「すべては神のものである」2022.10.23
 歴代誌上 29章10~20節

 すべては神のものである。神を信じるクリスチャンには、至極当たり前のことかもしれません。しかし、改めて聖書からこのことを学び、本当にそう信じてその信仰のもとに生きているだろうか、と私たちは改めて考えてみる必要があります。この信仰に立つ時、私たちのこの世での生活が、何に根ざしているのかもはっきりして来ます。


  1.私たちの持ち物とは何か

 小学校に上がったばかりの頃、学校から持ち物には名前を書くようにと言われたので、算数の道具だったでしょうか、とても小さなもの一つ一つにまで母が小さな字で書いていたのを思い出します。それ以前にも自分のおもちゃなどはありましたが、そのことが記憶に残っています。そんな小さなものから始まって、私たちにはどんどん持ち物が増えていきます。後に、アルバイトで測量のお手伝いをしたことがありました。土地の境界線を定めるために、土地の所有者が立ち会って、どこまでが誰の敷地、個々からは誰の土地、と確認することもありました。ある時、境界線がどこにあるかを確認するにあたって、とてもピリピリしているのを感じたことがありました。ほんの数センチでも、自分の土地は狭くしてもらっては困るからです。そしてそこには、自分のものは確保したい、譲れない、という人間の強い性のようなものを見た思いがしました。

 しかし、いくら人がそこは自分の土地だと言っても、元をたどれば先祖代々のものだったり、お金を出して買い取ったりしたものです。先祖代々地主だったとしても、先祖がある時にお金で買ったか、或いは力のあった先祖が自分のものとして宣言してきたのか、といったものでしょう。力で占領してか、お金で買い取ったか、そして先祖がそのどちらかで手に入れてものを受け継いだか、今日土地を所有している人も、それらのいずれかでしょう。今住んでいる土地を、自分の力で生み出し、造り出した人など一人もいるはずがありません。手に入れた方法はいろいろでも、人はただ、この広大な大地のほんの一部に住まわせてもらっているだけです。それなのに大自主ともなるとその地域では大きな顔をし、国家ともなれば領土確保や、拡張のためには相手を殺すことも厭わないのが現実です。

 私たちも、国家権力者でも大地主でもないとしても、やはり自分のものにはそれなりの執着心があり、これは自分のもの、しかも大事なものだから人には譲れない、なくしたら懸命に捜す、ということもあるでしょう。では、亡くしたものを懸命に捜すことは悪いのかというと、主イエスは、無くした銀貨のたとえで、銀貨10枚を持っている女の人がその一枚を無くしたとすれば、見つけるまで家の中を念入りに捜す、と言っておられます(ルカ15章8節)。つまりそれは人間としては当然のことだと言えるわけです。捜す、ということはそれだけ大事に思っているからで、それだけに見つけた時の喜びも大きいのです。しかし、それらはすべてもともと神からいただいてあずかったものである、というのが聖書の教える考え方です。


    2.神の御手から受け取って差し出しただけ

 さて今日の歴代誌上の朗読箇所は、ダビデ王が自分の息子のソロモン王が神殿を建てるために必要なものを準備するために、会衆を前にして語った言葉です。ダビデ王は、会衆にも献げることを求め、そして自分自身も多くのものを差し出しました。彼の信仰の根本には、すべては主なる神のものである、という事実がありました。ダビデは王としてイスラエルの上に立てられました。それまでには紆余曲折があり、厳しい環境の中をもくぐり抜けてきました。そういう中で、神によって助けられ生かされて来たという信仰がありましたから、今こうして王となって国に君臨してはいるものの、謙虚な姿勢を失ってはいなかったのでした。

 それゆえ、自分が王とされており、多くのものを与えられているけれどもそれは皆主なる神からいただいたものだ、と明言します。どれほどのものを神殿建築のために寄進したとしても、自分も、国の民もどれほどのものか、と自覚しています。全ては神からいただいたものであり、神の御手から受け取って差し出したにすぎない、と悟っています。これは今日の私たちにとっても全く同じことであり、この姿勢は、献金をささげる時の大事な心持ちです。献金は、もともと神のものをあずかっていて、その中から神にお返しして、直接の神の御用に用いていただくのです。その気持ちがない限り、どれほど多くのものを献金したとしても、或いは逆に金額を小さくして自分の生活には全然影響を及ぼさないほどしか献金しないとしても、本来自分のものなのに、神が用いるために取られてしまった、と思う気持ちがつきまとうことになります。ましてや今、世間を騒がせているある教団の、けた外れに高額の献金などは、脅されてか、不安にかられてか、感謝して喜んでの献金でないがために、また家族に迷惑を及ぼしても一向に構わないという姿勢のために多くの問題を引き起こしているわけです。

