「神の偉大な業を知る」  2017.6.4  ペンテコステ礼拝
使徒言行録2章1節~13節

 今日は、ペンテコステを記念する礼拝です。「ペンテコステ」とは、新約聖書の書かれたギリシア語で、「五十番目の」という意味で、日本語では「五旬節、五旬祭」と呼ばれます(2章1節)。イスラエルでは、その昔、神がモーセを立ててイスラエルの民をエジプトから救い出してくださったことを記念して、過ぎ越しの祭りをずっと行ってきましたが、その二日目から数えて七週間後、五十日目に守られた祭りで、「刈り入れの祭り」とか「七週の祭」と呼ばれました。元々小麦の収穫感謝祭で、イスラエルの民が必ず祝う大切な時でした。主イエスが十字架にかけられたのが過越しの祭りの時で、復活された日曜日から数えて五十日目(七週間後)がその五旬祭でした。これは偶然ではなく、神がご計画されていたことです。その時主イエスの約束を信じて集まっていた信徒たち聖霊が降ったので、それを記念するのが今日のペンテコステです。今年は4月16日が主イエスの復活を記念するイースターでしたから、その七週間後が今日、6月4日というわけです。

1.聖霊に満たされて
 エルサレムには、周囲の国々から帰って来た人々が住んでいたので、いろいろな国の言葉を知っている人たちが町中にいました。主イエスを信じ、熱心に祈っていた弟子たちが一堂に集まっている所に、聖霊が降り、一同は「聖霊に満たされ」ました。ここで信徒たちが経験したことは、誰が見てもわかる現象でした。激しい風の吹いて来るような音(音声)、炎のような舌の出現(視覚的)、一同がいろいろな国の言葉で話し出したこと(人の言動)によって示されました。聖霊(神の霊)のお働きは天地創造から続いており、旧約聖書の預言者を通して、イスラエルの歴史の中で働いてこられましたが、ここでは、特に主イエス天に昇られた後に集まっていた信徒たちの上に聖霊が降られました。このことを聖霊降臨と言いキリスト教会にとって非常に重要な出来事となりました。聖霊が降られることによって、信徒たちがイエス・キリストの復活の証人として力強く宣教のために働き始める出発点となったからです。この聖霊降臨により、この世にキリスト教会が姿を現し、組織されていきました。この時弟子たちが各国の言葉で語り出したのは、世界宣教の始まりを象徴的に表した奇跡的な出来事でした。
 そして、信徒一人一人に聖霊の力が与えられ、主イエスの復活を信じ、聖書がイエスを証ししているという確かな信仰を与え、聖書の教えを理解できるようにする、という恵みも与えられるようになりました。今日のキリスト教会がこうして存在しているのも、聖霊が降られて以来、地上の教会を導き、ずっと恵みを注ぎ続けてきておられるからです。地上の教会は決して完全なものではなく、時には過ちを犯し、聖霊の恵みがあまり明らかに見えていない時もありましたが、それでも教会の歩みを聖霊が導いてきてくださって今日に至っています。

