「イエスはあなたを友と呼ぶ」2022.10.9
 ヨハネによる福音書 15章11~17節

 救い主イエス・キリストは、御自身をぶどうの木にたとえ、主イエス・キリストを信じる者たちをぶどうの枝にたとえられました。そして、いつも葡萄の木につながっていなさい、と弟子たちにお命じになりました。それは今日、こうして教会に集い、主イエス・キリストの御言葉を聞いて信じる者たちに同じように言われていることです。それは、言い換えれば主イエスの愛にとどまることでした。主イエスの愛にとどまるとは、その御言葉を信じ、より頼み、私たちのために十字架に架かってくださったその愛を感謝して受け止め、その愛による救いの御業により頼むということです。何をなすにも主の助けと導きを信じて歩み続けることです。そして、この後に言われているように、互いに愛し合うという掟を守ることです。


  1.主イエスが与える掟

 主イエスは、御自身の喜びが信じる者の内にあり、その喜びが満たされるためにこれらのことを話した、と言われます。主イエスのこの後の歩みは、十字架に向かいます。そして処刑されることになります。それは弟子たちからすると悲しいことこの上もありません。神の御子として世に来られ、神の御言葉を語り、神の力によって素晴らしい奇跡を行い、病人を癒してくださっているイエス様が捕らえられ、殺されてしまうことは、大変な悲しみを弟子たちにもたらすことになります。そのことを主イエスはご存じでありますが、それを見越した上で、信じる者たちに喜びが満たされる、と言っておられるのです。今は、弟子たちにはそれは分からないことでしょう。しかし後になって分かるようになります。これは今日の私たちも全く同じであって、主イエスに従っていく歩みを続けてゆく中で、先々の不安を感じることもあり、いつも喜んでいなさい、と言われるものの必ずしもそうできない自分がいます。しかし、それでも主イエスについて行く時、必ず喜びに満たされるということ。その信仰に私たちがしっかりと立てるように、主イエスはこの後のことを語っておられます。

 先ほどふれました主イエスの掟とは、イエスが私たちを愛してくださったように、私たちも互いに愛し合うというものでした。大事な点は、主イエスが愛してくださったように、です。世の中にはいろいろな関係がありますが、それぞれの関係の中で、互いに愛し合っている、という状況はあるでしょう。しかしそれが永久に続くかどうかは分かりません。今はそうでも、来年になったら愛が覚めているということすらあり得ます。多くの場合はその愛が持続されているかもしれませんが、人の愛は頼りないものです。私たちも自分から出る愛は頼りないものであることを思います。しかし、その頼りない私たちに、主イエスが愛してくださったように愛し合いなさい、と命じられています。

 つまり私たちは不完全なものですが、その道に入って行けるのです。しかしその愛とはどれほどのものかというと、人が友のために自分の命を捨てることである、と言われているのです。

 さて、一体この世で最も大いなる愛とはどのような愛でしょうか。しばしば言うことですが、母親の子供に対する愛は、これは大変に強く大いなるものだと思います。しかし主イエスが言われるのは母親や父親の子どもに対する愛ではなく、友に対する愛、しかも友のために命を捨てることだと言うのです。親が子どもを愛するのは、もちろん例外もあるかもしれませんが、ある意味では当たり前のことです。赤ん坊の時から四六時中面倒を見て、育てて来た子ども。何よりも自分の子どもだから、というだけでその愛は子どもに向けられます。

 しかし友に対する愛は少々違います。肉親ではないので当然血のつながりがない相手を愛するかどうかが問われます。肉親だからではなく、主イエスが愛されたように愛するかどうか。それはつまり主イエスが私たちのためにその命を十字架で献げてくださったように、友のために自分の命を捨てることができるかどうか、ということです。


  2.主イエスが友と呼んでくださる

 主イエスは、ここで弟子たちに話しておられる時点では、まだ十字架に架かっていません。しかし御自身が十字架に架かることは分かっておられ、その上で語っておられると見るべきです。そしてこの主イエスの御言葉によると、私たちも主イエスのように友のために命を捨てるのでなければ、主イエスの友とはなれない、いうことになります。しかし、主イエスは弟子たちを既に友と呼んでおられます。父なる神から聞いた事を弟子たちに知らせたからだ、と。

 つまり、主イエスは弟子たちが御自身の命令に従ったかどうか、それを確かめてから御自身の友なのかどうかを判定しようとしているのではありません。そうではなくて、今ここで、御自分の言葉を聞いている者たち、即ち主イエスに付き従っている者たちのことを友と呼んでおられます。これは本当に感謝すべきことです。主イエスが何をされる方なのかを知る者、天の父なる神の御心を知らせていただいた者は、友と呼んでいただけるのです。そうでなかったら、友のために命を捨てるほどの愛を持っている人などいないかもしれません。そうです、それをしてくださったのは、救い主イエス・キリストだけだと言ってもよいからです。主イエスは文字通り友のために命を献げてくださるお方です。それに対して、弟子たちそして今主イエスを信じる者たちに対しては、命を献げたかどうかで友と呼ぶかどうかを決めるのではなくて、イエスの御言葉を聞き、父なる神の御心を受け止め、信じる者を友と呼んでくださいます。主が友だ、と言ってくださるのですから確かに友としていただいているのです。

普通、友というものは、対等な関係です。上下関係はありません。主イエスと私たちは、神の御子と人間。天地の主である方と、土から造られた者。つまり天と地ほどの隔たりがあるはずの関係であって、人間の上下関係どころの話ではありません。それにも拘らず、父なる神から聞いた事を皆知らせてくださる。それが友と呼ぶことの理由だと。私たちが主イエスの肉親だからではなく、兄弟関係にあるのでもなく、むしろ神に背いた罪人です。そういう者を罪から救うために御自分を献げてくださる。これはもう本当に大いなる愛がそこにあるとしか言えません。


  3.実を結ぶように選んでくださった

 それほどの主イエスの大いなる愛が私たちに向けられています。そして主イエスは更に大事なことを言われます。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と。ここでの選んだ、というのは使徒として選んだ、という見方があります。そうなるとこの御言葉はここでの12人、12弟子たちのことになります。確かに主イエスは12人を選び、使徒として任命されました。彼らは特別に主イエスから病気を癒し、悪霊を追い出す権威まで授かって宣教に出かけたこともあります(マタイ10章1節)。ですから、任命という以上確かに使徒としての選びではあります。しかしそれ以外の者にとっても、個々での主イエスの掟は聞くべきものとして与えられているのは明らかです。互いに愛し合いなさい、という戒めは、使徒たちだけに与えられたものではありません。今日の私たちも含めて、全ての主イエスを信じる者に与えられています。主イエスが御自身を献げられたのは、12弟子たちのためだけではありません。だから私たちも言って実を結ぶために選んでいただいている、と見る必要があります。

 使徒、宣教者という特別な任務に選ばれたわけではないので、自分はそんな大変な務めは出来ないというように決めてかかってしまったら、それは主イエスの御心とは離れてしまいます。逆に言うと、主イエスがその命を献げてくださって、イエスの友とされた者、イエスの父なる神の御心を知らされた者は、実を結べるようにされているのです。既に五節で言われたとおりです。主イエスにつながっているなら、自分で実を結ぼうとしてあくせくするのではなく主にゆだねることです。そして実を結ぶためには、主イエスの御名によって願うことによって必要なものが与えられることもまた約束しておられます。私たちは、その主の約束を信じているでしょうか。主が話された言葉に信頼を置き、その御力により頼み、そして互いに愛し合いなさい、という尊い戒めを行う者とさせていただくように祈り願いましょう。

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