「先立って進まれる神」 2017.6.18 
申命記 1章1節~33節

 人生は旅である、などと言われます。では旅とは何か、と考えると、自分の定住しているところから離れて別の土地へ行き、滞在すること、と言えます。
辞書を引いてみますと、「自宅を離れてある期間ほかの土地で・不自由に(のんびりと)暮らすこと」とありました(新明解国語辞典)。
不自由に、のんびりと、というのは場合によってかなり違うかもしれませんし、ふだんの居住地からの距離や、その期間などによっても違います。相当に裕福な人が、何不自由なく生活できるようなものをすべて取り揃えて旅に出るとしても、旅をして移動してゆく、ということになると、どうしても不自由な状態であるということは否めないでしょう。旅と言えば、旧約聖書では、イスラエルの民が荒れ野の旅を40年も続けました。
今日朗読した申命記の一章は、その旅の終わり近くに、イスラエルを導いてきたモーセがこれまでのことを振り返りながら、主なる神がどれだけのことをしてくださったのかを人々に教え、改めてこれからさらに歩みを進めていく民を戒めています。荒れ野の旅は不自由そのものでした。そして40年というとんでもなく長い期間に及ぶ旅でした。それはとてものんびりなどということのできないもので、他の民族の住む土地を通らねばならなかったですし、時には戦いもあり、常に緊張感を持って生活していなければなりませんでした。その末にたどり着いたカナンの地は、乳と蜜の流れる土地、と言われるようにとても潤った、緑豊かな土地でした。そうして定住の地を得たイスラエルの人々はやっと旅の生活に終わりを告げ、落ち着いた生活を始めることになります。
しかしその後もまた、周りの異民族との戦いが続き、緊張は続きます。しかし今日はその先のことではなく、荒れ野の旅の最後に当ってのモーセの言葉から、神がどのように民を導かれたのかを学び、そして今日の私たちにとっての神はどうなのか、ということを御言葉に聞きましょう。

1.主の命令か、人の意見か
 今日は、「先立って進まれる神」という題でお話ししています。そのことを中心に今日の箇所を見ておりますが、28節までのところでは、その神に従おうとしなかった民のことをモーセは振り返っています。先立って進まれる神がおられるのに、自分たちは進もうとしなかったのです。
 民数記にその後のことがより詳しく記されています。山地を偵察した人々の報告を聞いて恐れた民は、一人の頭を立ててエジプトに帰ろう、とまで言い出しました(民数記14章4節)。
 奴隷の地、虐待されて苦しめられていた土地から、せっかく救い出していただき、荒れ野の旅の中でも、生き延びられるようにあの手この手で助けてきてくださった主に背いて、後戻りをしようとしたのです。つまり、神がこれまで導いてこられたことをなかったことにしようと企てたのでした。神がこれまでなされたことを後戻りさせて、それがなかった方がよかった、と考える。神を信じて歩んできたはずの民がそのようなことをするとはなんとしたことでしょうか。彼らは神がモーセをお立てになったことを信じなかったのか、それとも神がモーセをお立てになって導いて来られたことは間違っていた、というのでしょうか。  そして人々は、モーセから神の厳しい叱責の御言葉を聞くと、では山に登って行ってその時を奪い取ろう、と考えて、主がそれを差し止めようとしたにも拘わらず、上っていき、山地に住む民に撃ち破られてしまったのでした(申命記1章44節)。その時は、主は先立って進んではおられなかったのです。民は自分たちの背きを棚に上げて、では攻めて行こう、と思ったのですが、既に主は共におられませんでした。また、山地を偵察に行った十二人の内、カレブとヨシュアだけは主に従って山地へ行くべきだと主張していました。彼ら以外は主の裁きを受け、旅の途中で死んでしまいました。
 30節で、「主御自身が、エジプトで、あなたたちの目の前でなさったと同じように、あなたたちのために戦われる」と主はモーセを通して約束してくださっていましたが、人々は自ら主の約束の御言葉を無にしてしまったのです。

