「世が知るべきこと」2022.9.11
 ヨハネによる福音書 14章25~31節

 救い主イエスは、御自身を信じる者の内には聖霊がいてくださる、と約束され、さらには御自身と父なる神も一緒にいてくださるのだ、という大変驚くべき真理を語られました。それが24節までの御言葉です。今日の箇所では、そのことを受けて、更に言われます。父なる神が、主イエスの御名によってお遣わしになる聖霊が、イエスのお語りになったことをすべて教え、その語られたことを思い起こさせてくださる、と。というのも、主イエスは弟子たちの前でこれらのことを話されましたが、当初弟子たちには、主イエスのお語りになることがよくわからなくても、後になってわかると語っておられたからです(8章28節)。


  1.思い起こさせる聖霊のお働き

 主イエスは、聖霊がイエスのお話しされたことを思い起こさせる、と言われました。これは、聖霊の御業のとても大事な面であって、私たちは、このお働きがあるので神の御言葉である聖書を、イエスの語られた御言葉を理解できるようになるのです。弟子たちのことを見ていると、彼らはイエスのお話の意味が分からず、なさったことの意味もわからずにいて、後になってわかったことがしばしばありました(ヨハネ12章16節等)。

 主イエスのなさったことはそれまでの人間の知識や常識ではとらえきれないものが確かにあります。人は自分の知識や経験に照らしてしかものを判断できませんから、神について、また私たちの知識を超えたことについてはたとえ聞いても理解できませんし、納得できません。そのような私たちの心の内に働きかけて、悟らせ納得させてくださるというお働きを聖霊がしてくださるのです。そしてそれは、主イエスの目の前で話を聞いていた弟子たちだけのものではなく、今のこの時代に生きている私たちにも与えられている聖霊の御業であり恵みなのです。

  2.イエスは父なる神のもとへ行かれる

 そして主イエスは平和を私たちに残して行かれます。主イエスの与える平和はこの世が与えるのとは違う仕方で与えられます。それは単に感覚的に、心は安心して、体は安らいで、という以上のものです。体と心の安らぎは私たち人間にとってとても大切なものですが、主イエスはそれ以上のものを与えることがおできになります。私たちは、体と心がこの世の生活の中で安らいでいればそれで充分なのかというと、実はそうではない、という面があるからです。神の前での真の平和、やすらぎが私たちには必要です。そうでないと、たとえこの世の生活では安心しており、不安なく、穏やかにいられるとしても、神の前に立たされた時に大丈夫とは言えなくなってしまうからです。

 だから、私たちは主イエスによって神とのつながりを保っていただけるなら心を騒がせることも、怯えることも必要ありません。これから、主イエスは世を去って行かれます。いつも一緒にいてくださった先生であり、主であり、神の子だ、と信頼してきたイエス様がこの世から見えなくなってしまうとなれば弟子たちには一抹の不安が生じてくることでしょう。しかし主イエスは再び弟子たちの所へ帰ってくるとも言われます。それは一四章の冒頭にある御言葉です。「あなたがたのために場所を用意しに行く」と。そして用意したら、戻ってきて私のもとに迎える、と。ここで確認しておきたいのは、主イエスだけがその場所を用意できる、という点です。天の御国に私たちが留まるための場所は救い主イエスが用意されます。そしてやがて世の終わりの時には、信じる者を迎え入れるためにまた来てくださるのです。

 これは、主イエスは御自分が十字架に架かって死ぬけれども、復活して天の父なる神のもとに昇り、そして再び世に姿を現すことを表しています。だから御自分が天の父なる神のもとに行くのを弟子たちは喜んでくれるはずだ、と言われます。父なる神はイエス御自身より偉大な方だからだ、とも言われました。父なる神は御子イエスよりも偉大である、とはどういう意味でしょうか。これは古くからあった異端の信仰に立つ人にとっては都合よい箇所だったと言えるでしょう。イエスは神ではなく人間にすぎないのだ、という考え方や、イエスは父なる神よりも劣った神である、という考え方もあります。

 しかし、もしイエスが単なる人間にすぎないのであれば、まず御自身と父なる神とを比べるような言い方をするはずがありません。単なる人間と神とではより偉大かどうかなどという比較などそもそもしようとも思いません。また、ここで言っているのは神としての本質的な存在についてのより偉大か、小さいか、ということではなく、今人となって肉体を取ってこの世に生まれて来たイエスを遣わしておられる、という点において偉大である、と言っているのです。遣わされたイエスは御自分を低くして人としての形を取られました。神の御子として、父なる神の御前に御自分を低くしてひれ伏し、その御心に従っておられるからです。


