「主だけを畏れ敬う」2022.9.25
 列王記下 17章24~41節

 神を畏れ敬うとはどういうことなのか。今日はこれについて列王記下のこの箇所から教えられています。旧約聖書コヘレトの言葉の最後には、「『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて」(12章13節)とあります。というのであれば、どのようにするのが神を畏れることなのか。それが問題です。聖書は言わばそれを私たちに教えている、という見方もできます。聖書には、神を畏れ敬った人とそうでない人の数多くの実例があります。また、神を畏れて生きている人でも、一生涯完璧に神を畏れる人生を送った、というわけではないはずです。つまり、その人の歩みが、何を土台として生きているか。この点にかかっているわけです。


  1.神を畏れない人々

 創世記にアブラハムのお話があります。彼がゲラルという所に移り住んだ時、妻の皿のことを自分の妹だ、と言って、自分の身を守ろうとしたことがありました(創世記20章1節以下)。彼は土地の王アビメレクに、後で弁明して言っています。「この時には、神を畏れることが全くないので、わたしは妻のゆえに殺されると思ったのです」と(20章11節)。妻のサラがあまりにも美しいので、妻を奪われて自分は殺されると恐れたからでした。神を畏れない所では、人は傍若無人にふるまい、特に力の強い者は欲しい者を手に入れるためなら何でもするかも知れないと恐れたわけです。

 列王記下の17章は、イスラエルが北の10部族と南の2つの部族に分裂していた頃の話です。北王国はイスラエル、南王国はユダ、と言っていました。北王国ではヤロブアムという人が王となりましたが、神の律法に背いて金の子牛を作って礼拝したり、レビ人以外の物を祭司に任じたり、勝手に祭りの日を定めたりしていたので(列王記上12章28節以下)、少し前に書かれている通り、主の御前から退けられたのでした(23節)。

 それで北王国はアッシリアに攻め込まれ、主だった人たちはアッシリアに移され、アッシリアからは植民が住み込んでいて主とサマリアに住み始めたのでした。この人たちは神の律法を知りませんので主を畏れ敬うことをしなかったために、主に裁きによって殺された人たちがいたのでした。それでアッシリア王は祭司をサマリアに連れ戻させ、そのようにして主を畏れ敬うかを教えさせたのでした。しかし人々は、それぞれ自分たちの信じて来た神々を造り、偶像を安置し、子どもを火に投じるという恐ろしい罪まで犯していたのでした。


  2.神を畏れると言いながら他の神々に仕える人々

 連れ戻された祭司から、どのように主を畏れ敬うかを教えられたにも拘らず、人々は主を畏れ敬うと共に、アッシリアから移り住んでくる前に行っていた自分たちの風習に従って、先祖伝来の神々にも従っていたのでした。

 ここで私たちは、注意したいことがあります。人々は、主を畏れ敬うと共に、別の神々にも仕えていました。果たしてそれは本当に主を畏れ敬うと言えるのでしょうか。主にも礼拝を献げはするけれども、別の神々にも礼拝をする。半分はイスラエルに御自身を示して来られた真の神に、半分は別の神々に仕えていて、両方畏れ敬っていたのでしょうか。少なくとも、真の神に対しては、それでは畏れ敬っていることにはなりません。

 ということは、ここで「彼らは主を畏れ敬うとともに」、と言われていることは、本当の意味で畏れ敬っているということにはならないわけです。ここで主を畏れ敬っている、と言われているのは、祭司に教えられて礼拝の仕方を習い、その通りに行っていたという程度の意味であり、そこだけ見ていれば主を畏れ敬っているようには見えるでしょう。別の場面では、これまで拝んで来た別の神々を礼拝しているのであれば、それは真の意味で主を畏れ敬うことにはなりません。その点について、34節以下、列王記は記していきます。


  3.主にのみ畏れを抱け

 私たちもこのことについて、改めて自らを省みる必要があります。34節の記述を見ますと、彼らは今日に至るまで主を畏れ敬うことなく、掟、法、律法、戒めに従って行うこともない、と断言しています。主なる神に恐れを抱いて従うことは、他の神々を畏れ敬うことをしないことであり、それまで自分が拝んで来た神々があるならば、その神々を畏れ敬うことを止めることです。

