「世の誤りを明らかにする」2022.11.6
 ヨハネによる福音書 16章1~11節

 主イエス・キリストは、弟子たちが分からなくても、これから先のことをしばしば語られました。直前の15章で語っておられたことも、弟子たちは良く分かりませんでした。主イエスはそれを御存じの上であえて語られました。それは後になってその意味が分かるようになる時が来るからで、その時になれば、弟子たちは、ああ主イエスは既にこのことを語っておられた、とまず思い起こします。そしてその意味を悟ります。それらは皆神のもとから遣わされる真理の霊、神の聖霊のお働きによるのです。予め語っておくことによって、主イエスの言葉は確実に実現してゆくのだ、ということを弟子たちは悟れます。また、主が言われたように、なぜ自分たちの主は、捕えられ、殺されてしまったのだろうかという疑問につまずかないためです。弟子たちは会堂から追放され、中には殉教する者も出てきます。主イエスを受け入れない世の人々は、自分たちこそ正しいのだ、先祖以来信じてきたイスラエルの神、アブラハムに現れ、モーセに語られた神に仕えているのだ、と考えます。しかしそれは、父なる神をも、神の御子なる主イエスをも知らないからです。それをよく弁えておけば、事が起こって来た時に弟子たちはそれを思い出すことができるでしょう。そしてその時というのは主イエスが天に上げられた後、聖霊が降られてからのことです。


  1.主イエスが去ることは益となる

 主イエスは、弟子たちに多くのことを語られましたが、初めからあらゆることを話してはきませんでした。一緒にいたからです。ところが今は、イエスは天の父なる神のもとに行こうとしているので弟子たちは悲しんでいます。いつも近くにいて、素晴らしい神の業を行ってくださった主であるイエスがいなくなるとなれば、不安になり悲しむのは当然です。しかしそれはあなたがたのためになる、と主は言われます。そしてここでの「あなたがた」は、イエスの目の前にいる弟子たちだけでなく、今日聖書を読み、今ここで共に御言葉を聞いている私たちも含まれています。

 今私たちがこうして聖書を読み、教会に集い、共に主なる神を礼拝しているのは、イエスが天に昇り、約束通り弁護者なる聖霊を遣わしてくださって、神の御言葉を理解させてくださっているからです。なぜ主イエスは地上におられる間に弟子たちの心を開いて御言葉をよく理解させなかったのでしょうか。一つには、主イエスが人としての姿を取って地上に永久におられるという道を主はお選びにならなかったからです。弟子たちがいつまでも人としておられる主イエスに頼りきりにならずに、この世で目には見えなくとも信仰によって進んでゆけるように、あえて主イエスは天に昇られ、姿が見えないようになさったのです。今日の私たちが置かれている状態がそれです。


  2.弁護者なる聖霊のお働き

 こうして聖霊が与えられることは、私たちのためになります。これにより私たちは信仰によって歩むことを学び、訓練されます。見には見えなくとも信仰によって主に頼り、この世を力強く歩むためです。いわば、主は私たち人間が、目に見える主に頼らず、聖霊により頼み、信仰者として、教会として自立するためです。しかしこの自立という言葉は少々注意が必要です。実は、目に見える主に頼らないで生きてゆくとしても、やはり目には見えない聖霊に頼っています。聖霊の御力と助けなしには、私たちはこの世で信仰を全うできません。そもそも聖霊のお働きがなければ、信仰そのものも持つことはできなかったからです。

 弁護者とは、側に呼び寄せられた者という意味です。慰める者、助け主、援助者とも訳されます。慰める、というと個人的に感情面で寄り添うという印象があります。弁護者というと裁判の席で文字通り弁護してくださる方。助け主、援助者というと全般にわたって助けてくれる、という印象があります。つまりそれだけ、聖霊の私たちに対するお働きはそれほどの幅があってこの世で私たちが生きてゆくことと、信仰者として神の前に立つべき私たちを支え、救い主イエスを信じる者だと証言してくださる、という面もあるのです。

 この聖霊は、主イエスを信じる者の側にいて信仰を支え、助けてくださいます。しかしこの後の主イエスの御言葉をみると、私たちの考える弁護者とは一寸違って、罪について、義について、裁きについての世の誤りを明らかにすると言っておられます。私たちのことを弁護する方ですが、その仕方は、世の誤りを明らかにする、というものです。つまり、弟子たちは主イエスに従ってきて、それゆえに迫害もされる。そして会堂から追放されるばかりでなく、殺される者さえいます。しかしそれは弟子たちが間違っていて悪いからではなくて、世が誤っているからだ、ということを明らかにされるのです。