  3.この世はイエスを知るべきである

 こうして主イエスは「今、その事の起こる前に話しておく」と言われました。今は弟子たちにはその意味が良くは分からなかったのですが、やはり必要なこととして話しておかれます。そして先に見たように、聖霊が来られることによって、この話を弟子たちが思い起こし、イエスの身に起こったことと、予めお話しされたこととを照らし合わせることによって、「ああ本当にイエス様は神の御子としてこの世に遣わされて来たお方であり、天の父なる神の御心を行うために全てのことをなさったのだな」ということを悟れるようになるからです。今は分からなくてもとにかく話しておくことで、後々悟れるようになるのです。しかし、同時に、もはや多くを語るまい、とも主イエスは言われます。世の支配者が来るからだ、と。世の支配者とは何でしょう。聖書には、サタン、悪魔と呼ばれる者が登場します。人を罪に誘惑して罪を犯させ、堕落させたのは、創世記に登場する蛇ですが、その背後にサタン=悪魔の存在があります。サタンが人の心に働きかけ、罪に誘います。ここで主イエスが言われるのは、イエスを捕えに来る人たちのことですが、彼らがイエスを捕えて殺そうとするのは、世の救い主としてこの世に来られ、人の罪を贖う方がいるのはサタンにとっては都合が悪いことこの上ありません。創世記3章において、まんまと人に罪を犯させ、堕落させて、神との親しい交わりを壊したのに、それを修復して人々を救おうというのですから、イエスがこの世におられた時に猛然とそのお働きを妨害しようとするのです。

 ところがここで主イエスが言われるようにサタンはイエスをどうすることもできません。マタイとルカの2つの福音書がイエスに対する悪魔の誘惑の記事を記しています。悪魔は3つの誘惑を仕掛けますがすべてイエスは聖書の御言葉によって退けました。この後、主イエスは捕らえられローマ総督のもとで裁判を受け死刑判決を受けます。それでもどうすることもできないのでしょうか。そうです。悪魔はイエスを殺せばそれで目的を達したかのように見えますが、イエスが十字架で死ぬことこそ、人間の罪を償うことになるので、悪魔の目的それ自体が、イエスによる罪の赦しへとつながることを悪魔は予め知ることができませんでした。だからどうすることもできないと言えるのです。

 だから、世は知らねばなりません。イエスは父なる神から命じられたことを行っているのであり、それは誰にも妨げることはできないと。人間よりも力が強いであろう悪魔も妨げることができませんでした。ならばなおさら人間にはそれはできません。ここで「世は知るべきである」と主イエスは言われますが、この言葉は、「世が知るために」イエスは父のお命じになることを行う、とも訳せます。どちらにしても、イエスが行われることというのは、この世にいる全ての人々が、イエスのなさることを受け入れずにいるのではなく、イエスの御言葉と御業を受け入れて、イエスは父なる神の御心を行っておられることを知るためになされているのです。

 「世」とは聖書では単なる世間とか世の中のことではなく、生まれながらの人間のことを指して言います。神の御心と真理を悟れない状態にいる人間です。実は元々全ての人がそうなのです。ですから、主イエスがここで言っている「世」とは、イエスに従ってこない人々、イエスに逆らい、事あるごとに反発し悪魔呼ばわりする人たちのことだけを言っているのではなく、この世に生まれて来た全ての人がイエスのことを知るべきです。そしてイエス御自身、全ての人が、イエスは神の御心を行っていることを知るように、この世で御業をなさったのです。しかしながら、世はなかなかそれを悟りません。その現実を目の当りにすると私たちはつい弱気になりがちですが、主イエスはたとえそうであるとしても御業をなさいました。そして今も御業を続けておられます。「さあ立て。ここから出かけよう」との御言葉はこの世で少数派とされ、衰退しているのではないかとさえ言われるキリスト教会に勇気と力を与えてくださいます。私たちもそれぞれの場において、御子イエスは父なる神を愛してその御業を行い、神の御心を行っておられ、また私たちを通してもその御業を行い続けておられるのだ、と信じて信仰により進みましょう。

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