「神が祝福してくださる」 2023.4.16
詩編 67編2~8節

先週、私たちは救い主イエス・キリストの復活を記念して、祝い、礼拝を行いました。主イエスの救いの恵みと祝福は、その復活によって私たちに対して確かなものとなりました。主キリストの復活は、その十字架の上での死による、私たちの罪の償いの御業が、本当に有効なものであり、復活によって罪の赦しと永遠の命は確かなものとなったのであり、罪に対して完全なる勝利が実現したのでした。それは言い換えると、神による救いの恵みは確実に私たちに与えられたのだ、それはつまり神の祝福は現実に私たちのものになったのだ、ということです。それで今日は、旧約聖書の詩編から、神が私たちを祝福してくださることについて歌っている詩編六七編に聞き、神の祝福についての教えを聞きます。


1.神の祝福を受けた人々

 この詩は収穫の感謝を歌ったものではないか、と言われてきました。7節に「大地は作物を実らせました」と歌われているからです。確かにそういう面はあると言えます。神の祝福は、そのように現実の生活の中で与えられる、目に見えて手に取れるいろいろなものによって表されます。そこで、まず聖書から、神から祝福の約束を受け、実際に祝福された人たちのことを見てみましょう。

ずっとさかのぼりますと、神はまず創世記に記されている天地創造の時に人を造られましたが、その時、人に対して祝福して言われました。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と(創世記1章28節)。これが、神がまず初めに人を祝福された時の御言葉です。つまり、地上に増え広がること、そして地を従わせること、それが神の祝福を受けているがゆえに実行できるとされているわけで、それが祝福そのものだと言えます。もし神の祝福を受けていなければ、増え広がることはできないのです。

 しかしこれは、人間が神の前に罪を犯して堕落してしまう前に言われた御言葉でした。しかしこの御言葉は、今でも有効です。堕落後のノアの時代にも洪水の後で神は同じことを言われたからです(9章1節)。だから、まず私たちは神による、この祝福の御言葉の内に今も生きているのです。しかし、堕落してしまったので、地上に増え広がることだけでは、完全な祝福に至ることはできなくなってしまいました。

 それで神は後にアブラハムに現われて、アブラハムを通して地上の人々は祝福に入ることができると約束されました(同12章3節)。これが全世界に対する神の約束です。その約束は今も完成に向かう途上にあります。その中で、例えばアブラハムの息子のイサクについて言われています。「イサクがその土地に穀物の種を蒔くと、その年のうちに百倍もの収穫があった。イサクが主の祝福を受けて、豊かになり、ますます富み栄えて、多くの羊や牛の群れ、それに多くの召し使いを持つようになると、ペリシテ人はイサクをねたむようになった」(同26章12~14節)。


2.神の祝福とは何か

 このイサクについての記事に、神の祝福がどのようなものであるか、ということが分かり易く示されています。神の祝福はそれを与えられた人に何かをもたらします。収穫、持ち物、家畜などが増えること、力や勢力が増すこと、などです。しかし、堕落した人間の世界では、ある人が神の祝福を受けるとそれを妬む人が出てくる、という事実もまたわかるのです。

 このようなイサクの実例がありますが、旧約聖書では神の祝福という場合、このように物質的、現世的な面で富み栄える、という面が前面に出ています。この67編をみますと、先ほど言いましたように、大地が作物を実らせたことが特に言われています。しかしそれだけなのでしょうか。2節で、「神がわたしたちを憐れみ、祝福し」と言われているように、神の祝福は私たちに対する憐れみと一つになっています。そこには私たち人間に対する神の憐れみの御心が向けられているのであって、それは堕落して罪の中にある人間が神に立ち帰り、神を信頼して生きることを望む御心からきているものです。そして、「御顔の輝きをわたしたちに向けてくださいますように」と言っています。それは、神のご好意が私たちに向けられることを願う祈りです。それによってこの地が、つまり地に住む人が神の道を知るように、御救いを民が知るようにと祈っています。ということは、神の祝福は、ただ単に人にいろいろなものや土地や収穫を与えることに留まるのではなく、神に従って生きる道を悟ることこそ祝福なのです。神への感謝を献げることで、神との人格的交わりを得て生きることです。次の御言葉があります。「人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない」(箴言10章22節)。これは本当に大事な所を突いた教えであって、主なる神が祝福してくださって初めて人間は豊かになれるのである、という真理が簡潔に示されています。そしてこの祝福は、やはり物質的なものを与える、というだけのものではない、と言えるのです。

