも神を知らずにそっぽを向いて生きるか、どちらかです。私たちは、神が私たちを救い、神の子供とする資格を与えて生かしてくださる、という恵みがいかに貴いものであるかを知らねばなりません。そして、私たちに神を示してくださったイエス・キリストこそ真理そのものです。この神を示していただいて生きなさい、と私たちは召されているのです。

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