「神が命をくださる」2018.9.16
 詩編 71編1~24節

 今日は、礼拝後に敬老感謝会を行います。それで、主の前に生きる私たちは、改めてこの世の人生、あるいは老い、と言ったことについて御言葉に聞きたいと思います。何歳であろうと、私たちはそれぞれ主からいただいたこの世での人生を生きております。そのことを覚えつつ、旧約聖書の詩人の書いたこの71編から、私たちの主の前に生きる姿を知り、私たちも同じ信仰に立って歩みたく願います。

1.主に寄りすがる歩み
 この作者は、悪事を働く者、不法を働く者によって脅かされ、悩まされていたことがわかります。聖書を読んでいるとわかることですが、神を信じ、神を畏れて生きている人は常に順風満帆で何も問題が起こらないというようなことは全くありません。神を信じて生きていたら、何の困難も苦しみも悩みもない、というのは幻想です。そうではなく、たとえそういうものがあるとしても主なる神はその中で信仰者を支え、助け導いてくださる、というのが真実です。それがこの世で私たちに与えられた人生の歩みであります。
 この作者は、自分は若い時から主により頼んできた、と言います。しかも、若い時どころか母の胎にある時から寄りすがってきたのでした。当然のことながら私たちは母親の胎にある時など、自意識があるわけではありませんから、意識的に寄り縋ってきたはずはありません。ここは、自分がよりすがってきたというよりも、母の胎にいる時から主が支えていてくださったという意味の私的な表現と言えます。
今日の私たちはこの詩人の時代に比べればはるかに医学が進んだ時代に生きています。いつでしたか、テレビ番組で、胎児がどのように母親の胎内で成長してゆくかを映像で見てゆくような番組がありました。とにかく、はじめは目に見えないほどの小さな塊が段々と細胞分裂して人の姿になってゆくというのは実に神秘というしかありません。人はその仕組みを真似して作ることはできません。神がお造りになった仕組みの通りに進んでゆくのを待つだけです。しかし、どんなに科学が進歩していてもいなくても、人が母親のお腹から生まれてくることの不思議さを考えるならば、私たちは神の素晴しい創造の御業に思いを馳せることができます。神を信じる者は、それは神の素晴しい御業であると言います。素晴らしい仕組みを神はお造りになって、人の力の及ばない所でその力を発揮され、人の姿形が出来上がってくるのです。
 それゆえ、作者は主を讃美します。しかも常にです。そのことは、この人の周りの人にも影響を及ぼしてきました。「多くの人はわたしに驚きます」(7節)。ここはどのように解釈するか、多少分かれるところですが、悪事を働く者や不法を働く者が彼を苦しませても、彼は決して潰されることなく、主に寄り縋って生き長らえている。神がすぐに助けてくれないように見えても、神を信じる信仰を捨てようとしない。それは驚きである、という意味に理解しておきましょう。確かに、信仰者の姿は、神を信じない人から見れば驚きであったり、謎であったりすることがあるのではないでしょうか。とことん主に寄り縋る信仰は、それだけでも周りの人たちに、主の存在と力とを示していると言えるのです。何だってあの人はイエス・キリストを信じて生きているのだろうか、と。

2.数えきれない神の恵み
 この作者は、次に9節から19節のまとまりの中で、老いの日にも見放さず、捨て去らないでください、と主に訴えています(9節)。18節でも同じことを繰り返します。なぜかといえば、先ほどと同じように彼の命を伺う者がいて、神は彼を助けることなどないと言っているからです。たとえ神に逆らう者がそういうことを言ったとしても、彼は神を讃美します。なぜでしょうか。それはこれまで生きて来た信仰の歩みを振り返る時に、神の恵みは語り尽くせないし、若い時からずっと神は自分を教えてきてくださったからです。そのことを思えば、神に造られた被造物に過ぎない者が、神などいない、神の助けなど期待できない、だから神を信じている者を苦しめてやろう、と言っても恐れるに足りないと言えるのです。
 そして、彼はその神の恵みについて自分の心の内だけにしまっておくのではなくて、今に至るまで神の驚くべき御業を語り伝えてきた、と言っています(17節)。そしてそれだけではなく、次の世代にも語り伝えさせていただきたいとも願っています(18節)。語り尽くすことはできないけれども、語り伝えたいのです。私たちはどうでしょうか。次の世代に語り伝えるということはなかなか簡単ではないかもしれません。しかし、一人の信仰者が神を信じ、イエス・キリストを救い主と信じてその一生を全うすることができるなら、それは即ち次の世代に神の御業を語り伝えることになるのです。
キリスト教会の葬儀に参列すると、プログラムに故人の略歴が記されます。人によっていろいろで、詳しい経歴が書かれる場合もあれば簡潔な場合もあります。どちらにしても、誕生、そして洗礼を受けたことが必ず出てきます。文章にすれば数行で終わるとしても、その中味はその人の一生の中で主が恵みを注いでくださったことが証しされています。それもまた、次に世代に語り伝えることであります。一人の人が主イエスによって救われ、信仰の道を歩み通してこの世を去ったなら、それは神の優れた御業のゆえであります。そのことを今改めて心に留めましょう。

3.主がくださる命の内に生きる
 最後に、20節以下に目を留めます。作者は、主が自分に多くの災いと苦しみを思い知らされたと言っています。思い知らせるというと、懲らしめるためのような意味合いに聞こえますが、主はご自分の民にどこまで苦しみや試練を与えるのがふさわしいか、最もよくご存じです。いわばその匙加減を誰よりも心得ておられます。その苦しみは、その人を恵みから蹴落とすためではなく、主がいなければ私たちは何もできず、主に寄り縋らなければ少しも進めないものであることをよくよく私たちが悟るためなのです。
 20節で作者は、主は再び命を得させてくださる、とか再び深い淵から引き上げてくださる、と言っています。一度死んだかのような、二度と這い上がれないような淵に落ち込んだかのような経験をしたからこそ言える表現でしょう。確かに私たちは、主が引き上げてくださらなければ死んだも同然のものでした。それを再び生かしてくださるのが主です。新共同訳では、21節で、「ひるがえって」あるいは顧みて、振り向いて「わたしを力づけ」てくださる、と訳していますが、「慰めてくださる」とも訳されます。ここで作者は、得させてくださるでしょう、引き上げてくださるでしょう、大いなるものとしてくださるでしょう、とすべて未来のこととして語っています。信仰は、今主が助けてくださることだけではなく、今後のこと、未来のことも主にゆだねます。今は助けてくださるが将来はわからない、などということではありません。私たちは、過去に神がなさったことだけでなく、将来のことも同じように確実に神が実現なさる、と信じているのです。神がキリストによって永遠の命をくださり、栄光の神の国へ導いてくださると。
 私たちには、主なる神の約束が真実であることが、主イエス・キリストのご生涯、特に十字架と復活において証しされています。主の恵みと慈しみと真実は、私たち一人一人の人生において明らかになる前に、神の民であるイスラエルの歴史において、そしてイエス・キリストの地上での歩みにおいてまず示されました。聖書に記されている御業をなさった方が、今もまた将来も、私たちに対して御業をなしてくださいます。この世では生きている限り、苦しみや困難や試練はつきものです。しかし主は永遠の命を得させてくださる。顧みて、振り返って私を力づけ、慰めてくださいます。私たちもこの詩人と共に、「あなたが贖ってくださったこの魂は、あなたにほめ歌をうたいます」と言って神に讃美を献げましょう。

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