「恵みと救いを確信する」2019.8.25
 ヘブライ人への手紙 6章13~20節

 私たちは、神を信じ、救い主イエス・キリストを自分の救い主と信じてここに集っています。未信者の方、求道者の方は、まだそこまでの思いに至っていないかもしれません。しかし、私たちが信仰の道に入ってくると、目には見えないし、キリストが復活されたのを目撃したわけでもないのに、それを信じるようになります。それは、人間として考えるととても不思議なことではあります。そして、信じた者は、その信じた内容が本当である、真実である、と何を根拠にして言うことができるのでしょうか。今日は、この点について、ヘブライ人への手紙の教えから、ウェストミンスター信仰告白の記している所を参照しながら、神の御心を聞き取りたいと願っています。

1.神の約束は確実である
先ほど朗読したヘブライ人への手紙6章では、この手紙の読者のことを、神によって救われた人たちであると認めています。そして、その人々のことを現す、非常に大事な言い方が2回言われています。それは、12節と17節にあります。「約束されたものを受け継ぐ人たち」という言い方です。キリストを、自分の救い主と信じて罪の赦しをいただいた人は、神が約束してくださったあるものを受け継ぐことができます。それは、永遠の命であり、神の国の一員として、神と共に永遠に生きること、つまり神の国を受け継ぐということで、聖書全体が教えています。また、14節で言われているように、それは神の祝福です。抑々、神がある者を祝福してくださるなら、それはもうその人にとって何よりの幸いであって、神の祝福がその人に悪いものをもたらすはずがありませんし、その人にとっては幸福のしるしです。
神はそのようにある者たちを祝福する、とその昔、アブラハムという一人の人物に告げられたのでした(創世記12章1~3節)。それは、アブラハムの子孫を大いに増やす、という具体的な結果をもたらすものでした。アブラハムは大変高齢になるまで子供が生まれず、妻のサラが産む子供ではなくて、養子を迎え入れたり、別の女性によって子供が産まれるようにしたり、いろいろと考えられる手段をとりました。しかし神が考えておられたのは、妻のサラが産む子供が後を継ぐ、と言われたのです。それでアブラハムは25年待って、やっとサラの産んだ息子のイサクを得たのでした。神は、一度約束なさったら、必ずそれをお与えくださいますが、それを人が受けるには、忍耐と信仰が必要なのです。そうすることで、よりいっそう神の恵みに感謝を献げる者となります。そして、神の計画は不変のものであることを確信して、力強く前進することができるようになります。

