「主の愛にとどまりなさい」2022.10.2
 ヨハネによる福音書 15章1~10節

 主イエス・キリストは、いろいろなたとえをお話しになりました。御自身のこと、御自身と、信じる者たちとの関係、この世の成り行きのこと、人の死後のこと等、実に多くのたとえとたとえ話を話されました。それらの中でも、このぶどうの木の幹と枝のたとえは、特に印象深いものの一つと言えるかもしれません。主イエスと私たち信じる者との関係を示すものとしては、羊と羊飼いのたとえがありますが、ぶどうの木のたとえはそれと同じように私たちの心に深く印象付けるものではないでしょうか。


  1.ぶどうの木の幹と枝のたとえ

 聖書の中には、ぶどうに関係する記事が400回以上も出ているそうです。主イエスは、今日の箇所の他に、ぶどう園の労働者のたとえや、ぶどう園と農夫のたとえを話されました(マタイによる福音書20章、21章)。ぶどう酒と革袋のたとえなどもあります(同9章)。今日の私たちにとっても、教会では聖餐式のぶどう酒(ジュース)のことがすぐに思い浮かびます。それだけでなく、日常的にも葡萄は果実としても飲み物としてもお菓子としても、大変多く用いられているもので、ぶどうがなかったら、私たちの食卓は寂しくなっていたかも知れません。そのような葡萄の木は、旧新約を通じてしばしば教えの中で用いられました。神の民であるイスラエルそのものがぶどう園にたとえられてもいます(イザヤ書5章)。ぶどうの木が実を結ぶ。この点が、民が主に従って良い実を結ぶかどうか、ということの中でたとえとしてしばしば用いられてきました。

 ここでも主イエスは、主を信じる者たちが良い実を結ぶかどうか、という点について強調しておられます。そして、このたとえで特筆されるのは、主イエスの父である神が手入れをされて、実を結ばない枝を取り除かれることです。逆に実を結ぶものはいよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさるのです。

 ここで主イエスは、イエスにつながっていながら実を結ばない枝は父が取り除かれる、と言われました。しかし、5節では、「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と言っておられます。主イエスにつながっていれば実を結べるはずなのですが、つながっていても実を結べない者がいる、ということでしょうか。ここで主イエスが言われる「わたしにつながっていながら」と言われている者たちは、そもそも本当につながっていたのかどうか、ということが問題になります。人から見た限りでは、主イエスを信じて生きているように見えても、実はそうではなかった、ということがあり得る。これはある意味では大変恐ろしいことです。

 実際、主イエスに向かって「主よ、主よ」という者が皆、天の国に入るわけではない、と主は言われました(マタイ7章21節)。つまり本当の所、そういう人はイエスにつながっていなかったのです。見た目はいろいろな際立った業をいくつも行ったのですが、その人は真実には主イエスとつながっていなかったのでした。つまり、自分のために生き、自分の名誉のために働いたのであり、そこには主イエスに対する愛がなかったのでした。このことは私たちに対する警告としてあります。私たちも時に主イエスに対する自分の思いを顧みて見るのは大事なことです。


  2.手入れをしていただける幸い

 しかし、私たちはいたずらにそのことにばかり気を取られて、自分は本当に主イエスにつながっているのかどうか 自分では分からないからと言って、この先ずっと不安に過ごすのでしょうか。最後の最後まで、自分の主イエスに対する信仰は本物なのかどうかわからない、という状態で信者として一生を終えるのでしょうか。そのようなことを主イエスは望んでおられませんし、そのような信仰生活では喜ばしくもなければ、実りある豊かなものとは言えません。

 ヘブライ人への手紙を見てみましょう。一度主の恵みにあすかりながらその後に堕落した人のことを書いている箇所があります(6章4節以下)。厳しい警告の言葉です。しかしその後で、神はあなたがたが示した神の御名に対する愛についてお忘れになることはありません、と書いています(同10節)。ただ、怠け者とならず、信仰と忍耐によって約束されたものを受け継ぐようにと勧めています。

