「主が救い出してくださる」2022.9.18
 イザヤ書 42章1~9節

 明日は敬老の日となっていますが、一昨年からずっと礼拝後の感謝の時を愛餐会として持つことができずにいます。それでも、主が与えられたこの地上での人生を信仰によって送っておられる御高齢の兄弟姉妹たちを特に覚えて、主の御言葉に聞きたいと願っています。


  1.暗くなってゆく灯心を消さない

 少しこの箇所について説明します。小見出しに「主の僕の召命」とありますが、イザヤ書には4つの僕の歌というのがあります。①この42章、②49章1~6節、③50章4~9節、④52章13節~53章12節です。主が御自分の民の救いのために、あるしもべをお立てになる、という預言です。それが個人であったり、イスラエルであったり、それぞれに内容から判断できます。この42章で言われている僕とはどんな存在なのか、それをまず知る必要があります。ここに至る前にも、主はイスラエルのことを私のしもべ、と呼んでおられました(41章8節)。

 では、この42章のしもべは、どのような存在でしょうか。一人の人か、イスラエルのような主の民の内のある人々なのか、或いはイスラエルを解放してくれるペルシャの王キュロスではないか、という解釈もあります。しかし、新約聖書においては、このしもべは私たちの救い主、神の御子イエス・キリストのことである、と示されました。マタイが福音書でこの箇所を引用してはっきりと書いています(12章18~21節)。私たちはそのことを踏まえて今日与えられている御言葉に聞きましょう。

 この僕の上に主の霊は置かれる、とまず言われます(1節)。主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた時に、天から神の霊が降られたことが記されています(マタイ3章16節)。もちろん主イエスは、マリアの胎内におられる時から既に聖霊に満たされておりましたが、公に人々の前に現れた時に、改めて聖霊が降られるということでイエスの上には神の霊がある、つまりイエスは神の御心によって立てられており、これからその務めを果たしてゆかれるのだ、ということが明らかにされたのです。

 さて、「このしもべは叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」と言われます。これは、謙遜で柔和な人物であることの表現です。この世で権力を握り、力で人を圧倒するようなことをせず、弱い者を助け、仄暗くなってゆく灯りを消すことなく、正しい裁きをなさる方です。国々の裁きを導き出す(1節)とか、島々は彼の教えを待ち望む(4節)と言われていますように、このしもべはこの世の人々全体に対して与えられている存在であることが示されています。預言者イザヤは紀元前8世紀の人です。この42章などは、もう少し後の時代の預言ではないか、という議論もありますが、大雑把に見ても2,500年以上は前のものです。大変な大昔に語られたものです。考えてみると、この日本からはるか遠く離れたこのユダヤの地で、しかも何百年も後に登場するであろうイエス・キリストについて語られたこの預言が、今こうしてここでも読まれて、そして今私たちが信じている救い主イエスのことを語っているのだ、ということは、大変驚くべきことではないでしょうか。地理的にも時代的にも大変な隔たりを越えて私たちに対して救い主のことが知らされているのです。神の御計画は何と遠大で、壮大なものでしょうか。私たちは世界中のあらゆる国々の人たちと、この預言の言葉を共有しています。


  2.主は捕われ人を救い出してくださる

 次に、主は地に住む人々に息を与え、霊を与えられる、と言われます。ここで言われる霊は、1節でしもべに与えられる主の霊とは違って一般に人に与えられる霊のことと思われます。息と霊とが一組で言われているからです。主が息を与え、霊を与えてくださるので人は地上で生きていることができます。そして人が生きているこの地上の世界は、主なる神が創造し繰り広げておられます。神が御計画され、造り、そして展開しておられるとでも言いましょうか。主は目的を持って、この世界を造り、そして御心に従って造られた者を繰り広げておられるのです。

 しかし、この世界の今の状態は、天地の創造者なる神が御計画されて造られた当初のままではなくなっています。様々な災いがあり、人はそこで完全に安心して平穏無事に過ごせているわけではありません。この世には人が安心して平穏に生きてゆくにはあまりに過酷なものが満ちています。1つには大自然の大きな力と脅威という形をとり、もう1つは私たちの心と体を苦しめる病という形をとり、あともう1つはこの世で人が作り上げる社会によってもたらされる人間の苦しみや災いと言えるでしょう。