 この日本では、特にいろいろな神様が拝まれています。人が死ねば神に祭り上げられてしまうこともあります。人が亡くなれば仏式で葬式を来なうのがごく普通であり、葬式に列席すればお線香をあげる、死者に向かって呼びかけたり、拝んだりする、ということが行われます。仏壇に手を合わせ、神棚に手を合わせ、神社では縄を引っ張って鈴をならし、柏手を打つ。こういったことは長年その社会で過ごしてきた方にとっては、体に染みついた習慣となっていることでしょう。そういう中からイエス・キリストを信じる信仰へと導かれてくると、手で作ったものを拝む、線香をあげる、お墓に向かって拝む、などの行為をしなくなります。最初の内はきっぱりとそのようにすることを躊躇したり、恐る恐るだったりするかもしれません。親族の目が気になることもあるでしょう。しかし、私たちは、自分の神、主イエス・キリストにおいて御自身を現してくださった神だけを畏れ敬いなさい、と言われているのです。

 いや、しかし親族の間にむやみに亀裂をもたらすのは控えた方が良いから、形だけやっておけば、軋轢が生じなくてよいのではないでしょうか、という考えが出てくるでしょうか。そういう場合は、私たちは十字架の主イエス・キリストを見上げるべきです。主イエス・キリストの他に十字架に架かって私たちの罪を償い、命を懸けて私たちを救ってくれる方が他にいるでしょうか。いないのです。それを思い出すべきです。41節にあるように、今日に至るまで先祖が行っていたことで、自分もその中にいた場合、そこから飛び出すのは確かにある種の勇気がいるし、親族への遠慮と言うものも考えるでしょう。しかし親族に気を遣い、その顔を立てることを最優先するべきでしょうか。確かに親族とむやみに喧嘩をする必要はありません。必要ならいろいろ助け合うことは大事ですし、むしろ積極的にそうするべきでしょう。自分の主に対する信仰、主だけを畏れ敬う心をないがしろにはできません。主をないがしろにすることはできません。そして主に祈りつつそのような信仰的姿勢を貫く時、主御自身が例えば家族や親族の中でも助けを与え、良き道を示してくださることでしょう。

 一方、先ほどアブラハムのことを引きましたが、全く反対のこともあります。つまり、主なる神を信じ畏れ敬うという生活を嘲笑するような、或いは胡散臭いものと見るような人々の目があるのです。むしろ、神を畏れ敬うことがない、というほうが私たちの身の周りに満ちている、と言えるかも知れません。日本人は冠婚葬祭の時は宗教的だけれども、普段の生活とは切り離されている、ということの方が多いかもしれません。そういう中で、目には見えなくとも、真の神がおられて人の歩みを見ておられること。人の行いに報いを与えるお方がおられることを忘れずにいましょう。そして、裁きを恐れるからではなく、私たちを愛して罪と死と滅びから救ってくださる憐れみ深い神様だから信じ従い、畏れ敬うのだということを覚えましょう。主イエス・キリストにおいて御自身を現してくださった神こそ、私たちが畏れ敬うべき、唯一の神様であります。聖書を通して、教会を通して、私たちに語りかけてくださった真の神のみを畏れ敬う信仰をもって、新たに歩み出してゆきたいのであります。

 今、色々なことが行き詰まっているかのようなこの世界です。国と国との戦い、未経験の感染症、温暖化による気候変動などの地球の気候の急激な変化、生きがいの問題、この世界自体が存続可能かどうかという問題などなど。そういう中で、天地の主なる神への信仰を見失うことのないように、神の御言葉である聖書の光に照らされて、今の時代を歩み通すことができるように祈ります。神を畏れ敬うとは、神に相応しい敬意を払い、御名を尊んで神としてあがめ、その神に栄光を帰することであり、それを他の誰にも向けないということです。そして他のもの、つまり人であれ運命であれ、科学の力であれ偶然であれ、神以外のものにより頼まないことです。それは社会生活の中で人を信用しないということとは違います。神以外のものが、私たちの命そのものについて責任を取れないということです。私たちの命を造り、生かし、罪から救うことのできるのは真の神のみです。そしてこの真の神のみが私たちを愛して御子キリストを救い主としてくださったのですから、この方のみを畏れ敬い、そして心から愛しましょう。

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