「恐れるな、主がおられる」  2017.6.11
マルコによる福音書 6章45節~56節

 神の御子、救い主イエス・キリストは、多くの奇跡を行ない、ご自身が神のもとから来られた方であることを証しされました。6章44節までの記事では、主イエスが五千人もの人々に五つのパンと二匹の魚を分けて、しかも皆が満腹するほどに分け与えられるという奇跡をなさいました。このことを通して、主イエスはご自身が真に人々を養うことのできる牧者であられることをお示しになりました。
 主イエスは単にこの世で生きるための食糧を人々に提供することを第一の目的としておられるわけではありません。しかし、私たちの体も心・魂もどちらも養うことができるお方であります。主イエスは、目に見えるもの、食べ物、自然現象、そういった一切のものを御手の下に従えておられる方であることを、私たちは今日の朗読箇所からもまた、教えられております。

1.湖の上を歩くイエス
 主イエスは、弟子たちを船に乗せてガリラヤ湖の東側にあるベトサイダへ先に行かせました。このベトサイダは、ペトロとアンデレの町でもあります。そして群衆を解散させ、ご自分は祈るために山に登られます。夕方になると、とありますが、これはおそらく夜になって、ということのようです。ガリラヤ湖は南北約20キロメートル、東西の最も幅のある所で約12キロメートルあります。尾張旭市と瀬戸市を合わせた広さよりも少し広い面積があります。琵琶湖の4分の1ほどですが、それでも結構な広さです。それほど広い湖に漕ぎ出していた弟子たちは逆風でこぎ悩んでいました。
 群衆と別れてからのイエスは山で祈っておられましたが、弟子たちがどのような状況に陥っているかは、ご存じだったことでしょう。あえて弟子たちを湖上でこぎ悩むままにさせておいて、夜が明けるころ歩いて湖の上を歩いて弟子たちの所に行かれました。このような話を聞くと、おそらく現代人の多くはそんなことは信じられない、ということでしょう。しかしここで福音書記者マルコが言いたい第一の点は、イエスという方は湖の上をも歩くことのできるすごいお方なのだ、ということではなかったように見えます。イエスは神の御子として多くの奇跡をなさいましたから、湖の上を歩かれたからと言って、それを殊更に強調しているわけでもない書きぶりです。
 湖の上を歩いたことなど、至極当たり前のようにさえ書いています。むしろマルコがここで言いたかったのは、そばを通り過ぎようとされたことです。

2.弟子たちのそばを通り過ぎるイエス
ではなぜ主イエスは弟子たちの舟のそばを通り過ぎようとされたのでしょうか。主イエスはただ通り過ぎようとされたのではなくて、弟子たちの所へ行ったのですが、通りすぎる、という一つの行為は、旧約聖書に記されている、
神がご自身を人に現そうとされた時の現れ方に重なるものがあるのです。主はモーセに対してご自身の栄光を現そうとされたとき、モーセに岩のそばに立つようにお命じになり、主が通り過ぎる時にはモーセをその岩の裂け目に入れ、主の御手で覆う、と言われました(出エジプト記333章22節)。また、預言者エリヤに現れる時、主はエリヤに山の中で主の前に立ちなさい、と言われました(列王記上19章11節)。その時、主はエリヤの前を通り過ぎて行かれました。このような出来事が旧約聖書の預言者たちに対して起こっていたことを弟子たちも知らないわけではありません。
しかしこの時の弟子たちは水の上を歩いているイエスに驚き、恐れ、動揺しました。幽霊だと思ったとあります。昔も今も、得体の知れないものを見たとき、幽霊だと思う、というのはなかなか興味深いものがあります。人間が、死んだ人の霊魂=幽霊を潜在的に知っている、あるいは恐れている、ということの現れかもしれません。そんな状況にある弟子たちはとても旧約聖書の出来事を思い出しているような余裕はなかったことでしょう。52節で、弟子たちの心は鈍くなって(硬くなって)と言われているとおりです。
主イエスは、弟子たちの舟を通り過ぎるのではなく、すぐに彼らと話をされました。そしてイエスが舟に乗り込まれると風が静まったのでした。ここではイエスが風を静かにさせたとは言われていませんが、イエスが舟に乗り込まれることによって弟子たちが悩んでいた風が静まったことを暗黙のうちに示しているものです。

3.恐れを取り除く主イエス
 こうして弟子たちの舟に乗り込まれたイエスですが、弟子たちは、主イエスが舟に乗り込んでくださったこと、そして風が静まったことを、喜ぶというよりは、ただ非常に驚いている、という有様でした。
 この心の鈍さ、硬さは、私たち人間の心の状態を映し出しているかのようです。主なる神がそばにおられても、それを悟れず、神のなさることを見極めることができない。これはすべての人のもって生まれた性質と言えます。それでも、主イエスは陸地に上がるとその地方の人々が連れてくる多くの病人をみな癒されました。その人々は、単純に病気の治療目的だったかもしれません。しかし、弟子たちの心が鈍く、人々の目的が何であろうとも、とにかく神の力を現して、人々を助け、御業をなさいました。当座は弟子たちや人々には十分理解できなくても、後になって主イエスのなさったことが神の御力によっていること、イエスこそ神の御子、救い主であられることが明らかになる時が来るのを、主イエスご自身知っておられたのです。
 そしてこのマルコによる福音書のように、文書に記されていくと、後に弟子たちも聖霊の導きによってイエスの御業を悟ることができました。
 最後に、今日の私たちに目を向けましょう。湖での出来事は、今日の私たちにも起こることに重なって見えます。嵐とまではいかなくても、逆風にこぎ悩むことはしばしば私たちの生活・人生に起こってきます。舟が転覆するほどの嵐よりも、こぎ悩む逆風はいつもありそうです。そのようなとき、主イエスは私たちの方へと近づき、「安心せよ、わたしだ、恐れるな」と言ってくださっているのです。私たちは、何か困難なことが起こってくると、その問題だけに目が向いてしまいがちです。しかし、そのような時こそ、私たちの舟の近くを主イエスが通り過ぎようとしておられることを思い出しましょう。主イエスは私たちを見捨てて文字通り通り過ぎるのではなく、舟に乗り込もうとしておられます。
また、私たちがこぎ悩む問題は、様々です。主イエスは直接、信仰の問題だけに光を当てられるのでしょうか。家族や健康、仕事、人間関係、あらゆることで私たちはこぎ悩みます。それらは主イエスの管轄ではないのでしょうか。そんなことはないはずです。すべての領域で主イエスは権威をもっておられます。その主イエスに本当に信頼し、その衣服の裾にでも触れるなら、触れた者は癒されました。この癒された、という言葉は救われた、という言葉です。ここでは単純に病気の癒し、弱っている人を助ける、という意味で使われていますが、どちらにしても、主イエスの癒し、そして救いは、主に触れた者に与えられます。
私たちも今一度、心が硬くなってしまっていないか、鈍くなってしまっていないかを吟味し、主イエスを自分の、自分たちの舟にお迎えする態勢をとっていたいものです。そうする時、実は主は私たちから遠く離れ、眺めてほったらかしておられたのではなくて、どのような状態にあるかをすべて知っておられ、ふさわしい時に手を差し伸べるために、私たちの思いもしない方法で近づいてきてくださっているのだ、そして、私たちの舟に乗り込んできてくださるのだ、と悟れるのです。

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