「永遠の神により頼む」2017.12.31
 詩編 90編1~17節

 今年も最後の日を迎えました。最後の日、というのは一年で言えば毎年やってきます。それから、この世の人生最後の日、というのも必ずだれにでもやってきます。そして、この世の最後の日、というのも神の御計画の内にはあるわけです。そしてすべてが新しくなる時を迎えるということになります。しかし私たちは通常はそこまで考えたり意識したりしないで毎日の生活を営んでいると思います。しかし、来年、来月、という短い範囲のことだけを見通すだけではなく、時に永遠に思いを馳せておくことも私たちの信仰には必要です。クリスマス前の待降節に当って、再び世に来られるイエス・キリスト、つまり再臨のキリストを待ち望むということをお話ししましたが、年末年始を迎えて慌ただしい中にいると、すぐに私たちはこの世のことに目を移しまして、あのことこのことを片付けなければ、となるわけです。それ自体は何も悪いことではなく、必要なことですが、私たちは常に心のどこかに、この世での限られた時間と、永遠の神の国、というものに対する思いの両方を住まわせておくべきです。限られた期間がどれだけなのかは、私たちにはわかりませんから、そこは主におゆだねし、目の前に与えられたことをこなしてゆくことになります。そんなことを思いながら、今年最後の日の礼拝で与えられている神の御言葉に心を向けましょう。

1.世々とこしえに神であられる方
 1節と2節に目を留めていただくと、漢字の使い方について、あることに気づかれると思います。同じ「よよ」という日本語ですが、「代々」と「世々」と使い分けています。これは、原文が違うからですが、「代々」というと人の世代のこと、「世々」というと世界全体のことを示すという意図があると思われます。大方の翻訳では、初めの方を「代々」、次は「とこしえからとこしえまで」と訳しています。原文の単語も最初の言葉は「人の世代」、英語で言うと「ジェネレーション」、次の言葉は「とこしえ」とか「永遠」という意味合いです。翻訳聖書の問題ですが、やはりこういうところは同じ発音の「よよ」ではなく、「とこしえ」と耳で聞いてわかるようにした方が親切でしょう。
 しかし、あえて「よよ」という発音の言葉で比較をしているのなら、文字を見て学ぶ上では役立ちます。人の世代は次々移り変わりますが、神はとこしえに変わらずおられる、という対比になっているからです。大地も人の世も、神によって生み出される前から神はとこしえに神であられる。私たちは、これから先の時間がとこしえに、いつまでも続く、ということは感覚的にわかりますが、時間をさかのぼっていった場合、どこまで行っても始まりの点にゆきつかない、というのはなかなか理解できないのではないでしょうか。ですから、昔の神学者が言っているように、時間も神が創造されたのだ、という理解も出てくるわけです。時間というものも不思議なもので、この世にあるものがすべて停止して動かなくなっていたら時間は止まっているようですが、しかしその間も時間は経過しているではないか、と思うからです。いずれにしても私たちはなかなか永遠、とこしえということを、今の感覚や知識、経験をもとにしている以上、完全には理解できないのでしょう。それでも、神は永遠に存在しておられる。ある時から神は存在し始めたのではなく、おられなかった時がない、ということを私たちは信じているのです。このように、とこしえにおられる神と限りある私たちとを対比してみた時に、いかに人間が小さなものであるかを思い知らされます。
そして同時に、私たちが今こうして存在しているのも、神によっていること、それゆえ、私たちは身元不明の、誰によって命を与えられているかもわからないような宇宙の迷子ではなく、天地宇宙の創造者である神によって生かされている者であることを知り、拠り所を与えられていることを知るのです。

