「人を生かす命のことば」2018.11.11
 エフェソの信徒への手紙 4章25~32節

 私たちは日頃、多くの言葉を聞き、語り、あるいは読み、書いたりしています。言葉は情報や意思の伝達手段ですが、それだけではなく、ものを考える時の道具でもあります。いろいろな言語が世界中にありますが、私たちは幼い頃から言葉を少しずつ覚えて、そしてやがて社会でも使えるようになってきます。いつの間にか言葉を使えるようになってきてそれが当たり前のようになっていますが、私たちに与えられている言葉、というものは本当に私たちに大きな影響を与えてきているものだと言えます。影響どころか、それによって私たち自身がつくりあげられてきている、と言えるかもしれません。先ほど朗読した聖書の箇所には、「聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」(29節)という教えがありました。今日は、この言葉を中心に、私たちが聞き、語る言葉について学びたいと思います。

1.その人の生き方を表すことば
今日朗読した聖書箇所では、真実を語りなさい、とか日が暮れるまで怒ったままでいてはなりません、とか、盗んではなりません、という戒めが与えられています。そういう一連の教えの中に、「悪い言葉を一切口にしてはなりません」という戒めがあります。
私たちはいろいろな種類の言葉を日々語り、聞きます。人を教え、諭し、戒める言葉。ほめたり、賞賛したりする言葉。けなしたり、侮辱したり、人を貶める言葉。単に事実や情報を伝えるだけの言葉。自分の気持ちを伝える言葉、等々です。そういういろいろな言葉がありますが、たとえば子供が、普段からけなされてばかりいたり、侮辱されてばかりいたりしたら、おそらく相当に委縮してしまい、ストレスがたまり、人格形成にも大きな悪影響を及ぼしてくるであろうことは容易に想像がつきます。よく、ほめて育てろ、ということを聞きます。もちろん、ただ褒めるだけではなくて、必要な時には叱り、戒めなければ、子どもはやはりちゃんと育たないということもあろうと思いますが、ほめることは、その人を認めてあげるということにつながるので、特に子供には大事なことだと言えるでしょう。
しかしながら、私たちはなかなか自分の発した言葉が相手に与える影響を予めよく把握することができません。子供を育てようというときに、言うべきでないことを言ってしまったり、家族に対して言わなくてもいいことを口走ってしまったり、ということがしばしばあるのが私たちです。ずっと黙っていれば、問題は起こらないかというと、そうでもなく、私たちは意思表示をしないでは、無人島にでもいない限りは生きてゆけません。ですから、私たちはいずれにしてもこの世に生きている限りは、それがどのような影響を他者に与えているかはすぐにはわからないけれども、何らかの言葉を毎日発しながら生きているわけです。そして、その人の口から出て来る言葉は、その人がこれまで受けて来たもの、生きてきた生き方、それらを映し出していると言えます。

2.聞く人に恵みが与えられるように
 そういう私たちに対して、聞く人に恵みが与えられるように語りなさい、と命じられています。聞いている人に恵みが与えられるとは、どういうことでしょうか。すぐ後に、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を語れ、と言われます。ですからこの二つのことは強く結びついています。
 恵みとは、無償で与えられるものですし、受けた人が喜んだり、有益なものとして受け取るのでなければ、恵みとは言えないでしょう。また、聞く人を造り上げるのに役立つ言葉。これも簡単なことではありません。しかもどんな風に作り上げるかが肝心ではないでしょうか。どんな人に造り上げるのか。私たち自身、自分がどんな風に造り上げられているのか、甚だ心もとない気がいたします。つまり、私たちは、自分の中から、あるいは自分を基準として、人を造り上げるような良い言葉や、人に恵みを与えられるような良い言葉を語る力などない、と言えるのではないでしょうか。私たちはいろいろな言葉をいろいろな人から聞いたり教えられたりして自分の中に取り込み、更に自分なりに考えたりもしますが、一人の人を造り上げる言葉など、元々持っていないのです。それでも、今日の朗読箇所では、この手紙を書いたキリストの使徒パウロは、そのように命じています。
私たちも人の益になる言葉をある程度語ることはできます。同情して慰め、励まし、力づけ、叱り、戒め、諭す、といったように。聞いている人が良い方へ進んでゆけるような手助けをすることも時にはできます。しかし、やはり先ほど言いましたように、人を造り上げる、ということになると、これは簡単なことではありません。
 では、どうしたらよいのか。人を造り上げるのに役立つ言葉を、私たちは神からいただきますそれによって初めて語れるのです。ですから、私たちは、まず神の言葉、私たちを造り、命を与えてくださっている神の言葉を聞かねばなりません。

3.人を生かす命のことば
 私たちに与えられている神の御言葉は、私たちにちょっとした人生のヒントを与えたり、気の利いた言葉を与えたり、耳ざわりの良い言葉を語ったりするという程度のものではありません。今、世の中には実に多くの本が出回っていて、新聞の下半分によく公告が載っています。あなたを変える何とかの言葉、といった題名をよく耳にします。そういう本を実際読んだわけではありませんが、ちょっとした人間関係の潤滑油のような役目の言葉とか、気持ちの持ちようが変わるようになる言葉とか、いろいろあります。そういう類の言葉もそれなりに私たちの人生の役に立つ面はあるのかもしれません。しかし、その言葉を読んだり、聞いたりした人に命を与える、本当の意味で生かす、という言葉は、人からは出てこないのです。神のもとにこそ、私たちに命を与え、生かす言葉があります。
 私たちが人を造り上げるとしたら、どんな人に造り上げるのでしょうか。それすらわからないのが私たちです。学校ではいろいろな科目のもとに先生から教えられます。教科書には実にたくさんのことが書かれています。確かにそれらは、私たちがこの世を生きてゆくために必要なことを教えてくれるでしょう。私は小学校3年生の時、少しの期間病気で休んだことがありました。後で担任の先生が個人授業で算数を教えてくれたことを覚えています。面積の単位についてです。アール、ヘクタール、平方キロメートルなどです。おかげで面積の単位のことはそれなりによくわかるようになりました。怪我の功名でしょうか。そういう面は学校教育にはあります。読み書き算盤を身につけるのは社会を生きてゆくのに確かに必要です。けれども最も大事なのは、人は何で生きているのか、何が原因で生きるようになっているのか。そして自分が生まれてきたのは何のためか。こうしたことに最も確かな光を与えてくれるのが神の御言葉です。
 「目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。それらを数えて、引き出された方 それぞれの名を呼ばれる方の力の強さ、激しい勢いから逃れ得るものはない」(イザヤ書40章26節)。キリストは言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(ヨハネによる福音書11章25、26節)。この聖書の言葉、キリストの言葉には、私たちを救い、真の命に生かす力があるのです。

コメント

このブログの人気の投稿

「聖なる神の子が生まれる」2023.12.3
 ルカによる福音書 1章26~38節

「キリストの味方」2018.1.14
 マルコによる福音書 9章38~41節

「主に望みをおく人の力」 2023.9.17
イザヤ書 40章12~31節