「人の理解力を超えて」2022.11.13
 ヨハネによる福音書 16章12~15節

 主イエスは、弟子たちに対して言っておきたいことがまだたくさんある、と言われました。それらを弟子たちは理解できませんが、主イエスが天に昇られてから送られる聖霊が来られれば弟子たちも悟ることができるのでした。主イエスは世の救い主として大変多くのことを語られましたが、これから先に世で起こること、信じる者たちに起こること、教会に起こる様々な問題への対処、そういうことについては全てを網羅してお語りにはなっていません。それらの必要なことに関しては、後に使徒として立てられたパウロなどが手紙で教えました。主イエスは当初、弟子たちにはある程度の必要なことだけを語られました。今日の私たちには既に真理の霊である聖霊が与えられています。その聖霊の恵みに信頼して、今、私たちも主の御言葉を悟らせてくださるように祈りながら御言葉を聞きます。


  1.人の理解力を超えて

 私たち人間は、この世界に生きている生き物の中で、最も賢いと言えましょう。それは一般的な科学の知識からしてもそうですし、聖書の教えを見てもそうです。人だけが神のかたちに造られ、道徳的規範を与えられています。しかし現代でも分からないことはたくさんあります。私たちはなぜこの世に生きているのか、神について、人について、この世について、これが正解だ、という答えを引き出せません。私たちは、人には理解できないことがあることを知ってはいますが、今に至るまで何かを探求し続けてきたのは、真理を捜し求めるように神がお造りになったからです。しかし、人は自力でその真理に辿り着けません。人は、自分は神によって造られた被造物であり、神によって知恵を与えられてはいるが、不完全なものであることを認めて、へりくだることが必要なのです。

 一人一人によって理解力は違いますが、イエス・キリストを信じるにあたって、最も大事なこと、信仰と救いに関する大事なことを聖霊が理解させてくださるのです。それはただ長年学べば習得できるというものではなく、主イエス・キリストが十字架で死なれたことは、私たち人間の罪のためであって、私たちのために、私のために罪のない神の御子が十字架で御自身を献げてくださったことによって罪の赦しと救いが与えられる。これを悟らせていただける、ということ。これが中心にある真理です。そしてこれは人の生まれながらの理解力を超えて与えられます。


  2.真理をことごとく悟らせてくださる

 しかし、このような私たちに人間に対して、真理の霊が来られると、私たちを導いて真理をことごとく悟らせる、と主イエスは言われました。ここで言われる真理とは何でしょうか。例えば万有引力の法則があります。有名なニュートンが発見した科学的な真理です。ガリレオが示した地動説についても、同じことが言えます。辞書によれば、真理とは「確実な証拠に基づいて、普遍的に正しいと認められる事柄」です(明鏡国語辞典)。単純には「本当のこと」という説明もありましたが、例えば、私がこの町に住んでいることが事実だとしても、それを真理とは言わないでしょう。やはり、何かとても大事なこと、人間にとって共通の普遍的なことについての正しい事柄でしょう。

 ここで主イエスが言われたのは、科学的な法則についての真理ではなくて父なる神とその御子イエス・キリスト、真理の霊である聖霊御自身についてであると言えます。ですから、真理をことごとく、というのは世の中にある様々な真理のすべてについてそれを悟らせるということではありません。クリスチャンになったからと言って、科学的真理に精通するようになるわけではありません。しかし神様という方については、人から出たのではない知識を授けていただけるのです。もちろんそれは私たち人間が知るべき限りのことであり、永遠からおられる存在の神様について、必要なことを悟らせてくださる、という意味です。クリスチャンになったからといって、信じたその日から、聖書の全体を十分に理解し、或いは牧師が講壇で語るように理解できている、というようにはいかないでしょう。

 そして悟る、ということはその内容がわかり、受け入れることです。悟って受け入れ、それに従って歩みだすことです。特に聖霊が悟らせてくださる真理とは、この世界には唯一の神がおられ、全てを造り治めておられること。その唯一の御子イエス・キリストが私たち罪ある人間の救い主として人となってこの世に降ってお生まれになり、十字架の死と復活によって信じる者たちの罪を赦し、救いを与えてくださること。イエスが復活されたように私たちにも復活の希望が与えられていること。そして神の国が完成して栄光の御国へと私たちを入れていただけること。そしてそれらは父、子、聖霊なる神によってなされるということ。これらの一連の事柄です。これらを悟るというのは、信仰によって受け入れて、そしてそれに沿って生きることです。