2.生涯の日を正しく数える
とこしえにおられる神が私たちの宿る所である、とはいうのですが、そのような私たちの小ささ、はかなさを3節以下でさらに思い知らされます。人は眠りの中で漂い、朝が来れば草のように移ろうと。朝には花を咲かせても、夕べにはしおれ、枯れてゆく。人間の儚さを実に真正面から描き出しています。
そして、次に私たち人間の罪と神の怒りとを対照的に示すのです。私たちはただこの世で移ろうように過ごして消えゆくだけではなく、その理由が、神の怒りの故である、ということを知らねばなりません。そもそも人はこのように生まれてきても年月と共に移ろいゆき、衰えて枯れてゆき、そしてついには死を迎えます。その理由は、私たち人間には、神の怒りを買う理由があるからです。8節に言われているように、私たちの罪、隠れた罪があるからです。その罪は神の御前にあります。神の御顔の光の中にあります。つまり人に対してではなく、人の基準ではなく、神の光に照らされた罪です。最初の人アダムが背いて以来、人間の中に生まれながらにある罪です。この故に、人の人生には暗い影が差しています。
しかし、神の前での自分の姿を正しく知るならば、まだそこには望みがあることをうかがわせています。生涯の日を正しく数えるということと、知恵ある心を得ることとは切り離せません。この二つのことは、神の前での自分の本当の姿を知り、神の前に思い上がることなくへりくだり、神に自分を畏れつつもゆだねて生きることにつながります。この世での人間の悲惨は、そもそも神の前に自分のあるべき立場を知らず、守らず、自分を神の前に高くして偉くなろうとしたことから来ています。神が与えてくださった知恵なのに、神よりも偉くなろうとしてその知恵を神に背いたり、神から離れることに用いてしまったりするのが、人間が罪人たるゆえんであります。

3.神は慈しみによって喜びを与えてくださる
これだけを見ると、神は人間の怒りに対して、怒りに燃えている恐ろしい神にしか見えませんが、しかしそういうわけではありません。この作者もそれを知らないわけではないのです。まず、自分が神の僕であることをこの人は自覚しています。その立場をよく知りつつ、神の慈しみが与えられることや、神からの喜びが与えられることを知っており、それを期待していることがわかります(13~15節)。神と人間との大きな隔たりを知っているからこそ、この作者は、神の前での自分の小ささを知りながらも、なお、神により頼むことを続けるのです。この人は自分の人生や、イスラエル民族の歩みを顧みた時に、そこには労苦と災いがいつも伴っていると言わざるを得ないのでした。しかし神は民をただ苦しめるのではなく、その大いなる慈しみによって自分たちを喜び祝わせてくださるに違いない、と期待しています。神は決して怒りに燃える恐ろしい神ではなくて、慈しみに満ちた方なのです。
私たちは、神の前に自分の人生や、人間の歩みをどのように見定めるべきでしょうか。10節のように、健やかに八十年を数えても、得る所は労苦と災いに過ぎない、と言うでしょうか。そうかもしれないし、確かに瞬く間に私たちは飛び去る、というのも事実ではあります。しかし、私たちもこの作者と同じように神に望みを置きます。とこしえに神として存在しておられる神、その方が私たちの宿る所となってくださることを信じます。この詩ではまだ私たちが知るほどには明らかになっていないこと、つまり神が、ご自身の独り子である神を通してその恵みと慈しみを示してくださったことを私たちは知っています。つい先週、私たちはそれを祝い喜びました。ですから、この作者が「喜びを返してください」とか「主の喜びがわたしたちの上にありますように」という願いが実現していることを私たちは既に知っています。「イエス・キリストはきのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブライ13章8節)という御言葉にそれは明らかです。イエス・キリストにおいて私たちに御自身を現してくださった永遠の神に、私たちはより頼んでいるのであります。この確かな真実を、確信し、来る年もまたより頼みましょう。人は移ろいゆくものだと深く味わっておられる方々もおられることでしょう。しかし永遠の神、永遠におられる主イエス・キリストによって、神は、私たちのより頼むべき、宿るべき方となってくださいました。そして私たちの手の業も決して空しくはない、確かなものとしてくださるのです。

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