  3.罪と義と裁きについての証し

 では、罪について、義について、裁きについて聖霊のなさることはどのようなものでしょうか。まず罪についての世の誤りとは何でしょう。この世では、たとえ被告人が実際に罪を犯していても、証拠不十分で無罪が確定すれば、その人は社会的には無罪で、罪人とはみなされません。しかし神の前では違います。たとえ人の世の裁判では無罪とされても、人は神の前に罪を言い逃れることはできません。

 また、神は人の心の奥深くを見られます。表向きは神に従っているように見えても、それが見せかけなら神の前には明らかです。また、罪はすべて神に対するものです。人に対して、盗みや傷害事件を起こしたことも、損害を与えたこともない、という人は多いでしょう。しかし、神の前ではそれが判断基準にはなりません。そして主イエスは、人々が御自身を信じないこと、それが罪だと言われます。イエスを信じた人には罪がなく、イエスを信じなかった人は罪がある、というのではありません。全ての人は神の前に罪があります。しかし神はそれを取り除き、赦すために神の御子イエスをこの世にお遣わしくださいました。それを信じず、受け入れないで貫き通すなら、神の前での罪が残ってしまいます。唯一の罪の赦しの道を自ら閉ざしてしまうなら、罪は残ります。それゆえ、イエスを信じないこと、それが罪である、と言われるのです。

 次に義について。これは神の前に有罪とされることの反対で、正しい者とみなしていただけることです。それはつまりイエスを罪の赦しの道として信じることですが、それは、イエスが十字架の死後復活し、天に昇ることによって完成します。父なる神のもとにイエスが行かれ、もはや弟子たちもイエスの姿を見られなくなります。しかし、主イエスが父のもとに、つまり天に昇られるのは、地上での救いの御業が完了したということです。それによって私たち罪ある人間の罪の贖いが成し遂げられました。人間の義とは、神の御子がこの世に降って来られ、私たちの代わりに罪の償いをしてくださったからこそ獲得できるからです。人がこの世でどれだけ善い業をしたかによってではなく、罪のない神の御子が私たちに代わって勝ち取ってくださった義こそ、神の前でも有効なものなのです。

 最後に、裁きについて。裁きというと裁判所で行われるものという印象が強いです。しかしここでは神の法廷が考えられています。そして裁かれ、断罪されるのはこの世の支配者です。と言っても、この世界で力を揮っている国家権力者のことではなく、既にこの福音書でも登場している悪魔、サタンのことです。最初の人アダムとエバが神に背いたのは悪魔の誘惑によるものでした。悪魔は、世に登場された神の御子イエスにも誘惑をしかけ、神に背いて自分を拝ませようとします。それは思い通りにはなりませんでした。更に悪魔は十二弟子のユダの中に入り、イエスを裏切る思いを抱かせ、まんまとイエスを当局者たちの手に引き渡すことになります。悪魔にとっては、イエスがこの世で救い主としての務めを全うしてもらっては困るわけです。悪魔はとにかく自分も神に背き、人間も神に背かせ、神の御計画を邪魔するのがその本性だからです。だからイエスによる救いの業は阻止したいのです。だから十字架で殺してしまえるのは都合のよいことです。しかし、イエスが十字架で死ぬことは悪魔の策略に負けたのではなく、却って人の罪を償うことになるのであり、死に勝利されるイエスは罪をもたらした悪魔にも打ち勝っておられます。悪魔はその企てを実現することはできません。そして神の御前にやがて断罪されます。

 それらのことを神のもとから来られる弁護者、真理の霊である聖霊が明らかにされます。だから私たちは、生まれながら罪の中にある人間の考えではなく、イエスの御業を悟らせてくださる聖霊によることを知らねばなりません。罪の中にある人間は、神の救いの御計画を理解できません。聖霊の助けなしには悟れないのです。主イエスを信じる者は、既に聖霊の恵みの内にあります。だからイエスを肉眼で見られなくても、信仰によって見ています。そして、罪と義と裁きについて、聖書の示す理解を示される人の罪、正しさ、何が善であり何が悪であるのか、聖書による神の基準を示されます。この世界にあって、何をもって正しいとするのか、何が悪なのか。これは人類が長年にわたって追求してきたことです。私たち人間の知識は限りがあり、頼りないものです。学問の進歩もまた実は神の恵みの一端ですが、やはり私たちは聖書によってこの世界、人間とは何か、正しいこととは何かを知るのです。私たちは天地を造られた主なる神から来る知識、善悪の判断、正しいこととそうでないこと。それらを聖書から教えられるのです。もちろん、クリスチャンになったら直ちに次の日からそうなるというわけではないにしても、この世に押し流されることなく、神の御心を聞き分けるように導いていただけます。それを今日、日々祈り求めましょう。

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