「イエスは復活された」
 マルコによる福音書 16章1~8節

 「イエスは復活された」。この短い一言に、私たちがここで集っていることの根拠があります。もしも主イエスが本当には復活しておられなかったとしたら、世界中にキリストの福音が今のように広がっていることはなかったでしょう。単に歴史上の偉大な人物の一人の中に数えられて、そのいろいろな言葉が、世の多くの人々に対する教訓であったり、良く生きるための指針であったりしただけだったでしょう。そしてイエスのなさったことは人間としての模範に過ぎず、私たちを救う救い主ではなかったでしょう。いや、救い主とはなりえなかったのです。しかし真実はそうではありませんでした。先ほども朗読していただいたように、イエスは確かに復活されました。


1.ナザレのイエスを捜している

 マルコによる福音書は、この後に結びと言われる文章が二つついていますが、これは重要な古い写本にないので、恐らく元々のマルコの書いたものにはなかったのであろうとされています。そうするとあまりにも唐突に8節で終わっているので、不自然である、きっと最後の部分を紛失したのではないか、マルコに何かあって、最後が書き終えられなかったのではないか、いや、マルコはここで終わりにしたのだ、などと言われます。結びの部分は後の人が付け足したのではないか、とも言われてきました。そして、ある程度は古い写本にも含まれているので括弧入りで読まれてきました。それで、今日はその話はこのくらいにして八節までの記事からお話しします。

 主イエスが復活した証拠はどこにある、という問いが私たちに与えられたら、どう答えましょうか。現代人が言うような証拠はないと言えるでしょう。しかし、私たちの心の内になされる証言とそれを信じる私たちの信仰とその確信があります。それは決して妄信ではなく、1世紀に復活された主イエスを目撃し、出会ったという多くの弟子たちの証言に基づきます。それは信仰の問題です。しかしそれは神の聖霊が私たちの心の内に与えてくださるものなのです。

 今日の朗読箇所は、十字架の上で死なれ、そして取り降ろされて墓に葬られたイエスの体に油を塗りに来た女性たちの話です。彼女たちは墓の入り口に大きな石が転がされていて、簡単には中に入れないことを知っていました。ところが石は既に転がされており、墓の中に入れるようになっていました。この墓は岩を堀り抜いて、洞穴のようにして、遺体をそのまま納めることができるほどの空間がありました。彼女たちは当然イエスの体が遺体としてそのまま安置されていると思っていました。それ以外のことは何も想定していなかったのでした。しかし中にいた若者はまず、「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜している」と言いました。イエスを捜してはいるが、墓の中を捜すのは間違っている、というのです。墓の中を捜しても、イエスがそこにいるはずはない、と。

 人間というものは、およそ生まれてきてからずっと、何かを捜したり求めたりしていると言えるかもしれません。より快適な生活を追求する、愛する人を求めている、自分に合った仕事を捜している、健康な体を求めている、住みよい街と家を捜し求めている、研究者であれば、真理を追い求めている、計画したことの目的を果たせるように願い求めている、などなど。しかし私たちがこの世で捜し求めるものは、それを手にしてみると、段々色褪せてきたり、飽きてしまったり、予想していたほどには大したものでなかったり。そして欲しかったものを手に入れたと思った途端、次のものが欲しくなったりするのです。ついには、何を求めて良いか分からなくなってしまう。話が少し広がりましたが、主イエスが墓にいるものと思ってやって来た女性たちは、そこでは求めているものを得られませんでした。そこにはいるはずのないイエスを捜し求めていました。しかも死んだ体のイエスを。このように私たちは時に的外れな所に何かを捜し求めてしまうものではないでしょうか。いるはずのないイエスを墓の中に捜し求めてしまう。求めても完全な満足など得られないものをこの世の何かに求めてしまう。私たちのものを見る視力は、何とあてにならないものでしょうか。それは、私たちのものを見る目が、私たちの知識とか経験に縛られているからです。特にイエスが復活されて墓から出られたなどということを、この女性たちは全く想定できなかったのでした。


2.あの方はここにはおられない

 的外れな所にイエスを捜していた彼女たちに対して、そこにいた若者は、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」、既に墓から出ておられると言いました。この若者について、マタイとヨハネは天使であると書いています。旧新約聖書を通じて、天使はしばしば登場していました。主なる神が直接誰かに語りかけた、という話が聖書にはしばしば記されています。マルコは天使だとは記しませんが、この若者は、イエスが復活されて、かねて言われたとおりにガリラヤで会える、と言ったわけですから、イエスの復活に際してそれを初めから知っていた人だということになります。聖書に登場する人々はおよそ誰一人としてイエスの復活を信じて期待してはいませんでした。つまり、この若者が言ったようにイエスの死と復活を冷静に受け止めて語っているということは、この人が天の神の御心を告げに来た者、即ち天使であることを証ししています。