 天地を造られた主なる神が万物を支配しておられ、御心のままに人に分け与えておられます。たとえ人が一時権勢を揮い、土地を支配し、多くの民を治めていたとしても、それは神がそのように許しておられるだけのことで、その人自身の力によるものではありません。神はいかなるものでも大いなる者、力ある者となさることができるからです。

 ダビデがここで用意したものは実に大量の金銀などの金属と宝石類で、金は約100トン、銀は約240トンです。その他民が寄贈したものでは青銅約615トン、鉄約3,400トンです。3,000トンと言っても私たちはピンと来ませんが、船で言うと、全長110メートル以上の巡視船がそのくらいの重さだそうです。実に莫大な量の品が寄贈されました。しかしそれでも自分たちは何者でしょう、とダビデは言いました。


  3.すべては主なる神よ、あなたのものです

 ダビデはここで、少し悲観的に見える言い方をしています。自分たちは先祖代々神の御前では寄留民に過ぎず、移住者にすぎない(15節)。これは分かります。しかしその次に、「この地上におけるわたしたちの人生は影のようなもので、希望はありません」というのです。これは少々意外な感じがします。これはあくまでもこの世での人間の生活を、それだけで満たそうとしているなら、とでも言うような意味です。実際詩編にもありますが、旧約の聖徒たちは主なる神に望みをおいていたのです。「絶えることなくあなたに望みをおいています」(詩編25編5節)、と詩人は歌っています。表題によるとこれは「ダビデの詩」と言われています。必ずしもこの詩がダビデのものだとは言いきれないかも知れませんが、旧約時代の神の民は、確かに神に望みをおいていました。ダビデも実は神に望みをおいていることは、この歴代誌の祈りからも分かります。ですから、ダビデがここで希望はありませんと言うのは、人間の世界だけを見て、人間の人生そのものの儚さを頼りなさを言っているわけで、だからこそ神により頼むのです。実際、ダビデは息子のソロモンに、勇気をもって実行するように、神なる主は決してあなたを離れず捨て置かない、神殿に奉仕する務めをすべて果たさせてくださる、と信じているからです(28章20節)。これは主なる神に望みを置いている人の言葉です。ですから29章15節の言葉は、もし神を信じず、より頼まず、人間の力に頼っているだけなら希望はない、という意味です。ダビデはここでは人間の弱さ、儚さについて強調しているわけです。

 では、私たちは何と言えるでしょうか。主なる神に向かって、「すべてはあなたのものです」と言う時に、そこには当然自分も入っているはずです。わたしはあなたのものです、と言っているでしょうか。私たちが主イエス・キリストを信じて信仰の告白をするとしたら、それは、「主なる神よ、私はあなたのものです」と告白していることになるのです。また、自分以外のものもすべてが神のものです。まだ信じていない人も、この世にあって神の存在を認めない人も、すべては神のものです。本来、人間は神のかたちに似せて造られており、私たちの心は神に向かうべきものだからです。ダビデが祈っているとおりです。「民の心をあなたに向かうものとしてください」(18節)。

 人はこの世で自由に生きているように見えます。神を信じる者も信じない者も、皆同じように生きている、と見えます。この世では神の力に頼らないでも生きられる、と思っている人はいます。しかしそれは全く違います。神によらなければ誰一人生きていることはできません。人がこの世でこれは自分のものだ、と言えるようなものは実は何一つないのです。全ては神から出て、神によって成っています。人が何かを作り上げたとしても、それは神が造られたものを利用して加工しているにすぎません。それを加工する知恵と力もまた神から来ています。しかしすべては神のものだと認め、神からいただいて神にお返ししているのだ、と悟った者は自分自身もまた神にお返しすべきものである、と知ります。そして私たちが神に自分自身をお返しできるのは、救い主イエス・キリストがその資格を私たちの代わりに勝ち取ってくださったからです。そのことを改めて覚え、「すべては神のものです」という告白を私たちも共に神の前に差し出したいのであります。

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