2.私たちに対する神の御心
では、主なる神が民に先立って進まれる、ということの意味を学ぶ前に、神の御心とは何かを確認しましょう。今の私たちにとって、神の御心が明らかになっていないのかと言えば、もちろんそうではなく「聖書」という神の御言葉がすでに与えられています。聖書には、神の御心が示されています。それは、神と人について、人が従うべき神の戒めについて、そして神の前に罪を犯している人間の罪の赦しの道について教え、特に救い主イエス・キリストについて教えています。  しかし、そのように信仰と生活についての私たちが信じるべきことと、従うべき戒めなどが示されていますが、今日の私たちの日々の生活で起こってくることや、教会の活動、大会や中会の活動について、具体的に示しているわけではありません。例えば、先週、大会役員修養会がありましたが、大会創立70周年以後の課題を検討するというテーマでした。当然、聖書にはその答えが解答として書かれているわけではありません。もちろん、教会に与えられた使命は地の果てまでもキリストの福音を宣教することですが、そのためには牧師・伝道者の養成や教育について、教会の職制や組織についても考えなければなりません。しかし、70周年以後はこのテーマにしなさい、と聖書に書かれているわけではありません。
 同じように、私たちの今日の生活でも、あなたはいつどのような仕事に就きなさい、とか、だれとどこに住みなさい、などとは聖書に書かれていません。何々教会は、いつ新会堂を建てなさい、と書いてあるわけでもありません。だから私たちは、神の御言葉が示している教えに従って、信仰により、祈りつつ進んでゆくしかありません
 神の御言葉は、一人一人に対して、神を知り、畏れ、愛し敬いなさい、と教えています。そして隣人を愛しなさい、正しいことを行いなさい、と命じています。そして教会に対して、イエス・キリストこそ救い主であることを教え、福音を宣べ伝えなさいと命じています。そういうすべての人に対しての教えと命令がありますが、日々の具体的な歩みにおいては、私たちは祈りながら、考えながら、様々な情報も用いて人に相談したり話し合ったりしながら判断して決めてゆきます。その際、いくらこの世の人が勧めても、それが神の御言葉に反する事なら、従うことはできません。そういう歩みを私たちはしております。

  3.先立って進まれる神
荒れ野の旅をしていた民の前には、常に昼は主の雲が幕屋の上にあって留まり、夜は雲の中に火があってイスラエルの人々に見えました。そして、雲が幕屋を離れて昇ると、イスラエルの人々は出発しました(出エジプト記40章36~38節)。文字通り、旅の道案内を神自ら雲を用いてなさいました。今日の私たちにとって、主なる神が先立って進まれる、とはどのような状況を表わすでしょうか。
今日の私たちの場合、進むべき道はどのようにして示されるのでしょうか。もし、私たちの教会が各個教会も、中会も、大会(教派全体)としても、いつも天から道を示されていて、このように教会形成と伝道を進めなさい、ということが誰の目にも明らかなら楽でしょうが、主はそうはなさいません。それでも、主が先立って進まれる、ということは、昔も今も実は変わらないのです。聖書のお話の中では、神は人々に先立って進まれたが、今日は違う、ということではないはずです。
実は、先立って進まれる神は、しんがりを守る方でもあります(イザヤ書52章12節)。後ろを守っていてくださるのも主なる神だから、恐れず進みなさい、ということでもあります。そして主が先立って進まれるということは、私たちには肉眼で主なる神の姿は見えないけれども、信仰により祈りつつ、御言葉に聞きつつ進んでゆくとき、その道に主がいてくださって、先回りして待っていてくださるということでもあります。私たちが進んでいったときに、時間の経過とともに何らかの結果が出てきます。それが数字的に目標に達していなかったり、十分な成果が得られたとは言えなかったりするかもしれない。
しかし、そのたどり着いた時点までの歩みが間違っていたから、後戻りしなければならない、ということではないのです。先ほどのイスラエルが不信仰によりエジプトに戻ろうとしたようにするべきではありません。
たどり着いたところに主はおられるのであって、そこからまた新しい歩みが始まり、その歩みの先には主がおられる、ということなのです。私たちが何かを計画したり、事を進めたりするときには、いろいろな事情や、実行する力、経済的力などを総合的にみながら、決めてゆくと思いますが、そこに神への信仰と、祈りとが常にあるなら、主なる神が私たちの歩みに先立っておられることを信じてよいのです。そしてその歩みの行き着く先で待っていてくださいます。そして顧みる時、私たちの歩みに主が伴っていてくださったことを悟ることもできます。それが今日の私たちの信仰による歩みなのです。

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