「神の永遠の計画」2022.11.27
テモテへの手紙二 1章1~18節

 今日は、この手紙から、神には永遠の御計画があることを教えられています。私たちもこの世の生活において、いろいろな計画を立てます。計画倒れという言葉もありますが、人間の場合は、どれほど綿密な計画を立て、お金をかけて、優秀な人材を用いたとしても、絶対に成功するという保証はありません。それでも人は、何かを計画し、それを実行しようとします。それはある面、天地の創造者である主なる神が、この世界に対する御計画をもっておられて、その神のかたちに似せて造られている人間は、それを映し出すかのように、計画を立てるのであると言えます。今日は、神の御計画とはどのようなものであるのか、教えていただきましょう。


  1.私たちの救い、聖なる招き

 使徒パウロにとって、この手紙の受取人であるテモテは、愛する弟子であり同労者でした。まだ若いテモテに対して、パウロは手紙を書いて必要なことを教え、励まし、祈っています。テモテには純真な信仰が宿っている、とパウロは書きます。その信仰はまずテモテの祖母ロイスと母エウニケに宿りました。信仰は、神から与えられて私たちの内に宿っているのだ、ということを私たちもまたよくよく覚えておきたいものです。

 パウロは、テモテが若い牧者、伝道者として苦労していることを知っています。テモテは、涙を流さざるを得ないほどの悲しみや、苦しみを味わっていたのでした(4、8節)。主イエス・キリストによって使徒として立てられたパウロでしたが、彼は誰よりも多くの苦しみを経験した伝道者でした。だからこそ、テモテの苦しみも手に取るように分かったと思います。自分と一緒に神の力に支えられて福音のために苦しみを忍んでほしい、と願っています。この苦しみは福音宣教に必ず伴ってくるものであって、何の苦しみもなしに宣教に当っている伝道者など一人もいないとさえ言えます。しかし、神がその力によって支えてくださる。このことを私たちは大変重みのあることとして受け止めるべきです。神の力に勝るものがこの世にあるでしょうか。神の力、それは天地をも創造することのできる力です。主なる神はその御力を、造られたすべてのものに対して行使することがおできになりますが、天地創造の後は、お造りになったものにいろいろな知恵や力を授けられました。そしてある程度それらに自由を与えたり、物理的な法則を与えたりして、規則的な運動をするようになさいました。そして、特に人の心に働きかける力によって助け導いてくださいます。

 パウロはコリントの教会に書きました。並外れて偉大な神の力によって、「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」と(Ⅱコリント4章8、9節)。ですから、この苦しみはただ耐え忍んで我慢するだけのものではなくて、滅ぼされない、ということが明らかになっている、神の保証付きの苦しみです。

 その苦しみはついてくるのですが、神は聖なる招きによって信じる者たちを呼び出してくださったのでした。呼び出す、というのは罪を犯して堕落し、神に背く歩みに染まっていた中から呼び出し、神に立ち帰るようにと呼びだしてくださったのです。これはウェストミンスター小教理問答にある言葉で言うと、有効召命と呼ばれるものです。ウ小教理問答の問31の最初の引照聖句は、このテモテへの手紙二の1章9節です。ここで、私たちを救い、呼び出してくださったという順序で書かれていますが、救うことの中に呼び出してくださったことが含まれているという意味です。そしてその根拠は私たちの行いではなく神御自身の計画と恵みです。


  2.神の計画と恵み

 神の御計画と恵みによっていますから、揺るがない確かな根拠があるのです。私たちの信仰による良きわざとか、強い意志とか、信念などではなく、神様の側に根拠があるので私たちはそこに委ねていることができるのです。

 これは本当に感謝すべきことです。私たちが救われるかどうかは、私次第である、私が信仰の道を完全に歩み通したなら、最後に救いが与えられるというのではありません。しかし、パウロはこの手紙の後の方で、自分は信仰の道を走り通し、今や義の栄冠を受けるばかりであると言っています(4章7、8節)。それは、神の御計画の内に置かれた人間がそれを自覚し悟りつつも、その神の御心に答え、感謝し、より頼みつつこの世での一生を歩み通した時に言う言葉です。それまでは救いが与えられるかどうかわからないけれど頑張って来たというようなことではありません。約束された救いを、約束のとおりに受けられるその時が来た、ということをパウロは言っているのです。