 では、新約聖書に目を向けてみましょう。神が主イエスをこの世にお遣わしになったのは、「あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした」(使徒言行録3章26節)。これはもう全く物質的なことではありません。悪から離れて神に従う、という人としての道に歩むことが大事なのです。ですから、いくらこの世で多くのものを所有して、土地や財産を沢山持っているからと言ってそれが即ち神の祝福だ、とは言えないのです。

 また、主イエスは、ある時子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福されました(マルコによる福音書10章16節)。その時には、神の国はこのような者たちのものである、と言われました(同14節)。単純に素直に主イエスのもとに来ている者、神の国を受け入れている人は、神の国の一員とされているのだから、主イエスの祝福に与ることができます。主イエスの祝福とは、突き詰めれば永遠の命に召し出されているという恵みに与っていることを宣言するものだと言うことができます。救いに与っていることを主イエスによって保証されているのです。何と幸いなことでしょう。ですから、神の祝福は、救い主イエスの到来によって非常に明らかになりました。単にこの世で物質的な豊かさをいただけるのではなくて、神との強い結びつきを与えられ、人格的な交わりをいただき、永遠の命を保証されているという恵みをいただいているのです。


3.神の祝福を受けた民に求められること

 それでは、神の祝福をいただいた者は、この世でどうすべきなのでしょうか。詩編67編に戻りますと、作者はすべての民が主なる神に感謝を献げますように、と祈っています。また、全ての民が神の公平な裁きを喜び、諸国の民をも導かれることを喜び歌うようにと求めています(4、5節)。つまり、祝福を受けた者は、他の人々のために、祈り始めるのです。全ての人が神を知るように、そして感謝を献げるようにと。それは更に今日の私たちであれば、救い主イエス・キリストをすべての人が知るように、そして神に感謝する歩みをできるように、と祈ることが求められています。「地の果てに至るまで、すべてのものが神を畏れ敬いますように」(8節)という祈りは、全てを包括するものとも言えます。そうすることで、神の祝福をいただいていることが明らかになるのです。

 そして、主イエスによって祝福をいただいた人は、その祝福を携えて誰かのもとへ行くこともできます。使徒パウロは、ローマの教会へ手紙を書いた時、募金を渡して、その後イスパニアに行く予定だと伝え、次のように書いています。「そのときには、キリストの祝福を溢れるほど持ってあなたがたのところに行くことになると思っています」(ローマの信徒への手紙15章29節)。パウロは、募金の成果はエルサレムの教会に手渡してきますから、ローマの教会に特別な献金をもっていくわけではありません。パウロが行くこと自体、キリストの祝福を持っていくことになるのです。いや私たちはそんなパウロほどのものではないから、キリストの祝福を溢れるほど持っていくことなどできるのだろうか、と思うでしょうか。しかし、たとえどんなに小さな器であろうと、キリストによる祝福をいただいた人がそこにいるなら、そしてその人がどこかへ行くならその背後には、人を豊かにしてくださるキリストの祝福があり、それを携えて行くことになると心得ましょう。キリストの祝福は、教会の福音宣教によって広がっていきますが、それを受けた人から人へとも広がって行きます。神御自身が主イエス・キリストの福音によって一人一人を罪から救い出し、祝福に与らせようとしておられるのです。その御心を感謝して受け止めようではありませんか。

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