「父、子、聖霊が共に」2022.9.4
ヨハネによる福音書 14章15~24節

 救い主イエス・キリストは、御自身と、その話を聞いている弟子たち、そしてイエスの父である神、さらに真理の霊、について語られます。これは言い換えれば、神と、私たち主イエスを信じる者との間に、どんなつながりがあるか、について語っておられるものです。そして私たち人間は、神と共にいることができるという本来大変驚くべき教えを述べておられるのです。では、この主イエスのお話を聞いて初めから驚いて、そんなに素晴らしいことが私たちの内に実現されるのか、と言って驚く人はいるでしょうか。むしろ、何を言っているのかさっぱり分からない、と言う人がいるかもしれません。或いは、イエスの言葉は、他の誰も言わなかった。良く分からないが、特別なことを語っているように思える、という人もいるでしょう。皆さんそれぞれに第一印象は、あったでしょう。その違いはあるにしても、私たちは今ここで、改めてイエス・キリストというお方の御言葉の前に立たされています。今日、この御言葉を、自分に語りかけられた神の御言葉として聞かねばなりません。


  1.弁護者なる聖霊が永遠に共にいてくださる

 主イエスは、この箇所で、実に大切なことを次々に語っておられますが、今日は大きく三つのことをお話しします。まず一つは、真理の霊、とも呼ばれる神の霊、つまり聖霊のことです。主イエスは、父なる神に願って御自身とは別の弁護者を遣わし、永遠に弟子たちと一緒にいるようにしてくださる、と言われました。イエスは御自分も弁護者であると自覚しておられます。私たち人間はいずれ、この世の裁判の場で被告として立たされるかのように、神の法廷に立たされなければなりません。聖書は、もし人間が自分の力で、自分の正しさを主張して神の前に無罪判決を勝ち取ろうとしてもそれは出来ない、と言います。しかし、無罪を勝ち取る道があり、それは神の御子イエスに自分の弁護者となっていただくことです。なぜなら、イエスは罪がないのにも拘わらず、私たちの代わりに有罪判決を受けられ、十字架で死ぬ、という罰を受けてくださいました。だから、そのイエスを弁護者と信じる人は、罪を赦していただけます。イエスは、私たち罪ある人間の罪を償うと共に、償った者たちの弁護人にもなってくださるのです。この世の中では、人は弁護士を雇います。弁護してくれるのだから、弁護料を支払います。ところが、イエス・キリストという弁護人は、弁護料は取らない上に。それどころか被告が犯した罪の弁償を、自分の命によって代わりにしてくれるのです。そして罪を犯した私たちからは、信仰だけ求めます。こんな弁護者はこの世の人間の中にはいません。

 しかし、そのイエスは十字架で死なれた後、復活して天に昇られますので、その後、主イエスの姿が地上では見えなくなっても、別の弁護者として真理の霊、神の霊、つまり聖霊を遣わしてくださいます。イエスは弁護者として私たちの罪を償い、しかも弁護してくださるのですが、主イエスが天に昇られた今の時代は、聖霊が私たちの弁護者となってくださっています。弁護者という言葉は、「側へ助けのために呼び寄せられた人」という意味があります。この世でイエスを信じてなお生きてゆく私たちのために、目には見えないけれども、助けてくださる方、私たちの弱さと罪について弁護してくださり、助けてくださる神の霊である聖霊が私たちの内にいるのです。しかも永遠に一緒にいてくださいます。そしてそれは、キリストが一緒にいてくださることと変わりません。あなたがたの所に戻って来る、と言われたのはそのことです。あなたがたをみなしごにはしておかない、と力強く言ってくださいました。

 しかし、それをこの世は見ることができません。つまりキリストが天に昇られてからも、実は聖霊、として信じる者と共にいてくださることを生まれながらの人間は見ることができないのです。ところが主イエスを信じる者は主イエスを信仰によって見ることができます。目の前に主イエス・キリストを信じる人がいるなら、その人の内には神の霊である聖霊がおられるのですから、その人の内にキリストを見ることになるのです。


  2.御子イエスが生きるので私たちも生きる

 そして復活して天に昇られた主イエスは、生きておられます。それによって信じる者も生きることになります。イエスは私たちに命を本当に与えることができるお方だからです。さらに主イエスは、「かの日には」イエスが信じる者の内におられることが分かる、と言われます。「かの日」とは、初代教会に聖霊が降られたペンテコステの日、聖霊降臨の出来事のことです。聖霊はそのことをも信じる者に明らかにしてくださいます。

