「主の働きに目を留めよ」2019.8.18
 イザヤ書 5章8~24節

 私たちの信じる主は、天地の主、すべてのものの造り主であられます。そして造っただけではなく、それらをすべて御心のままに統べ治めておられる方です。そのような主なる神のお働きに私たちは目を留めねばならない。今日はそのことを、このイザヤ書から教えられております。

1.預言者たちの働き
旧約聖書から一つずつ順番に書物を取り上げて、その中から一箇所を選んで礼拝でお話をしてまいりました。今回から、預言者たちの書物、預言書に入っていきます。預言者たちは、主なる神から選ばれ、遣わされて神の御言葉を人々に語りました。その際、はるか昔にモーセを通して与えられた律法に記された掟や規則などに基づいて語りましたが、時には、どこにこう書いてある、というような言い方ではなく、主のもともとの御心はこうである、というように、単なる字面のことを超えて語ることすらありました。
さらに、預言者たちは信仰を持たない異邦人、異教徒たちにも語りましたが、もっぱら、神を知っているはずのイスラエルの人々に語りました。いわば今日、教会で説教者が信徒たちに語るように、主の民に語りかけたのです。なぜなら、主の民であるイスラエルは、主の御言葉を代々聞いてきたはずであり、主の御業がイスラエルの歴史の中でなされてきたことを聞いており、時には見てきたからです。そうであるのに、主に従わなかったり、異教の神々に心を寄せたりしてきたのが、イスラエルの現実でした。そういう主の民に、主に立ち帰れ、悔い改めよ、と厳しく語ったのが旧約聖書の預言者たちです。もちろん彼らも主の慰めを語ったり(イザヤ書40章1節)、将来の希望を語ったりすることもありました(エレミヤ書31章17節)。それらの中にはメシヤ預言、つまりキリストの到来について語る素晴しい祝福の言葉もありますが、多くの場合、預言者たちはイスラエルに対しても異教徒に対しても、厳しい主の審判の御言葉を語り、民に悔い改めを迫り、偶像礼拝から真の神に立ち帰るように命じました。
今日朗読したこの箇所も、主の民であるイスラエルに対して主が語られた厳しい裁きの御言葉です。「災いだ」と5回も呼び掛けていることからもわかります。しかし、主が厳しく語られるのは、イスラエルの人々を特別にお選びになったからで、だからこそ厳しく罰せられることもあるのです。もしも主なる神がイスラエルのことを特に御心にとめておられなければ、彼らが悪事をどれだけ働いても、放っておいたことでしょう。しかしそうしなかったのは、民が主に従って立ち帰るためでした。異教徒にも語られましたが、それに比べてイスラエルにたいして語られるときの熱心はまさっています。異教徒、異邦人に対しても熱心に語られるのは、新約聖書の時代を待たねばならないと言えます。

2.主の民の悪しき業
イザヤ書5章では、イスラエルを主のぶどう畑に譬えています。主は良いぶどうを植えて、おいしいぶどうが実るのを待っておられたのに、酸っぱいぶどうが実ったのでした。主は、このぶどう畑のためにできることをいろいろとしてこられました(4節)。しかし、酸っぱいぶどうしか実らなかった。これらのことは大変人間的な言い回しで語られています。あたかも神は、罪深いイスラエルの行動を律することができず、イスラエルの教育に失敗したかのようにさえ見えないでしょうか。しかし決してそういうことではなく、主がいかに民を愛しておられるか、そしてその熱心がいかばかりであるかを示すための表現であることを知らねばなりません。また、それは主の御力が足りないというよりも、主が懇ろに語りかけても答えない、答える能力がない、外から耳に語るだけでは効果を発揮しない。それほどに人の罪が深く根強いことを露わにしているのです。
ここで言われているイスラエル罪はありとあらゆるものが挙げられています。土地を持っている者がほしいままに独り占めにし、朝から晩まで酒浸りになる。善を悪とし、悪を善とする。うぬぼれて自分を過信し、賄賂をとって悪人を弁護し、正しい人を退ける。このように一般的にも不道徳と見なされ、人の倫理に悖るとみられることだけではなく、とくに、主なる神を軽んじることが挙げられています。その一つは19節にあるように、主なる神のなすことを見てやろうではないか、神の計らいが実現するなら納得してやろう、という態度です。そしてもう一つが「主の働きに目を留めず、御手の業を見ようともしない」ことです(12節)。この点については、後でもう一度見ることにします。
その前に私たちが知っておくべきこととして、主はこのような態度をとる者たちに、どのような罰をお与えになるかということです。土地を独り占めにしようとする者は、やがて家に住むこともできなくなる。畑の収穫もほんの少ししか得ることができなくなる。そして、人間同士で互いに卑しめるようになるのです(15節)。そして、ついには死に飲み込まれてゆきます(14節)。さらに、主を軽んじ、主の御業や働きを見ようとしない者たちは、やがて人間としても卑しめられ、低くされてしまうようになるのです。それは、特に万軍の主の教えを知らされていたにも拘らず、それを拒んだ者に対する裁きであります。 神の御言葉を全然聞いたことがなく、主を知らない者にも、人の罪に対して主は必ず裁かれます。それは人間の世界の歴史が証しているところでもあります。土地をいくらたくさん持っていても、永久に所有することはできません。善と悪をひっくり返してしまうようなことしている者も、やがては滅びてゆきます。やがては人の栄華のしるしは廃墟となり、腐り、塵のように舞い上がるのです(24節)。主を知っていても知らなくてもどちらにしても悪に対しての主の裁きは確実になされます。しかし特に主を知っているはずのイスラエルには、主の裁きは特に厳しく臨むのです。

