「あなたがたは喜びで満たされる」 2022.12.4
ヨハネによる福音書 16章16~24節

 主イエスが弟子たちに対してお語りになったことが、弟子たちにはわかりませんでした。12節で主イエスが言われたとおりです。しばらくするとイエスを見なくなり、またしばらくするとイエスを見るようになる。何のことやらさっぱり分からない、というのが弟子たちの正直な気持ちでした。父のもとに行くということも同じです。しかし今日の私たちには、その意味は明らかにされています。待降節の第2主日にあたり、私たちのためにこの世に来てくださった救い主イエス・キリストが私たちに与えてくださる真の喜びとはどれほどのものなのか、教えられています。


1.論じ合っても理解できないこと

 しばらくするとイエスを見なくなるが、またしばらくするとイエスを見ることになる。これは、主イエスが捕らえられて十字架につけられるけれども、3日目に復活されることを示しています。マタイ、マルコ、ルカによるそれぞれの福音書を見れば、そのように書いてあります。弟子たちはそれを何度か聞いているのですが、それでも分からないものは分からないのでした。それを察した主イエスは、御自分からお語りになります。

 弟子たちは論じ合いました。見なくなるということは、主イエスはしばらくの間、どこかに身をひそめて隠れるつもりなのだろうか、と。既にユダヤ人の指導的立場にある人々は、イエスを殺そうと企み始めていましたが、(11章53節)、弟子たちは分からないと言っているのでそうでもなさそうです。父のもとに行く、というのもイエスが天の父なる神のもとから遣わされた神の御子であることを十分に悟っていなければ分かるはずもありません。

 このように、主イエスに関することは、私たち人間が論じ合っても分からず、その意味を直ちに悟れる人は実はいないと言ってもよいほどです。人は神から知恵を与えられており、すぐれた思考力も与えられており、それは人間同士で考えてみても相当なものです。それでも、いくら人の能力がすぐれていても、神について、人となった神の御子イエスについて理解するためには、神の霊である聖霊によって心を照らされなければどうしても分からないのです。

 しかし、聖霊によって心を照らしていただいた人は、たとえ特別な能力がなくても、神の御言葉を理解し、納得し、受け入れることができるようにしていただけます。これは本当に感謝すべきことです。人間の限られた知識と能力で、神の御業について論じるのではなく、主の御言葉に耳を傾けることが何より大事なのです。神について、聖書がはっきり示していることは、私たちは理解できます。しかし、明らかにされていない部分については、私たちは人間の知恵で論じるのではなく、へりくだって聞くしかないのです。


2.悲しみは喜びに変わる

 弟子たちは泣いて悲嘆にくれるのですが、世は喜ぶ、とはどういうことでしょうか。イエスの十字架刑の時、群衆は祭司長などの指導者たちに扇動されて、イエスを十字架につけろ、と叫びます。鞭打たれたイエスを取り囲んだローマの兵士たちはイエスを嘲り侮辱しました。訳も分からずに喜んだのです。弟子たちは当然悲しみに暮れていました。しかしその悲しみは喜びに変わります。弟子たちは、今はそのような悲しみの内に沈むことになるが、その苦痛を覆いつくしてしまうほどの喜びに変わります。その喜びは、主イエスが死者の中から復活されること、そしてそれだけではなく、主イエスが天に昇られてから、聖霊が教会に降られることによってもたらされます。

 私たちにとってこの世で味わう最大の悲しみは何でしょうか。やはり愛する者が世を去る時ではないでしょうか。それにより私たちは大きな悲しみを味わいます。それをもたらす死の力を滅ぼすために来られたのが神の御子イエス・キリストです。愛する者を失うことだけでなく、この世で様々な悲惨な出来事を見る度に人は大きな悲しみを味わいます。そういう意味では、神の御子であるイエスが捕らえられ、侮辱され、十字架で殺され、葬られることは何にもまして悲しむべきことです。しかし、私たちはその悲しみを十分には理解していない。これが人間の現実です。

 十字架につけられたイエスの死を見た弟子たちの悲しみは、単純に自分たちが神の子であると信じていた方が死んでしまったという意味での悲しみでした。しかし私たちが本当に悲しむべきは、神の御子を十字架につけて死んでいただかねばならないほど私たちの罪が重いことです。私たちはその罪の重さをなかなか悟れないのです。