  3.これから起こることも聖霊が告げてくださる

 聖霊は、そのように神様について、そして私たちの救いについての真理を教えてくださるのですが、それだけではなく、これから起こることも告げてくださいます。私たちがこれから先起こることを教えてもらえる、と言われたら、まず何を知りたいでしょうか。それは人によって、また置かれた状況によって違ってくるでしょう。人によっては、これから先の自分の身や家族、健康などについて知りたいと思うでしょう。或いは世界情勢、戦争や感染症がいつ収まるのか。これを知りたい人も多いでしょう。さらに、この世界はどうなっていくのか。地球や宇宙の存在はどうなるのか、等もあるでしょう。

 ここで聖霊が告げてくださるこれから起こることとは何でしょうか。まず、個々人の未来について聖霊が告げる、ということではありません。そういう事実は信徒たちの間にありませんでした。そうではなく、教会について、福音宣教の結果世界がどうなってゆくのか、この世が最終的にはどうなるのか。そういうことについてです。先ほど既にお話ししましたが、栄光の神の国が完成すること、私たちも主イエスと同じように復活させていただけること。これらは確かに主イエスが既に語られたことではありますが、聖霊は更に使徒たちを通して、それを詳しくお告げになりました。世の終わりにはどういうことが起こるのか、と。

 たとえば、神に対する反逆が起こること、自分こそは神であると宣言する者が起こること、また、サタン=悪魔の働きによってあらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業とを行う不法の者が現れ、滅びてゆく人々を欺く、といったことをパウロが書いています(Ⅱテサロニケ2章3、4、9、10節)。また、終わりの時には信仰から脱落する者さえいます(Ⅰテモテ4章1節)。世の終わりの時には真の信者とそうでない者がはっきりと分かるようになる、ということです。同じくテモテへの手紙の二にも詳しく記されています(3章1節以下)。このような箇所を読むと、もうその終りの時は始まっていると思えます。聖書の時代区分は、歴史の教科書のような書き方はされていませんが、実は今既に終わりの時に入っている、と言えるのです。そして聖霊はこれから起こることを告げる、と主イエスは言われましたが、世の終わりの時、主イエスが再び世に姿を現されるその時は、隠されています。それは聖霊もお告げにはなりません。ですから、私たちは聖書を通して、何は告げ知らされていて、何は隠されているのかを見分けていく必要があります。主イエスは、目を覚まして祈っていなさい、と言われましたから、私たちにとってまず大事なのは、これから起こることを知ろうとして先のことばかりに目を向けるのではなく、今、置かれているそれぞれの状況の中で祈り、既に語られている神の御言葉にしっかりと立ち、人を惑わす様々なものに振り回されないことです。

 そして最後に大事なことが一つあります。聖霊が告げることは、主イエス・キリストに栄光を与えるという道を辿るという点です。だから、例えば誰かが、私は聖霊のお告げを受けてこういうことが起こる、と予告したとしても、それが主の民によって神と主イエス・キリストへの讃美に至らず、栄光を帰するようにならないなら、それはその人が勝手に言っているだけのことだ、と言えます。では、神とキリストへの讃美が生じるならそれは聖霊のお告げだったのか、ということになりますが、神への讃美は、日頃から礼拝においてなされており、聖書の御言葉の説き明かしによって起こっています。ですから、教会では何か新しいこと、具体的にどこそこの教会でこんなことが起こる、という予告めいたことを言わなくても、聖書に記された神の御言葉にまずよく聞き、そして時代と様々な環境や状況の中で信仰によってどう対処すべきかを祈りながら尋ね求めてゆくのです。

 聖霊は、主イエスのものを受けて弟子たちに告げる、と言っておられるのですから、主イエスが言われたことを私たちが良く聞き、なさったことをよく知って信じ従うことが大事なのです。目に見えない神についてのこと、これから先に起こること、それらのことは私たち人間の理解力を超えています。しかし、人間の言葉で語られているのですから、聖霊によって受け入れることができます。真理の霊である聖霊の恵みに謙虚に信頼し、告げられている御言葉に聞き、主の栄光を現してゆけるように祈りましょう。

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