2.恵みと救いの状態にあることを知る
「約束された者を受け継ぐ人々」のことをお話ししました。今、イエス・キリストを信じている人は、その中にいる、ということを覚えましょう。まだ信じていない方は、神の約束された恵みを受け継ぐことがいかに祝福されたものであるかを知っていただきたいと思います。
ところで聖書は、人間の置かれた状態について、4つの状態を示しています。もちろん、聖書そのものが一つ、何々、二つ何々、と言っているわけではありません。しかし、聖書の教えるところを、順序を正して整理すれば、それが見えてきます。先ほどウェストミンスター信仰告白のことにふれました。ハイデルベルク信仰問答も、ウェストミンスター信条も、聖書の教えを体系的に全体的に順序だてて述べていますが、今日はウェストミンスター信仰告白の18章「恵みと救いの確信について」から学びたく思います。その1節には、「神の愛顧と救いの状態」、「恵みの状態」という言葉が出てきます。これは同じことです。イエス・キリストを救い主と信じた人は、自分の、神に対する罪の赦しをいただいています。それは永遠の命を約束されたということで、神の恵みと救いをいただいている状態です。
恵みと救いをいただいている状態があるとすると、それらをいただいていなかった状態があるわけです。それが生まれながらの人間の置かれた状態です。聖書は、最初に創造された時の人間は、罪を犯していませんでしたから、まだ無罪の状態でした。しかし最初の人アダムが神に背いて戒めを破り、罪が世に入ってきました。「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだ」のです(ローマの信徒への手紙5章12節)。なぜアダムの犯した罪が私たちにまで及んでいるのか、ということについて、必ず疑問が出てきます。どうしてアダムの犯した罪のために我々も罪ありとされねばならないのか、と。その疑問が起こるのは当然かもしれません。しかし、私たちの内に罪があるのは、私たちの心の中と、言葉と、行いを顧みればわかります。ましてや神の前には明らかです。それを認めようとしない、認めたくない、ということ自体が罪のある証拠でもあります。
そのような無罪状態から、罪を犯してしまった状態、「罪と悲惨の状態」にすべての人は落ちこんでしまいました。それが堕落した状態です。ここまで3つ出てきました。①無罪状態=創造されたままの状態。②罪と悲惨の状態=堕落した状態。③恵みと救いの状態。そして四つめにあげられるのが、④完全に祝福された状態です。それは、この地上ではまだありません。この世を去って、神の国、天の国へ入れていただき、罪の贖いが完成して、まったく罪が取り除かれる時に実現します。そして一度完全に祝福されたなら、もう二度と堕落することはありません。普通の人間は、①は経験していません。そして、生まれながら②の状態にあります。そしてイエスを信じて救われたら③の恵みと救いの状態に入れられている。信徒の方々はこの状態にあるわけで、④を待ち望んでいます。
今日、お話ししたいのは、信じた者はこの状態にある、ということをどうやって確信できるのか、ということです。まだ④の完全に祝福された状態には至っていない。けれども、神が約束してくださった救いを信じて、しかも確信して生きているなら、自分が救われているかどうか、という不安はなくなるはずです。
私たちが自分の救いについて不安になったり、揺らいだりしてしまいがちなのは、どうしてでしょうか。その大きな原因は、自分の罪の悔い改めと、神とキリストに対する信仰とが大丈夫だろうか、と思う所にあります。自分の悔い改めと信仰が大丈夫だろうかと考えて不安になるのは、神とキリストが自分のためにしてくださったことから、いつの間にか、それを受け入れる自分の信仰の強さとか、信念の強さとかに目が言ってしまうからです。自分は頼りにならないことを知らねばなりません。キリストを見上げて、自分が今どうしているか、どうしたいか、という単純な事実にまず目を向けるのです。キリストを信じて洗礼を受けた。教会の礼拝に連なり、神を賛美し、祈り、御言葉を聞き、礼拝をしている。それらは神が導いてくださった結果である。そしてそれは、自分の内にいて、キリストを救い主と告白させてくださっている聖霊の恵みがあるからだ、という事実に立ち戻るのです。神の恵みを受けて救われたい。しかし自分の罪の自覚は年々大きくなってくるようにすら思える。けれども、そのように思うこと自体が、神につながっているしるしなのです。それは神の聖霊が働いているからこそ、そのように自覚するのだからです。
そして、ウェストミンスター信仰告白は、大変興味深いことを18章3節で述べています。「この無謬の確信(誤りのない確信)は、信仰の本質には属していないので、真の信者がそれにあずかる者となる前に、長く待ち、また多くの困難と戦うことがある」と。恵みと救いの確信は、信仰の本質には属していない。では信仰の本質とは何かといいますと、それは次のようなことです。神の存在を知らされ、神の前にある自分の罪を示され、罪を認めて悔い改め、イエスの十字架の死を自分のためであったと受け入れて、イエスを救い主と信じるようになる、ということです。もっと簡単に言うと、イエス様は私の救い主です、ということ。そこに信仰の本質があります。それによって自分が救われたとどの程度確信しているか、その信仰がどれだけ強いか。それは信仰の本質ではない、と言うのです。だからそれが人によって異なります。
また一人の人においても、信仰に入ったばかりの時とか、何かの大きな試練を受けた時、罪や過ちを犯してしまった時などによって、異なってくるのです。だからその確信を得られるようになるまで時間と、ある種の困難を経なければならないことがあるのです。しかし、イエスを信じて、イエスによりすがりたい。それしか自分には救いはない、と信じる者には、確かに救いと恵みが与えられているのです。また、現に教会とこの世において、主の民として働き、奉仕している(ヘブライ6章10節)ことがその証しです。

3.安定した錨のような希望を持つ
そのような恵みと救いの確信は、やはり神に目を向けることで得られます。ヘブライ人への手紙6章17節では、神の約束と誓い、という二つの不変の事柄が挙げられています。神の約束は必ず実現されますし、神は自らそれを誓われた(宣言された)のです。これ以上に確かなことはないと知るべきです。キリストは言われました。「私を信じる者には永遠の命がある」と。そうである以上、救いの希望を持つ私たちは、励まされ、一層力をいただいて神の国を目指して進んでゆけます。その希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものです(19節)。私たちはこのような恵みと救いの確信、安定した錨のような希望を、与えられた手段をよく、忠実に用いることによって得られます(ウ告白18章3節)。この手紙は、後の方でまたそれを語っています。互いに愛と善行に励むように心がけ、~集会を怠ったりせず、励まし合いなさい、と(10章23~節)。そうすることで、私たちもまた、恵みと救いの確信に至ることができます。聖霊の恵みに与った者が、神から捨て置かれることなど決してないからです。

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