 弟子たちの悲しみは、単純に救い主であるに違いないと思っていた先生であるイエス様がいなくなってしまう、という悲しみでした。主イエスはその悲しみは喜びに変わると言われます。復活された主イエスに弟子たちは後々会います。その時になって彼らは主イエスの言われたことが本当だったと初めて悟ります。そして復活された主イエスに会えただけではなく、主イエスが天に昇られてその姿が見えなくなっても、彼らはもはや悲しみません。イエスの約束通り、聖霊が降られて力をいただくことで、新しい歩みを始めるのです。聖霊が降られた直後、多くの人々が信仰に入って洗礼を受け、心を一つにしていました。喜びと真心をもって一緒に食事をしていました(使徒言行録2章46節)。この喜びは、主イエスの姿が見えなくても決して奪い去られないのです。

3.父なる神と御子キリストから来る喜び

 そして主イエスは、これからは私の名によって願いなさい、そうすれば与えられる、その上あなたがたは喜びで満たされる、と弟子たちに約束されました。既にイエスは、御自分の名によって父なる神に願う者は何でも与えられると約束しておられました(15章16節)。また、そのさらに前には、イエスの名によって願うならば、イエス御自身がかなえてあげよう、とも言っておられました(14章14節)。父なる神も、御子であるイエスもどちらも願いをかなえてくださるのです。イエスはただその御名によって父なる神に執り成してくださるだけではなく、御自身が祈りを聞いて願いをかなえてくださる方であることを覚えましょう。

 では私たちは、救い主イエス・キリストの御名によって何を願うのでしょうか。私たちが願うべきことは何でしょうか。自分自身の罪の赦しと救い、愛する者の救いでしょうか。この世の生活での困難や苦しみや病いからの解放でしょうか。確かにそれらは私たちが願ってよいこと、願うべきものです。では、自分のこの世での夢や野心はどうでしょうか。エフェソにいたユダヤ人の祭司長スケワの七人の息子たちのように、よこしまな願いや、試しにイエスの御名を使ってみるようなことでは、当然かなえられるはずもありません(使徒言行録19章16節)。

 私たちは何を願うのか。それは主の祈りに示されました。私たちはいろいろ祈りますが、大事なことは全て主の祈りに含まれています。主イエスは、この祈りを教えてくださっただけでなく、御名によって祈る者に対して、願ったことについて、主イエスから何らかの答えをくださるのです。

 主イエスの御名によって願うとは、心からの畏れを持ち、試しにではなく、信仰をもって願うことです。信仰がなくては、主がどのように答えてくださったのかを知ることもできません。パウロは自分の体の癒しを求めましたが恵みは十分だと言われてそれを受け止めました。願った通りには与えられず、彼の体にある問題はそのまま残されましたが、主のお考えを聞き、弱さを抱えたままでも、その弱さの中に主が共にいてくださるので、行き詰まりの状態にあっても満足できたのでした(Ⅱコリント12章8~10節)。  主イエスが言われた「そうすれば与えられ」という言葉は、「取る、得る、受ける」という意味です。新改訳は「そうすれば受けます」と訳しています。与えられる、と言うと、願った通りに叶えてもらえるという印象が強いですが少々違います。14章14節で「かなえてあげよう」と言われたのは、「わたしが行う」という意味でした。私たち主イエスの御名によって願いますが、主がそれについて行ってくださる、或いは主からの答え、業、お考え等を受けるのです。23節の「父はお与えになる」という言葉は普通に「与える」という意味の言葉です。

 そして、願った結果、主イエスからの答えを受けられ、喜びで満たされる。それは、主からの答え、主の御業、主の御心、そういうものを受け取って喜ぶのです。それはこれ以上ない喜びであり、それに満たされるのです。その喜びを奪い取れる者はいません。この世にしばしばあるぬか喜びとか、誰かに邪魔され、中傷されて喜びが薄れてしまうことはありません。神から来る喜びだからです。

 私たちにはこの世に生きている限りは悩みや苦しみや困難が伴います。それでも、主イエスの御名によって祈り願う者には、神につながっており、その御心を示されている者としての喜びが伴うのです。主イエスを信じて永遠の命を与えられた者は、誰もイエスの手から奪われることは決してないのですから、その喜びもまた決して失われることはありません。願いなさい、と主イエスは言われました。私たちは心から主イエスの御名によって祈り願う者とされていることを喜びましょう。これは本当に特別な神の恵みです。それを知って私たちはまた喜ぶのです。

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