 このイザヤの預言では、7節でそれが言われています。枷に捕われている人間、そして牢獄に住む人間です。これは、犯罪者が捕まって枷をはめられ罪を犯した人が牢屋に捕えられている、という文字通りの意味ではなく、この地上に生きる人間の姿を描き出しているのです。

 しかし、その闇の中にいて牢獄に捕われている者を救い出してくれるのが主のしもべであります。7節で救い出す、と言われている言葉は単純に連れ出す、とか引き出す、という意味ですが、いずれにしても私たちは人としてこの世に生まれてきて以来、実は捕われており、牢獄に入れられているようなものなのです。牢獄に入れられているということは、入れられるほどの罪を犯したからで、神に背いて自分の行きたい方へと勝手に歩いていることがその罪であります。ところが私たちはそれを自覚できていません。見ることのできない目、とありますが、肉眼は開いていても私たちは神を見ることができず、自分が神に背を向けて歩き続けていることが悟れないのです。神が示してくださらなければ神の真理は分からないのです。


  3.主が新しいことをなされる

 しかし、主なる神が新しいことをなさいます。「初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう」と主は言われます(9節)。天地を創造して人をこの地に住まわせ、地に生ずるものを繰り広げて来られたその御業の全体を指していると言えましょう。それに対して新しいことを主は告げられます。つまりこれから先のことです。といっても、まずイザヤ書のこの箇所で言われている時よりも後に起こることがまずあります。それは、このイザヤ書よりも何百年も後にこの地上にお降りになって人として生まれた神の僕であり、しかも神の御子であるイエス・キリストについてです。その誕生の前に主は預言者たちを通して聞かせてくださっていました。そして今や私たちはこのイザヤ書42章が描き出した神のしもべであるイエス・キリストを示され、信じています。

 そして主は今この世に生きる私たちのためにも新しいことを示してくださっています。それは、私たちを枷から解放し、牢獄から救い出してくださることです。私たちはこの世に来ている限り、全てのことについて満たされている、という状態には至れません。それは、神を信じてその救いに与っている者でもそうです。主なる神を信じて救われた者は、まずこの世で生まれながらの罪を赦され、その罪のゆえに捕われて入れられた牢獄はもう自分を永久に縛り付けておくことができなくなった、という保証をいただいたのです。なぜならキリストが十字架で私たちの罪を代わりに担い、償ってくださったからです。

 しかしながら、主イエスを救い主と信じて神の前に罪を赦していただいた者も、なおこの世では闇に住んでいるという状況は続きます。その闇はもはや私たちを飲みつくすことができないことは知っています。ですから、神のしもべとしての神の御子イエス・キリストがこの世に来られたからには、私たちは救われて、闇の中から、枷から、牢獄から解放されているのですが、まだ救いの完成を待ち望んでいる状態です。だから今しばらくこの世に主が私たちを留め置かれるのならば、私たちはなおこの世で生き続けねばなりません。

 では、この世での人生は、救いを約束はされたけれどもなお闇の中で牢獄につながれているかのように生きていなければならないのでしょうか。いや、決してそうではありません。今日読んだ先に書いてあります。主なる神は、そのしもべによって救い出した者に対して、主に栄光を帰し、主の栄誉を告げ知らせよ、という1つの使命を与えられます。さらに、そうやって歩み続ける者の行く手の闇を光に変え、曲がった道も真直ぐにしてくださると言っておられます(12節、16節)。だから私たちはその約束を信じて、歩み続けることができます。救い主イエス・キリストは、ここに記されている神の御業を実現するために来てくださいました。そうなのですから、この世に生きている者は、主イエスによって光の道を歩めるという恵みをいただいています。この方が私たちの歩みの同伴者となり、友となり、救い主となり、神となっていてくださるのです。与えられている主の道を歩み通させていただきましょう。そのために、一日、一日、主の御言葉に聞き、祈りつつ歩むのです。

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