「神の力ある業を広く伝える」2018.1.28
ペトロの手紙一 1章22節~2章10節

 今年の年間標語は、今日の説教の題そのものであります、「神の力ある業を広く伝える」です。そして年間聖句としてペトロの手紙一の2章9節としました。9節はとても長い聖句ですので、焦点がぼやけるといけませんが、中心となるのは、標語として掲げた後半です。9節は二つの文章からなっていますように、前半が根拠となって後半の目的が語られています。あなたがたは、神の民となっている。その目的は、神の業を広く伝えるためだ、ということです。

1.主は恵み深い方だと味わった
 この手紙を書いたペトロは、既に主イエスを信じてクリスチャンとして生きている人々に宛てて書いています。読者は、既に神に選ばれているのであり(1章1、2節)、既に魂の救いを受けています(同9節)。そのような読者に対して、今一度自分たちの信仰と生活とを省みて、主の御前に聖なる者となれ、と命じています(同15節)。しかしこれは、これから聖なる者となっていって救われるということではなくて、救いにあずかった者として、聖なる者となってゆくことを努めなさいというのです。つまり、主が聖なる方であるから、それに倣う者として生きなさい、という教えです。
 この読者たちは、主が恵み深い方だということを味わった、とペトロは書いています(2章3節)。主イエスを信じた人は、主が恵み深い方であると信じたから、洗礼を受け、クリスチャンになったはずです。聖書の話を学んだなら、主なる神は旧約聖書に登場する聖徒たちに対して、いかに恵み深い方であるかがよくわかります。けれども、主が恵み深い方であるのは、聖書のお話の中でだけであるわけではありません。主は、私たちの現実の中におられ、私たちの今現在のこの世界においても生きて働いておられます。その中で私たちは主の恵みに与って生きております。私たちは時に立ち止まってそのことを考えてみる必要があります。クリスチャンといえど、この世に生きていますと、この世の生活が神様と切り離されて、信仰とは別にどんどん進んでいる、という感覚に流されてしまう恐れがあり、それは救いに無頓着でいる、ということにつながります(ヘブライ2章1節)。
 主の恵み深さを味わって、それを心に留めておく、ということを意識的にすることが私たちの信仰を強め、成長へと導きます。何よりも、私たちに主イエス・キリストを現してくださったということ、信仰へと導き、この世にあって、教会の一員としてくださったこと、神の国の希望を与えてくださったこと、同じ主を信じる信仰の友、兄弟姉妹たちを与えてくださっていること。これらのことをよくよく顧みるときに、主の恵み深さを味わうことでしょう。たといこの世で試練を受け、心身ともに弱ってしまうようなことがあったとしても、その中で主はご自身の恵み深さを現してくださっています。当座は大変でも、主の慈しみがあることを信じて進むとき、必ずや主の恵みを味わわせてくださるはずです。むしろ私たちの側が主の恵みを味わうために静まって顧みることが必要です。

2.神のものとなった民
著者のペトロは、次に信じない者たちについて語りました(2章7、8節)。そのような人たちにとっては、主イエスもつまずきの石となってしまいます。しかし、主のもとに導かれ、神のものとなった民がいます。その人たちのことをペトロは四つの言葉で示しました。これらに共通しているのは、すべて神によってこの世から取り分けられて、神のものとされた、という点です。二番目に王の系統を引く祭司とありますが、王である祭司、祭司の王国、とも訳されています。いずれにしても祭司、という面を与えられています。私たちにとっての大祭司は主イエスであり、私たちのためにご自身を献げてくださいました。そして今も天においてとりなしてくださっています。その主イエスに連なる者も、それぞれが祭司的な役回りをこの世で与えられているのです。
そのことが、9節の後半の「神の力ある業を広く伝える」ということと大きく関係しています。祭司は、神と人との間に立って、礼拝をつかさどり、人々と神との間をつなぐ役目があります。それを完全になしてくださるのは主イエス・キリストですが、主のものとされ、聖なる民とされた選ばれた者たちは、世の人々を主キリストのもとへと導く働きを共に担う者とされているのです。
神のものとなったのですから、この世にあっては、神の御意志に従う者として生きています。いわば、この世に対して神がなさる御業に共にあずかる者とされているわけです。そのような者たちにゆだねられているのが、神の力ある業を広く伝えるという使命です。

3.神の力ある業を広く伝える
では、神の力ある業について、見てゆきましょう。まず、ここで神のことを「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方」と述べています。人がこの世に生まれてきて生活しているそのままの状態を暗闇の中、と言っています。もちろん比喩で言っているわけですが、暗闇というのは、そこから招き入れていただいた驚くべき光と比較してみた時に、そう言わざるを得ないということなのです。この世には素晴らしいものも美しいものも、輝かしいものも、あります。燦燦と輝く太陽は、この世界で最も明るいものです。その光のもとに美しい自然もあり、素晴らしいものもたくさんあって、私たちに喜びを与えるし、楽しみももたらします。そしてそれもまた主なる神様が造られたものであり、私たちのために与えられたもので、良きものです。しかしそれらは、それだけでは私たちに神を正しく、また十分に示せません。それは私たち人間が神に背いて罪を犯してしまったので、自分の知恵と力だけでは、神に近づいて神に受け入れていただくことができず、地には呪われた、という面もあるからです。ですから、この世には先ほど挙げたような素晴らしいものも美しいものもありますが、逆に私たちを苦しめ、悲しみと悲惨をもたらすものが沢山あるのです。この世の中はそれだけでは、私たちの救いとならないし、楽園にもなりません。実は人間はそれをよく知っているのではないでしょうか。だからこの世では夢や希望を何とか適えようとして懸命に努力したり、才能を用いて自分や周りの人々を喜ばせたりしようとするのです。
しかし、そのようなこの世の世界は、私たちを救うことができませんし、完全な喜びも満足も私たちに与えることができません。だからペトロはそのようなこの世の有様を、暗闇と言ったのです。そのことは、真の神を信じる信仰と、霊的なことを見分ける信仰の目がないと見分けることができません。クリスチャンになるということは、そのような暗闇から光へと招き入れてくださった神の恵みによって、暗闇と光の大きな違いを見定めることが出来るようにしていただいたということです。
では、神の力ある業を広く伝えるとはどういうことでしょうか。実はここに訳されている「力ある業」という言葉は、「徳」「誉れ」「すばらしい御業」などと訳されています。「卓絶した力」という意味がありますので、このように訳されています。いずれにしても、神のなさった業です。それはまず聖書に記されているように、天地創造この方、自然界と人間の歴史特にイスラエルの歴史の中で示されてきました。しかしその同じ力ある業が、私たち一人一人に対して働いていることを私たちは味わっているはずです(3節)。私たち自身が神の力ある業によって今日に至っていること、私たちは弱い者であるけれどもキリストの強さと救いに与らせていただいたこと、朽ちない希望を与えられていること。それらを顧みて再認識しましょう。
「広く伝える」という言葉は、ここにだけ出てきます。「外に向かって告げる」という意味があります。そのためには様々な手段も用いられます。教会に来たことのない人々に、主キリストに触れる機会を提供するために何ができるだろうか。そのことを、まず祈りをもって考え思い巡らすことが必要です。それこそ祭司の務めです。そして外へ向かって告げる愛と力と勇気をいただいて立ち上がる。その際、人々も自分と同じように暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れていただければ、その素晴らしさ、輝かしさに驚き感謝し、主を賛美できるようになることを期待してゆくのです。神のものとなった民には、そのための力と助けが、天から与えられることを信じてより頼みましょう。

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