「キリストの味方」2018.1.14
 マルコによる福音書 9章38~41節

 キリストの御名。これは、私たちが教会に来るようになり、イエス・キリストというお方のことを段々と知るようになると、その大きさ、大切さをより知るようになります。そして、それは単に知識が増えてゆくということではなくて、実際イエス・キリストの御名を私たちは口にするようになります。そして祈りをし始めると、必ずその最後に「イエス・キリストの御名によって祈ります」という言葉がつけられるようになります。今日は、イエス・キリストのお名前について、そして、その御名に反対するかしないか、ということ、そしてそれを神はどのようにみておられるのかということを、今日朗読した短い箇所から聞き取りたいと願っています。

1.神の御名を尊ぶ
 私たち人間の社会では、人はもちろん、団体、会社、学校、チームなどの名前というものは、その所有者、そこに属する人にとってはとても大事なものです。その名誉を傷つけられたり、汚されたりしたら、名誉棄損などといって訴えられることさえあります。名前を汚したり傷つけたりすることは、その人や団体等そのものを汚すことにもなるわけです。
 同じように神様に対してもそれは言えることです。いや、むしろ、神がその御名を貴ぶようにと人に命じておられるから、人も、誰かの名前、何かの名前を尊ぶことを教えられている、というべきでしょう。主なる神はイスラエルの人々をエジプトから導き出された後に、シナイ山で十の戒め、十戒をお与えになり、主に救い出していただいた民としての相応しい歩み方を示されました。その第三番目に「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」という戒めがあります。それは神の御名を尊ぶことを私たちに命じています。主の御名を呼ぶことが出来るのは神の民の特権ともいうべきものです。それを軽く扱ってはならない。清い敬虔な心で神の御名を用いなければならないのです。神の御名を濫用することは、厳しく戒められています。しかしイスラエルの中では、その戒めの故に、神の御名をなるべく直接口にしない、という態度も生じて来たのは事実です。しかし主なる神は、その御名を唱えてはいけないとか、なるべくなら用いてはいけない、口にすることも極力控えるべきである、と言われたわけではありません。みだりに用いてはならない、と言われたのです。私たちはこのことをよく覚えて、主イエス・キリストの御名をどう用いるかということを考える必要があります。主イエスは、私の名によって父なる神に願うなら、それをかなえてあげようと言われました。そのような約束を伴っている名前は、古今東西ただイエス・キリストお一人です。そして世界中の、歴史の中の教会と主の民は、それが決して偽りではない、口先だけの言葉ではないということを味わってきました。それほどに尊いのが主イエス・キリストの御名であります。そのキリストのお名前を巡って起こった出来事を弟子のヨハネは主イエスに告げました。

2.キリストの名による奇跡
その出来事とは、ある者たちがイエス・キリストのお名前を使って悪霊を追い出している、というものでした。ヨハネの言い分は、「わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」というものでした。やめさせようとしたけれどもやめてくれなかった、ということではなくて、やめさせたということです(口語訳、新改訳)。それに対する主イエスのお答えは、やめさせてはならない、というものでした。
弟子たちの言葉は、いかにも自分たちキリストの弟子たちに従わない、ということを強調しているかのようにみえます。従ってこないのに、自分たちの先生の名前を勝手に使うな、という気持ちもあったことでしょう。ここで一つ興味深いことがあります。それは、イエスの名前を使って悪霊を追い出すことが出来た、という点です。後に、主イエスが復活後天に昇られた後、使徒パウロが伝道旅行をしてエフェソという町に来たとき、パウロの行う奇跡を見たユダヤ人の祈祷師たちの中に、試みに悪霊どもに主イエスの名を唱えて悪霊を追い出そうとした者らがいました(使徒言行録19章13~16節)。祭司長スケワという者の七人の息子たちです。彼らのしたことは、試みに、というものでした。試しにやってみた、という面白半分、遊び半分です。しかし悪霊は、イエスのこともパウロのことも良く知っている、しかしお前たちはいったい何者だ、と言って逆に悪霊に取りつかれている男が祈祷師たちに飛びかかったのです。つまり悪霊どもは本物とそうでないものをちゃんと知っているというわけです。
ところがマルコによる福音書の記事では、イエスの御名によって悪霊を追い出すことができたのです。本物か偽物かの区別ができる悪霊どもが、イエスの御名を使って悪霊を追い出そうとした者に屈服したのでした。ということはこの場合、イエスの御名が唱えられた時に、天の父なる神がその行為に力を与え、悪霊どもが追い出されるようにされたということです。イエスの名前を使った人たちに特別な力があったということではありません。天の神が、その人たちのすることをも見ておられ、そして主イエスの御名が口にされたことを通して、悪霊どもがそれに服従するようになさったからです。また、イエスの御名を使って悪霊を追い出そうとした者たちが、先ほどのスケワという者の息子たちとは違って、まじめに真剣に行っていた、ということです。その人たちは、おそらく悪霊に憑かれた人のことを本当に何とかしようとして行なっていたことでしょう。そのような場合、悪霊を追い出すということができるように神がなさった、ということです。

3.キリストの味方となる
そして、そのような人たちがいるということをヨハネから聞いた主イエスが言われたのは、弟子たちに従ってこない人についてではなくて、むしろ弟子たちについてでした。弟子たちは「わたしたちに従わない者」と言っていましたが、主イエスはそういう者たちは「わたしたちに逆らわない者」と言っておられます。そして、そういう人たちのやっていることをやめさせようとした弟子たちのことをとがめておられます。逆らわないでいるなら、主イエスの味方なのである、と。そういう人たちは、キリストの弟子である、という理由で一杯の水を飲ませてくれる者であって、必ずその報いを受けるのであると。ここの言い回しは、報いからもれることはない、というものです(口語訳)。そのような小さなことであっても、天の父なる神はちゃんと見ておられる、ということです。その報いが具体的にどんなものであるかはわかりませんが、神がそれに対して祝福をもって臨んでくださるのです。
私たちの周りには、イエス・キリストに従う人か、そうでない人の二種類がいる、という分け方をすることはできます。先週お話したのですが、主を呼ぶ人とそうではない人がいる、ということです。しかし、今主をはっきりと呼ぶことをしていない人もいます。けれどもそういう人の中でも、キリストに従っているクリスチャンのことをみて、何も悪口を言うのでもない、その信仰と生活を認めてくれている人、協力的な家族もいることと思います。そういう人たちを殊更に敵対視する必要はないということです。むしろキリストの味方なのである、と。家族の中で信仰を持っていることを、常に反対して、執拗に迫害めいたことをしてくるとか、意地悪をしてくるとかいうのでなく、むしろ協力的であるならば、そのような人のことをも天の父なる神も、御子イエス・キリストも顧みてくださる、と言えるのです。ここでは、イエスに従う人に協力的である、というだけでなく、イエスの御名を使って悪霊を追い出している人たちすらいたのでした。その人たちは、先ほども言ったように悪霊に憑かれている人を何とかイエスの御名によって助けてあげようとしたわけですから、その目的をよしとしておきなさい、というのです。だから主イエスは、やめさせてはならない、と強く言われました。そのような人たちも、イエスの悪口を言わないだけではなく、もしかするといずれ、はっきりとイエスに従って行こうとする人になるかもしれません。私たちも、自分の周りにいる人たちのことをそのような主イエスに倣う寛大な目でみてゆく、ということもまた必要なのです。

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