「神の国に入る道を進め」2018.1.21
 マルコによる福音書 9章41~50節

 イエス・キリストは、その公のご生涯において、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました(マルコ1章15節)。主イエスは神の国を私たちにもたらすためにこの世にきてくださいました。今日は、そのように私たちを神の国へと導いてくださる主イエスの御言葉が、つまずきについて私たちに教えています。他者も自分もつまずかせないようにしなさい、という教えを、大変強い言い方で主イエスは語っておられます。

1.主を信じる小さい者
 主イエスは、ご自身のお名前のために子供の一人を受け入れる者は、主イエスを受け入れるのである、と言われました(37節)。そして、弟子のヨハネがそのイエスのお名前を使って悪霊を追い出している者たちのやっていることをやめさせた、と言いました。しかし主イエスは、私たちに逆らわない者は味方である、と言われたのでした。弟子たちは誰が一番偉いか、と議論をしていましたが、それは小さな子供を受け入れる、ということとはおよそ正反対のことでした。自分を低くして神と人に仕えることとは正反対のことを弟子たちは追い求めようとしていたのでした。さらに、自分たちに従わない者たちが、イエスの名前を使って悪霊を追い出すこともやめさせる。このようなことを弟子たちはしておりました。そういう弟子たちに対する大変厳しい言葉を主イエスは与えられたのでした。
 どんなに小さな者であっても、それを軽んじて、罪に誘うようなことをしたり、罪に陥ることを仕向けたりすることは、大変大きな罪である、ということを、42節の御言葉は教えています。石臼を首にかけられて海に投げ込まれる、というような言い方は、大変大袈裟に聞こえますし、余り現実性のない表現かもしれませんが、とにかく非常に大きな罰を受けてしかるべきだということを強調しているわけです。石臼を首にかけられて海に投げ込まれれば、もう戻ってこられないわけで、その方が人をつまずかせて罪に陥らせるよりもはるかによいというのです。

2.つまずかせるものを切り捨てよ
次に主イエスは、他の人をつまずかせることから、自分自身をつまずかせないことへと弟子たちの意識を向け変えさせます。ここから、片方の手、片方の足、片方の目があげられています。ここで切り捨てよと言われてはいますが、もちろん、実際に切り捨てよと言っているわけではありません。手や足の場合よりも目のことを考えてみればはっきりしていますが、例えば片方の目がその人をつまずかせる、ということがあるとしても、残った片方でなお見ることはできますから、文字通りのことではありません。今自分に与えられている機能、能力、そういったものが私たちをつまずかせ、罪を犯させます。もしこの世で、そのように私たちに罪を犯させるようなことをそのままにしておくなら、神の厳しい裁きに遭うことになります。しかしそれらを断つことが命、つまり永遠の命につながるというのです。
ここに出て来る手、足、目はこの世で生きてゆくために私たちに必要なものであり、私たちはそれらの働きによって、いろいろな情報を得、見聞きし、あるいはどこかの場所へ行き、あるいは手を使って様々なことをします。その手を使って盗みを働いてばかりいるとしたら、その人の目は永遠の命とか神の国には向いていません。この地上で得られることにばかり心が向き、神の方には目が向きません。そして私たち人間はこの世に生きている限りは、容易につまずいてしまうのです。そして何につまずくかは人によっていろいろです。ある人にとっては罪の誘惑にならないものが、別の人にとっては簡単に罪の誘惑になります。ですから、私たちは人をつまずかせないことはもちろん心しなければなりませんが、先ずは自分をつまずかせないようにすることが求められているわけです。
ここに地獄、という言葉が出てきます。神の国、天の国の対極にある所と言えます。地獄の消えない火、とありますが、この「消えない」という言葉は「アスベストス」という言葉です。かつて建物を建てるのに使われたアスベストが非常に問題になりました。石綿です。その埃を吸い込むと肺に悪影響を与え、重い病気を引き起こすということで社会問題になりました。このアスベスト(石綿)には、不燃性つまり燃えない性質があります。「アスベストス」には、もともとの意味として「消せない石」=つまり燃えないもの、という意味があるということです。アスベスト(石綿)は人間の体をこの世でむしばみます。しかし、神の裁きによる消えない火は、人間をむしばむ罪のゆえに人間を裁き罰します。
また、ここの箇所は新共同訳では二つの節(44、46)が欠けています。最後の16章の後に、底本に節が欠けている個所の異本による訳文として出ています。初期の重要な写本にはないものです。48節に同じ言葉が出てきますので、それを後の時代の人が書き入れたのであろうとみられています。節の番号が付けられたのはそれよりもずっと後であり、44節と46節が挿入されたものが原文と思われていた時代なので、それに基づいて節番号が入れられていたのですが、今日では、このように省かれているわけです。
それはともかく、私たちはこの主イエスの警告を、改めて真直ぐに受け止める必要があるのではないか。そのことを私たちはここで顧みることを求められているのです。私たちは教会に来て聖書の説き明かしを聞くようになると、何度もイエスが話されたお話を耳にするようになっていきます。そうすると悪くすれば主の御言葉を聞くことに慣れてしまう。そのような事がないかどうか、私たちもまた他人事にしないで考えてみたいものです。
確かに主イエスの御言葉は当時の人々に対して、実に刺激の強い、時には衝撃的な言葉だったのではないでしょうか。私たちにとっても最初はそうだったことでしょう。特にこのような、地獄とか、火に投げ込まれるとかいう言葉は本来私たちに恐れを抱かせるか、それともそんなことがあるものか、という冷笑的な反応を引き起こすか、どちらかではないでしょうか。敏感に反応してあからさまにそれに反対してくるというのは、まだいいかもしれません。そうではなく冷笑して相手にもしない、ということは一番恐ろしいことです。私たちもまた、時にこのような主イエスが語られた、人の罪に対する裁きについての警告を、心して聞かなければなりません。そして、主イエスの警告の御言葉を軽んじて、両目、両足、両手を揃えたままで、つまり全く無警戒で、世が与えるつまずきに鈍感にならないようにするべきです。