 彼は、ひどく驚いている婦人たちに、驚くことはないと言いました。墓の中に若者がいたので驚いたのですが、彼女たちは更にもっと驚くことになります。そして、次には震え上がり、正気を失い、恐ろしさのあまり、誰にも何も言わなかったのでした。若者が「驚くことはない」と言っても、それは無理な話でした。若者を見て驚くほどですから、主イエスが復活したと聞いても驚きを通り越して恐ろしさを覚えたのでした。しかし、この若者つまり天使、即ち神の側からみれば、それは驚かなくてもよいことで、神の御力によれば、死んだ主イエスを復活させることは可能であり、天地を創造された神の全能の御力からすれば、それは驚くことはない、と言えることなのです。今日、主イエスの復活を信じない人からみれば、復活など、驚くというより、あり得ないと一蹴されてしまうかもしれません。それは、そんな話は人類の歴史の中で他に聞いた事がないからであり、経験的にもあり得ない、という知識があるからです。もちろん科学的に行ってもそうだ、ということかもしれません。しかし、天地を造られた神の御手には不可能はありません。


3.かねて言われていたとおりお目にかかれる

 女性たちは驚き恐れていましたが、若者は主イエスが、婦人たちや弟子たちよりも先にガリラヤに行かれる、と言いました。これは、14章28節で主イエスが言われたことです。この時も、今日の箇所で若者が言ったのも、同じ動詞が使われています。それはただ単にある地点から別の地点に行く、という言葉ではなくて、先へ導く、先頭に立つ、先に立って導く、という意味の言葉です。主イエスは、墓の中ではなくて、神の国の福音宣教を始められたガリラヤに、自ら弟子たちに先立って行かれるのです。そしてそこでお目にかかれるのです。

 ところが、それを聞いた女性たちは、嬉しくなって喜ぶのかと思いきや、先ほど言ったように震え上がり、正気すら失っていました。恐ろしかったので誰にも何も言わなかったのでした。女性たちは誰にも何も言わなかったのですが、ここに書かれているということは、当初は誰にも言わなかったけれども、後で話したのは確かです。だからこそ、マルコも書いているわけです。主イエス様が復活されたのなら、こんな嬉しいことはない、と言って喜び躍る前に、震え上がるほど恐れ、正気を失っていた。それがこの女性たちの正直な気持ちだったのです。受け止めるには、やはり復活された主イエスに出会うことが必要でした。他の福音書はそれぞれにこの場面を描き出していますが、マタイは、「恐れながらも大いに喜び」弟子たちに知らせるために走って行った、と書きます(28章8節)。それで比較するとマルコと食い違うように思えますが、マルコは最初の女性たちの素直な反応を強調しているようです。そしてマルコが描く女性たちも、恐ろしいと思いながらも、やはり弟子たちの所に行って、ある時点で話したわけです。

 このように、主イエスが復活された、という出来事は、当時周りにいた人たちに驚きと恐れと喜びをもたらしました。主イエスを信じなかったユダヤの指導者たちは、弟子たちが墓からイエスの遺体を盗み出したのだ、と言いふらすように兵士たちに命じています(マタイ28章13節)。今日の私たちはどうでしょうか。先ほど言ったように、そんなことはあり得ない、あるいは、信者たちがでっちあげたのだろうと、多くの人が言うかもしれません。しかし私たちは、天使たちが言ったこと、復活された主イエスに出会った人達の証言を受け止めます。そして福音書記者たちの証言も受け入れます。そしてそれを聞いた私たちは、色々に反応したでしょう。しかし、神の聖霊が御手を伸べて魂に触れてくださった人は、この信仰に導いていただいています。私たち人間の限られた知識と経験、判断、理解は最終的な判断基準にはなり得ません。弟子たちなどの目撃証言、聖書の証言、私たちの心の内になされる聖霊の証しにより頼みます。そして信仰をもって歩んでゆくことで、ああ、本当に主イエスは復活されて、私にも御自身を現してくださったのだ、ということを主が悟らせてくださいます。復活の主イエスを仰ぎ、信じ、祈ることで、その確信は強められてゆくのです。

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