 私たちは人間としてこの世に生まれてきて、分別がつくようになると、この世に生きていることを知り、自覚し始めます。生きているからこそいろいろな経験をし、美味しい者を味わい、楽しい遊びを覚え、芸術に感動を覚えたりもします。しかし同時にこの世で生きていると様々な苦しみや辛さも味わうことを知るようになります。そして段々と、生きていくのも楽ではない、と知るようになるわけです。子どもの頃は親の保護のもとに置かれていて、大抵の子供はそのもとで安心して暮らして行けます。もちろんそうではない子供が今日相当数いる、ということも私たちは聞きます。それでも生き抜いて成長していき、自分なりに人生を切り開いていく方も時にはおられると言えます。

 人がいればその数だけ、生き方がありますが、救い主キリストが言われる「生きる」とは、キリストとつながって生きる、即ち神とつながって生きることこそ真の意味で生きることなのです。

 主イエスを信じ、別の弁護者である聖霊を信じて生きる者は、主イエスが父なる神の内に生きているように、イエスの内に生きており、イエスもまたその者の内にいてくださる。そしてそれは聖霊が信じる者の内でわからせてくださるのです。こうして見ますと、イエスを神の御子、救い主と信じる私たちは、父なる神、御子なるイエス・キリスト、聖霊なる神という三位一体の神と、大変切り離しがたく結びつけられているということがわかります。私たちはあくまでも神によって造られた被造物ですから、三位一体の神と混ざってしまうわけではありませんが、神の力によらなければ決して味わえない交わりを与えられているのは確かです。

 イエスを信じる者はイエスを愛する者であり、その人に主イエスは御自身を現してくださいます。これは、初めは福音を聞いて信じた者に対して、後々その信仰の歩みの中で、イエスが本当に生きておられ、私たちの救い主だということを様々な機会に、また手段を通して現してくださるという意味です。この世での信仰による歩みは、言ってみればそれを味わうために与えられていると言えるのです。

  3.父なる神も御子イエスも一緒に住んでくださる

 さらに、イエスを信じ愛する人を、父なる神も愛してくださる、と主イエスは言われます。しかしここで、弟子の一人が質問をします。弟子たちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのはなぜですか、と。主イエスはこの質問に対して直接お答えになっていないように見えますが、その後で語られた23節の御言葉は、それに対する答えを含んでいます。つまり、主イエスの御言葉を守り、主イエスを愛するかどうかがその分かれ目になっているのです。主イエスは誰にでも御自身のことが分かるようにはなさらない。しかしその言葉を聞き、信じ、愛する人には現してくださいます。逆に主イエスを愛さない者はその御言葉を守りませんから、そのような者には御自身を現されません。つまり、主イエスはこの世の人々に対して御自身による救いを告げ知らせますが、それによって聞く人と聞かない人、イエスを愛する人と愛さない人、という結果が出てきます。そうして、イエスのもとに来る人にだけ御自身が神の御子であり、真の救い主であられることを明らかにしてくださるのです。

 そして、その者たちのところに、父なる神と御子イエス・キリストとが、共にきてくださり一緒に住む、とまで言われます。これは本当に驚くべき言葉です。しかも、17節では聖霊なる神も私たちの内にいてくださると言っているのですから、三位一体の神が私たちの内におられることになります。

 旧約聖書時代には、人間は神を見ることができない、見れば人は死ぬ、と考えられていました。そして神に礼拝を献げることはできましたが、決められたとおりにする必要がありましたし、神の前に出て献げ物ができるのは特別に立てられた祭司だけでした。神と人との間には限りない隔たりがあると信じられていたからです。それは確かにそうなのですが、イエスが神の御子としてこの世に来られ、私たちと神との間にある隔たりを取り除いてくださり、誰でもイエス・キリストを通して遠慮なく神に近づくことができるようになりました。そして、それどころか、ここで主イエスが言われたように、父、子、聖霊なる神の方から、イエスの御言葉を聞き、信じ、愛する者の所に来てくださって、一緒に住むとまで言っておられます。旧約聖書時代から、人々はメシア、救い主が来られることを期待していましたが、まさかこんなことを語られるとは誰も予想できなかったのです。イエスは神の御子として、神を現し、私たちが神と共にずっと一緒にいられるようにしてくださるお方としてこの世に来てくださいました。私たちにとってこれ以上の救い主は他におられません。私たちは、自分の内に神が一緒にいてくださる、と言葉で言われても、なかなかわかりません。これは主イエスを信じ、その御言葉に聞き、信じ、愛する、という生活を通して初めて分かります。主イエスを信じて信仰の道に入れていただいた人は、それを味わうようにされているのです。それを求め続ける者には必ず主イエスの御言葉が真実であると悟らせてくださいます。この道を共に歩き続けましょう。

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