 そしてこれは恵みです。恵みであるということは、神の贈り物であり、無償で受けられるものなのです。だから私たちの側からの代償は要りません。代償は神自ら、その御子によって支払ってくださいました。そして恵みを施してくださるということは、神の思いが込められているわけです。私たちが代金を支払って何かを手に入れようとする時、それが必要だからお金を払って買います。しかし、食糧や道具や材料として必要だから買うのであって、そのものに愛情を抱いて買うわけではありません。もちろん、ペットとする動物を買うなどというのは違うかもしれませんが。主なる神は、被造物である私たち人間に対して恵み深い御心をもって救うために呼び出してくださいました。


  3.救い主イエス・キリストの出現

 天地の主である神が恵みをもって御計画なさったことは、時至って実行に移されました。それはまず、神の御子であり、私たちのための唯一の救い主として立てられたイエス・キリストがこの世に出現されるということの中に最高に現されました。今日、私たちはアドベント(=待降節)を迎えました。救い主イエス・キリストの御降誕を祝い感謝する待降節の最初の日曜日です。キリストは人間となられ、私たちと同じように赤ん坊としてマリアからお生まれになりました。そしてマリアとヨセフの家庭でユダヤ人として育ちます。この救い主が十字架にかかり、死ぬことによって私たちの罪の償いが神の前になされました。神に対する罪の結果、人は死なねばならなくなりましたから、その死というものが滅ぼされない限り、私たちには永遠の命などありません。しかしキリストの十字架の死と復活により罪の結果である死が滅ぼされました。それは主キリスト御自身と使徒たちの福音宣教によって明らかになったのです。私たちは、世界がこのような神の御計画のもとに成り立っており、今に至るまで進んできていることを知らねばなりません。キリストの出現は神の御意志によるものです。この世界にただ一度だけ現された神による救いの御計画が完成に向かって大きく動き出したのが、このキリストの出現であり、ご降誕であったのです。

 そしてパウロは、自分とテモテが召し出されてその務めについている福音宣教についても語り始めます。キリストによる救いの福音は、人間から出たものではなく、神がこの世に住む人間に与えようとして告げ始められたものです。神はこの福音を世界中に告げ広めるために、人間の働きを用いるようにされました。このパウロ、テモテ、そしてそれ以来立てられ続けて来たすべての福音宣教者たちを神はお立てになったのです。

 最後にまだ触れていなかった一つのことをお話しして終わります。神が私たちを救おうとしてお立てになった恵み深い御計画は、永遠の昔にキリスト・イエスにおいて私たちのために与えられていたという点です。私たちが影も形もなかった時に、既に神の恵みは私たちに与えられていました。永遠の昔に与えられていたこの恵みが、後になって取り消されることはないのです。神が御計画された時には、救いを与え、永遠の不滅の命を与えようとしていたのに、実際この世に生まれてきてみたら恵みに価しない者となってしまったので、神は私たちから恵みを取り去るのでしょうか。元々、私たちは初めから神の恵みに価するほどの者ではありませんでした、それにも拘らず神の一方的な恵みが注がれていたのです。このように神が永遠の昔に与えられた恵みは、私たちの行い次第で計画が変更されたり、恵みに値しないので取り消されたりしません。これは本当に有難いことです。神は私たちの行いではなく、唯一点、神の御子イエス・キリストの行いを見ておられます。キリストの行いは、すべて神の御心に適うものでしたから、神はその御計画を予定通り実現され、罪人の私たちを招き、救うようにされました。神の御子キリストが神の恵みに値せずに御計画を完全に遂行できないということはなかったのでした。それによって私たちに救いがもたらされたのです。

 私たちはこの世で、いろいろなことに不安になります。自分の健康、寿命、今後の生活や仕事など。私たちが弱さをさらけ出すのは、神の御子キリストではなく、自分とその周りばかりを見始める時です。神の恵みにより頼まない所では常に不安と頼りなさと、無力さが伴います。今、ますます混迷を極めるこの世界にあって、唯一つ、確実なもの、唯一人確実に救いの御計画を実行し完成できるお方、唯一の真の神に信頼し、その神が出現させてくださった救い主イエス・キリストに心からより頼みましょう。

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