「真理とは何か」 2023.4.30
ヨハネによる福音書 18章28~38節

 救い主イエス・キリストは、大祭司の屋敷で尋問を受け、そして今度はローマ総督の官邸に連れて行かれました。そこで裁判を受けるためです。朗読された中にありましたように、当時のユダヤはローマ帝国によって人を死刑にする権限を奪われていました。それで人々はイエスを総督の官邸に連れてきたのです。今日は、そこでも総督ピラトと、主イエスの対話によって、ピラトがイエスに問いかけた、「真理とは何か」という言葉から、私たちの聞くべき神の御言葉を聞きましょう。


1.どういう罪でイエスを訴えるのか

 ローマ総督ピラトは、ユダヤ人たちの所に来て、どういう罪でこの男を訴えるのか、と問いました。ピラトは割と冷静にこの度のことを見ていて、これがユダヤ人たちの宗教上の問題である、ということに気づいていましたので、自分たちの律法に従って裁け、と言うのでした。ユダヤ人の指導者たちは、御自分を神の子であり、神のもとから来たと証ししているイエスを死刑にしたいのですが、死刑にする権限がないので、ローマ総督に訴え、裁判にかけてもらい、そうして有罪判決を勝ち取って死刑にしたかったのです。彼らの意図についてはこの後、19章で示されます。

 今日の箇所で分かることは、ユダヤ人たちが人を死刑にする権限がない、と言ったことによって、イエスがどのような死を遂げるかを自ら言われた言葉が実現する、という点です(32節)。このヨハネによる福音書では、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、自分も上げられる、と言われたことが書かれています(3章14節)。マタイによる福音書によれば、イエスは異邦人に引き渡され、侮辱され、鞭打たれ、十字架につけられることをはっきりと予告しておられます(20章19節)。ローマの処刑方法で最も厳しいものが十字架刑で、これは一般市民には適用されず、奴隷などの、しかも極悪な犯罪人に適用されるものです。ユダヤの指導者たちはイエスを何とかそのように処刑したかったのでした。ピラトのもとで裁判を受けることによってそれを実現しようとしたのです。そして十字架にかけられることは木に架けられることで、イスラエルの律法によれば木に架けられた者は神に呪われた者だからです。


2.イエスの国はこの世に属していない

 実はピラトはユダヤの祭司長たちがイエスを自分のもとに連れて来たのは、妬みのためである、と気づいていました(マルコ15章10節)。イエスが政治的な意味での王として立ち上がり、ローマ帝国に背くような行動を取ろうとしているわけではないことがピラトには分かっていたのです。これは政治的な問題ではなくて、ユダヤ人の宗教上の問題であると。だからユダヤ人に対して自分たちの律法に従って裁けといったのです。

 ローマ総督ピラトは、イエスを呼び出して尋ねます。「お前がユダヤ人の王なのか」と。このヨハネによる福音書の記述だけだと、なぜピラトがここでいきなりこの質問をしたことが良くわかりません。しかし、ルカによる福音書23章2節によれば、会衆が立ち上がって、イエスは皇帝に税を治めることを禁じ、自分が王たるメシアだと言っていると訴え始めたのでした。こういう訴えの言葉があったので、「お前がユダヤ人の王なのか」と聞いたわけです。

 しかしピラトが主イエスに尋ねても、イエスは、それは自分の考えなのか、と問い返してきます。自分が逆に尋問されているような感じになり、ピラトは多少苛ついているかのように見えます。そんな風に問い返してくるこのイエスという人物はいったい何者か、何をしたのでこんな風に同胞たちから訴えられているのか。ピラトには腑に落ちなかったようです。ピラトにとってはイエスが捕らえられているのは自分たちとは違うユダヤ人の信仰の問題で訴えられているわけですが、なぜ人々がなぜイエスを死刑にしたいのかが分からなかったのです。一体イエスは何をしたのか。このイエスとピラトの問答は、一つのことを示しています。イエスがユダヤ人たちから訴えられて、ローマの総督のもとで裁判にかけられ、そして死刑の判決を受けようとしている。ここでイエスがこのような仕方で訴えられることは、この世の理屈では考えられないこと、辻褄の合わないことだと言えるのです。イエスの問題について、利害関係のない、全く第三者の立場にあるピラトですが、そのピラトは後でイエスには何の罪も見いだせない、と言っているわけで、なぜそれほどまでにユダヤ人がイエスを殺したいと思っているのかは理解できないことでした。

 事実、イエスは本来罪のない神の御子でしたから、死刑になるこの世での正当な理由はありません。しかしイエスが殺されることは神の御心でした。それは、この世の次元で考えていても全く分からないことです。イエスの国はこの世に属していない。そういうこの世のものではない国がイエスの国であるというのです。しかしそこでピラトが、やはり王なのか、と聞いたことに対して、それはあなたの言ったことだ、とイエスは言われます。はぐらかしているかのように見えるかもしれません。しかし、イエスは極力御自身がこの世の国の王になろうとしているのではない、ということを強調しておられるのだと思います。この世のものではない国の王であるイエスは、あらゆる意味で王ではない、ということにはならないからです。ピラトや、主イエスを信じない人が、イエスはユダヤ人の王になろうとしている、と考えるのと、真の意味でイエスが王であるということは意味が違うのです。イエスはこの世で政治的な王になろうとしてはおられません。


3.真理について証しをするために

 主イエスは、この世の政治的な王になろうとしてこの世にお生まれになったのではなく、真理について証しをするためにこの世に来られました。この世の国家がこの世で武力や権力で人々を治め、支配し、領土を保つのとは違い、イエスは神の御言葉の真理によって人を導き、教え、生かし、また治め、守ってくださる王なのです。しかしそれは決して精神的な、信仰の面だけのものではなく、現実に私たちの体と魂を守ってくださる力を伴っています。

 しかし真理とは何か、とピラトは聞きました。イエスはこの問いに対して答えておられません。けれどもヨハネは既にこの福音書で、イエスの御言葉を書いています。「わたしは道であり、真理であり、命である」と(14章6節)。イエスこそ真理そのものです。つまり、神がこの世界においてなさる御業、その意味、目的、御心を体現しているのがイエスというお方なのです。神がこの世界に対してお考えになって、そこに住む人間の犯した罪を赦し、新しい命を与え、この世とは次元の違う、神の国を打ち立てようとしておられる。それを実行するのがイエスであられるからです。そのような神の御心、御計画が真理ですが、それを証しされるイエス御自身も真理と呼ばれるのです。

 主イエスは、真理そのものであるお方として、神の御言葉を語り、神の御心を実現する御業を地上でなすべき分を成し遂げられ、今もその完成に向かって働き、主を信じる民を導いておられます。そしてやがてこの世のものではない神の国を完成されます。私たちは真理とは何か、と探求し、自らの頭でそれをひねり出すのではなく、天から、神のもとから来られた神の御子イエス・キリストの御業と御言葉に、そしてイエスその方に真理を見ているのです。そしてこの真理によってこそ、この真理によってのみ、私たちには神からの救いが与えられるのです。

 真理とは何か、とピラトは問いました。その答えは、イエス・キリストの御生涯、御言葉、御業、特に十字架と復活、これを見ることによらなければ与えられません。そして主イエスは、御自身に心から求める者に対して御自身を現し、その御言葉と、また御自身が真理そのものであることを現してくださいます。そして私たちに神の愛が主イエスを通して私たちに向けられていることを知らせてくださるのです。それを信じて主を見上げましょう。

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