2.いろいろな国々の言葉で
 信徒たちはいろいろな国の言葉で話し出しました。イエス・キリストについての福音宣教は、これからあらゆる言葉を使う国々へと、人の言葉を通して伝えられて行くことになります。これまでは、神はおもにユダヤ人たちに対して、その言語であるヘブライ語で語っておられました。しかし世界中にはあらゆる言語があります。それは旧約聖書にあるバベルの塔の出来事(創世記11章)が原因となっています。創世記によると、大変古い時代には言語は一つでした。しかし人間が一つになって名を挙げようとし、高い塔を造ろうとした時に、神が言葉を乱してそれを阻止された、という出来事がありました。そこには人間の思い上がった心がありました。一つの言語を使っていると、人間が何を企てても妨げることはできなくなる、と神はお考えになって、人が話す言葉をいろいろに分けてしまわれました。その結果人間同士の意志の疎通ができなくなり、それぞれ同じ言葉を持つ者たちが同じ所に住むようになり、それぞれの土地へと散らばって行ったのでした。
 そして、この新約聖書に記された時代、主イエスが復活して天に昇られた後に、主イエスが約束された通りに聖霊をお遣わしくださって、弟子たちがいろいろな国の言葉によって主イエスの福音を語るようになりました。人間の罪のゆえに言葉が分かたれたのですが、神は、今度は弟子たちがいろいろの国の言葉を語ることによってイエスの福音を告げ知らせるようになさいました。聖霊降臨によって与えられた力は、外国語を苦も無く話せるようになることではなく、地の果てに至るまで、キリストの証人となるためのものでした(使徒言行録1章8節)。 ですから、言語はあくまでも手段です。伝えるべきことがあるから、そのためにあるのが言語です。主なる神は、人の心の中にあることも見通すことのできる方ですが、主は敢えて人に言葉を語りかけて、そして人が言葉によって主に呼びかけ、求めるようになさいました。そういう面から見ると、世界中にいろいろな言語があるのは、世界中の人間が何かをするにあたって、神の前に謙遜になるべきことを教えています。違う言語を話す人と意志の疎通を図るためには、相手の言語を尊重して互いに学ばなければなりません。そういう世界に私たちは生きている、ということを覚えましょう。神は私たちに謙遜を学ばせようとしておられるのです。

3.神の偉大な業とは
 彼らがいろいろな国の言葉で話していた内容を、「神の偉大な業」(11節)として受け止める人たちがいました。他方、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って初めから聞こうとせず、嘲る人もいました。目の前で不思議なことが起こり、いろいろな国の言葉が話されているのを見ても、人々の反応はいろいろです。神の偉大な業を語っている、と認める人もいれば、驚く人、戸惑う人、嘲る人がいました。これは、昔も今も人々の反応に共通した点があることを教えてくれます。主イエスがどんなに偉大なことを行なっても、それを神の大いなる業だと認めず、却って悪霊の仕業だと決めつける人々がいました。
 今日でも、主イエスについての福音を、また聖書にある神の御言葉を、本当に私たちを生かし、導き、救う素晴らしいものであるとは認めず、悟らず、逆に無視し、あるいは逆らう人々がいます。しかし、私たちはそこで思い出さねばなりません。神の偉大な業は、どんなに頑なな人の心をも砕き、新しく生まれさせることができる、ということを。神は昔、預言者によってこう言われました。「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」(エゼキエル書36章26節)。肉の心とは、柔らかく神の御言葉に反応して、神の前にへりくだって聞こうとする心です。
 私たち自身がまず、そのような神の偉大な業を信じましょう。すでに信仰をいただいた人は、それを信じています。そして、神がイエス・キリストにおいて偉大な業をなしてくださったこと、さらに、自分に偉大な業をなしてくださり、救いへ導き入れてくださったことを知っています。未信者の方は、神の御子イエス・キリストが人となってこの世にこられ、人を救うことがまず神の偉大な業であると知っていただきたいのです。そして信者であろうと未信者であろうと、神の偉大な業は今日も尚続いているのです。私たちの愛する家族や兄弟、子どもたちなど、身近な人の上にも、神が偉大な業をなしてくださり、その心を新しくして肉の心を与えてくださることを期待しようではありませんか。私たちが神の偉大な力と御業を信じているのは、ただ言葉の上で、信仰告白の文章の上だけではなくて、現実の生活の中でなのです。
 今、岩盤規制に穴をあける云々と政治の世界では言っていますが、何よりも固いのは人の心です。法律や規則は変えられますし、文字通りの岩盤はドリルで穴を開けられますが、人の頑なな心はそうはいきません。その頑なな心を象徴しているようなことが私たちの周りで起こっています。それは決して他人事ではありません。神の前に罪深い人間の心が頑なであるしるしです。しかし、神の偉大な業は、人の岩盤のような心に無理やり穴を開けるのではなく、柔らかい肉の心にしてしまうことができます。柔らかくなればドリルは要りません。そして一度柔らかくなれば、植物が水分を根から吸い上げるように、神の御言葉を次々に吸収するようにさえなります。そのような神の偉大な業をさらに見せていただけるように、信仰をもって祈り続けましょう。

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