3.聖なる神のお働きに目を留める
ここでは厳しい主の裁きが描き出されていますが、イスラエルに対する主の特別厳しい裁きにだけ目を向けるのではなく、主のお働きにあずかり、聖なる神の恵みの御業に目を留めることの幸いに、心を向けねばなりません。それで最後に、「主の働き」に目を留め、「御手の業」を見てまいりましょう。私たちが主の働きに目を留め、御手の業を見るためには何が必要でしょうか。それは、主の御言葉に聞こうとする姿勢と、信仰によって主の働きを見ようとする遜った心です。主は既に多くの御言葉によって語っておられます。そして、天地創造以来、実に多くの御業をなさってこられました。それは、聖書に明らかにされています。まずそれが必要です。そして、目に見えることだけがすべてではないことを知らねばなりません。
そしてそのお働き、御手の業に目を留める。しもべが主人の手に目を注ぐように、私たちの主に目を注ぐのです(詩編123編2節)。この詩の作者は、主に目を注いで憐れみを待っています。それは、既に主により頼む信仰を与えられているからです。その信仰は、神の御言葉を聞くことによって生じてきました。神の御言葉に耳を傾けることによって、私たちは主の御業に目を留めることができるようになります。そして、主が聖書に示されているように、主の民に何をなして来られたのかを見るのです。そうすると、主の御言葉を聞く恵みに与っているにも拘らず、主の働きに目を留めようとしない者にも、憐れみを施して、救い主をお送りくださったことがわかるのです。そして、救い主をお送りくださったことそれ自体が、何にも勝る大きな主の働きであったのです。天地創造と、それによってできた世界を保ち、治め、導いておられる摂理の御業も、大変すばらしい神のお働きであり、御手の業です。しかし救い主イエス・キリストをお送りくださった主のお働き、主イエスによってなされたお働きは、創造と摂理の御業を完成に導くものです。
この主のお働きは、救い主イエスによってなされ、そして教会の歴史の中で、ずっと続けられてきました。さらに、今日生きてここにいる私たちに対してもなされてきたのです。ですから私たちは、主のお働きを見る時に、天地創造と主の民イスラエルに対してなされたものと、その頂点にあるイエス・キリストの十字架と復活において明らかになったことをまず見ます。そしてその同じ主が、今も私たちに対して働きかけてくださっているおり、自分の来し方において働いてくださったこと。この両方のことを顧みて目を留めるのです。そうして主の憐れみを待ち望みます。そうする民は、主の憐れみが必ず注がれることを期待してよいのです。期待すべきです。期待しなければなりません。それもまた、主の働きに目をとめ、主の御手の業を見ようとすることなのです。主の憐れみを期待しない者に、主の御手の業が見えるはずはないからです。しかし私たちは主の大いなるお働きに目を留め、御手の業を見ようとする者です。

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