「永遠の命が保証される幸い」 2017.5.28
ヨハネによる福音書 10章22節~30節

 神は、「永遠を思う心を人に与えられる」と旧約聖書『コヘレトの言葉』に記されています(3章11節)。「永遠」という言葉の意味は、手元の辞書によれば「(過去・現在から)未来に至るまで、時間を超越して、無限に続くこと」です。時間を超越している、とか無限に続く、ということは言葉の上ではわかりますが、なかなか私たちには実感できないのではないでしょうか。恋人同士や結婚する二人が永遠の愛を誓う、などと言う場合がありますが、死んだ先も未来永劫にお互いに愛する、と言っても果たして本当にそれが実現できるかどうかは実は疑わしい、と言えないでしょうか。そんなことはわかっているけれども、その時のお互いの気持ちを表しているだけだ、と言われるかもしれません。実際、永遠の愛を誓ったつもりなのに、何年かしたらさようなら、ということがあるのも人間の現実です。ある歌の歌詞に「永遠なる愛なんて信じてない」という一節がありました。これは人間同士の愛を言ったものと思います。私はそれを聞いた時、ひねくれてはいますが「永遠の愛を誓う」などと簡単に言うよりはよほど人間の真実の一面を表しているな、と思ったことがあります。こんな歌詞の入った歌は、一般にはあまり喜ばれないでしょう。それでも、人間にとっては、愛であろうと、命であろうと、自分の力と決意だけでは保証できないのが「永遠」という言葉だと思います。

1.キリストが永遠の命を与える
 聖書で永遠と訳される言葉がありますが、時間を超越している、というよりも、限界のない時間、という面が示されています。神について言われる時には、時間を超越しているという面もあるように見えます。「大地が、人の世が、生み出される前から 世々とこしえに、あなたは神」(詩編90編2節)、という一節が旧約聖書にあります。しかし大方は単純にいつまでも、限りなく、つまり無限にという面が表されています。また、「永遠」とは過ぎ去っていくものとの対比でも語られています。「世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます」(ヨハネの手紙一 2章17節)。いずれにしても、人は永遠の愛にしても永遠の命にしても、自力で手に入れることはできないのが本当のところです。
私たちはこの世に生きてきて、人は必ず死ぬという事実をある時から知るようになります。そしてそれは例外なく誰にも、当然自分にもやがて来るものである、ということを知ります。どうして人間は生まれて来たのにやがて死んでゆくのであるか。せっかく生まれてきたのに、なぜそのまま永遠には生きられないのでしょうか。人も動物もあらゆる生き物はすべて、みなやがて死んでゆきます。動物はともかく、人が永遠に生きられない理由を、聖書は人の罪の故であると教えています。今のこの世界に命の誕生と、死や悲惨があるのは、人の罪が原因である、と聖書は教えています。人が神との関係を壊してしまったので、人は自分の罪の報いとして死や悲惨などを今の世界にもたらしてしまったのです。そのような人間は、自力で永遠の命を得ることなどできなくなっています。また、神もそのような力を私たちに与えられませんでした。私たち人間は自分の力や正しさのゆえに永遠の命を得る資格を失っているのです。
 今日の朗読箇所である10章28節で、イエス・キリストは、「わたしは彼らに永遠の命を与える」と言っておられます。もしイエスが単なる人に過ぎないのであれば、こんなことを言えるはずがありません。ただの人であるのにこんなことを言うとしたら、それは偽り者、嘘つきということになります。あるいは実はただの人であるにも拘らず、自分が何か特別なものであるかのように思い込んでしまっている人、ということになります。しかしイエスの場合、そのような方ではありませんでした。なぜなら、周りにいた多くの人々が、イエスのなさることを見ており、イエスが自分のことを特別なものと思い込んで、大それたことを言っているとは見ていなかったことが明らかだからです。ですからイエスの語られたことを巡って、それを信じるか信じないか、ということが周囲の人々の間で大きく分かれました。それを言っているのが24節から26節です。イエスは人々の前でいろいろな力ある業をなさいましたが、それをすぐには素直に受け入れられない人々がいました。直接イエスのなさることを見ても、受け入れられない人々は少なからずいたのです。私たちも今同じようにイエス・キリストの言葉を前にしています。イエスはご自分の言葉を受け入れる人々をご自分の羊、と言われました。私たちもまた、こうして聖書を通して語っておられるイエス・キリストの前に、自分を低くし、その御言葉に聞くという姿勢を持ちたいものです。

2.永遠の命を保証するイエス・キリスト
しかしこの永遠の命とは、いったい何でしょうか。しかし、このヨハネによる福音書でしばしばイエス・キリストは語っておられるのですが、永遠の命とは、単にいつまでも限りなく続く、ということを言っているだけではなく、神との関係、という点について焦点が当てられています。いくら無限に生きると言っても、生きている状態が良いものでなければちっとも嬉しくありません。好ましくない状態で無限に生きるなど、むしろ苦痛になってしまいます。人にとって最も良い状態で生きることができるのは、神と共にあることです。これを聖書は私たちに教えています。今の世にある人間の悲しみ、苦しみ、悲惨、最後に来る死、そして滅び。こういうものをすべて取り除いてくださった上での永遠の命です。イエス・キリストはそのような命、しかも永遠の命を与えるためにこの世に来てくださった救い主なのです。
永遠の命とは、単純に無限の時間が続くのではありません。今の体と心を持ってただ無限に生き続けるとしたら、それはつらいものとなる、という人が多いことでしょう。いや、少々つらくても永遠に生きて死なないのだから、死の苦しみはないのでしょうか。無限に生きるなんてその内退屈になるのでしょうか。確かに人間は、無意味なことをただ続けて、時間だけが空しく経っていくことに耐えられないといえるでしょう。しかし、人を創造し、人がどう生きるのが最も幸いなのかを知っておられる神は、キリストによって私たちを救い、永遠の命を与えようとしてくださっています。それは本当に素晴らしい恵みです。そのような神は、私たちを永遠に退屈させるために命を与えたりはされません。そして、この10章29節でイエスが言っておられるように、天の父なる神がイエス・キリストにお与えになったものはすべてのものよりも偉大です。そして人であれ何であれ、誰もそれを父なる神とキリストの手から奪うことはできません。それほどに確かな永遠の命を私たちに与える、と約束し、保証してくださっているのです。キリストは十字架で殺されましたが三日目に復活した、と聖書は私たちに伝えています。その復活こそ、キリストのお語りになったことが真実だと証ししています。そして神の愛は永遠の愛であり、時間や他のものによって左右されません。さらに、キリストを信じる者に神の子どもとなる資格を与えてくださいます(ヨハネ1章12節)。永遠からおられ、決して衰えて死ぬことのない神が、御子イエス・キリストを信じる者に、素晴らしい永遠の命を与える、と力強く保証してくださっているのです。

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