 しかし、主イエスが、「わたしにつながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と言われた恵み深い約束に依り頼みましょう。主イエスに縋り付き、ひたすら主に従うことを求めて歩もうとする者は、主イエスにつながらせていただいていることを信じて良いのです。主イエスにつながっているということは、主イエスの言葉がその人の内にあることでわかります。私たちは主の御言葉を完全に守り行えない者ですが、それでも心の内に御言葉を宿し、蓄え、聞こうとします。そういう者を主は弟子とし、神の栄光を現す者へと変えてくださるのです。私たちが実を結ぶならそれにより神が栄光をお受けになります。実を結ぶとは、主イエスに連なる者として御言葉の約束を信じて生き、歩み、神の国を目指して主の民と共に福音宣教にあずかり続けることです。それは父なる神が手入れをしてくださった結果と言えるのです。そうやって父なる神に手入れをしていただけるということは、幸いなことなのです。


  3.主イエスの愛にとどまれる恵み

 それゆえ、主イエスは御自分の愛にとどまりなさい、と言われます。主イエスの恵み、憐れみ、正しさ、全能の御力、それらにではなくて、愛にとどまりなさい、と言われます。主の愛にとどまるとは、主の掟を守ることです。ではその掟とは何でしょうか。それは既に語られました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)と。

 ここで命じられていることは「互いに愛し合いなさい」という戒めですが、この15章では、イエスの愛にとどまりなさい、です。どちらも、主イエスの私たちに対する愛が根拠です。そして主イエスが、信じる者らを愛されるのは、父なる神が御子イエスを愛されたからです。しかしここで考えてみると、父なる神は御子イエスを愛しておられますが、私たち人間の罪を贖うためにこの世に御子イエスを送られました。そして何があったかといえば、福音書の記事を私たちが知っている通り、捕えられ、苦しみと辱めを受け、十字架にかけられて殺されるということでした。愛しておられるけれども、苦しみに引き渡されました。愛しているから大事な御子をこの世に送ることはしない、苦しみを受け、辱めを受けて殺されるような罪深いこの世に送り込むことなどしない、ということではありませんでした。愛しているが、父から御子に与えられた者たちを罪から救うためには、愛する御子をこの世にお遣わしになることをいとわれなかったのでした。そして、十字架の死から復活させ、栄光の体を与えて御自身の右の座に引き上げられました。まずこのことを、私たちもよくよく覚えましょう。

 そして御子イエスも、その愛を自覚しておられて、その愛に基づいて罪人らを愛してくださいました。その主の愛にとどまれ、と命じておられるのです。ですからこの世で、ある苦しみが信じる者に与えられるのも、主がその者を愛しておられないからではなく、愛するがゆえに、あえてその中に置かれることがある、ということを忘れてはなりません。父なる神と御子イエス、そして私たちの間にある、愛による結びつきを覚えましょう。御子イエスは、御自分が地上でこれ以上ない苦しみを受けられることになっても、父なる神の愛にとどまられました。こんな苦しい試練は受けたくないと言って、十字架に架からないために逃げ出しはしませんでした。

 また、主の愛にとどまるとは、苦しみを甘んじて受けるということばかりではありません。主に従い、その愛を感謝し、信仰の歩みの中で時には試練もあり、困難もあり、時には苦しみすらあり得ます。しかしそれらもすべて、主イエスによる救いの恵みにあずかる者に対する神の愛から出ているものです。主の愛にとどまることも、日々そうやって過ごしています、という簡単な答えができるものではなく、一日一日の歩みの中で私たちが感謝しつつ、祈りつつ、御言葉に聞きつつ選び取ってゆくものでもあります。しかしそうして歩み続けることができるなら、それもまた、主の恵みなのです。主の愛を示しそこにとどまらせていただけること、これこそ大いなる恵みです。

 主イエスでさえ、絞り出すような祈りをもって十字架に向かわれたことを思い出しましょう。人を見てつまずいたからと言って、それで主イエスの愛から離れてしまったら、主イエスの十字架の苦しみを思えば何ともったいないことでしょう。主が愛してきてくださったというその御言葉を聞き流すわけにはいきません。主イエスの十字架の苦しみを思い、そしてその背後にある父なる神の愛を思い出しましょう。そして今の私たちには御父と御子とから、聖霊が与えられていつまでも私たちと共にいるようにしてくださったのですから、信仰告白した人はその誓約の第4項で告白したように、聖霊の恵みに謙虚に信頼して、神の国を目指して、忍耐と希望を持ち、主の愛にとどまって歩み続けましょう。その行き着く先には、栄光の神の国があり、私たちの永遠に住まうことのできる天の家があるのです。

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