3.神の国へ入る道に進む
主イエスの非常に厳しい御言葉が示されている所ですが、それはひとえに、私たちが神の国へ入ることを主が望んでおられるからです。神の国に入ること、命にあずかることに対して、地獄とか消えない火というのはその対極にあります。しかし神の国に入っても目が片方ない、片足片手になるというのなら、地獄よりちょっとましということではもちろんなく、神の国に入ることがどれだけ幸いかというたとえにすぎません。
だから、私たちはこの世で、火で塩味をつけられる必要があります。ここで言われている、地獄の火、火で塩味、塩に味をつけること、そして自分自身の内に持つ塩。といろいろな形で火と塩について語られています。ここはいろいろに解釈がされるところで、主イエスが言われたことの意味が、文脈の流れの中でつかみにくい所になっています。火で塩味をつけられるというのは、神の裁きの警告によってつまずきを取り除くようになってゆくということではないかと思われます。塩は良いものですから、人を整え、神の国へ向けて進ませてゆきます。そして、人をつまずかせないことも大事だけれども、自分自身がつまずかないように、つまり罪に陥らないように心してゆくのです。そうすることによって、一人一人が塩味をつけられて互いの間に平和が生じます。それは、主イエスの十字架によって罪を赦され、互いに仕える者となることであり、誰が一番偉いかという議論とは最も遠いものです。 そして神の裁きの警告によってつまずきを取り除こうとするのは、神の国の絶大な価値を知るがゆえです。永遠の命に与らせていただけることは、私たちにとって最大最高の祝福であり、恵みであり、幸いです。それを妨げるものがあるならそれを命がけで取り除く。この世では、一見喜ばしく見えて、そして楽しくさせるものであっても、それが私たちを神の国から遠ざけてしまうのなら、切り捨ててしまいなさい、というのが主イエスの私たちへの力強い勧めです。切り捨てたとしてもあまりあるほどに素晴らしい神の国に入る道を進めと言われるのです。

コメント

このブログの人気の投稿

「聖なる神の子が生まれる」2023.12.3
 ルカによる福音書 1章26~38節

「キリストの味方」2018.1.14
 マルコによる福音書 9章38~41節

「主に望みをおく人の力」 2023.9.17
イザヤ書 40章12~31節