「イエスは真理である」 2022.8.7
ヨハネによる福音書 14章1~7節
主イエス・キリストは、御自身のことを道であり、真理であり、命である、と言われました。これはかつて人間が語った言葉としては、自分のことをこれ以上に高いものとして述べた者はないと言ってよいと思います。自分のことを神である、ということと同じほど重みのある言葉ではないでしょうか。そして普通の人間はこんなことを決して語ることはできないし、語ってはいけない言葉でもあります。このような言葉を語る人は、本当にそれが当てはまるのか、それとも意識的に人を引き付けようとして嘘をついているのか、あるいは、まじめに思い込んでいるだけなのか、それらのどれかになるでしょう。しかしイエス・キリストはこのような言葉を語ることができました。そしてそれを自覚しておられ、真実にそれが当てはまる方として御自分のことをお語りになれる方だったのです。
1.真理を探究しようとする人間
これまで、人類の歴史の中で世界中にいろいろな人が登場して、自分を何か偉い者や、特別な存在であったり特殊な能力を持っていたりする者として世の人々に現してきました。特にいわゆる新興宗教の教祖と呼ばれる人たちがそうでした。自分が特別な存在であると人に思わせて、従わせ、そして自分の考えていることを実行させるのですが、それにより社会的に多大の悪影響を与える、人の命を奪う、大損害を与えたりします。そういうことを命じる教祖のもとで、なぜそのような行動に突き進んでしまうのか、ととても疑問に思いますが、それにはそれなりの理由はあるのだと思います。その理由と言っても、一般的には納得できないものになるでしょうが。そういったことについて研究している専門家はもちろんおられるわけですが、私たちは、聖書の示す主なる神のもとで、それらの事も受け止める必要があります。
一つ言えることは、人は真理を求めるものであり、特に真理探究に心が向く人、世の中に不満があり、何とかしたい人、いろいろあるでしょうが、やはりそれは旧約聖書コヘレトの言葉にあるように、神が「永遠を思う心を人に与えられ」たからです(コヘレト3章11節)。永遠を思う心を与えられたということは、単にいつまでも生きていたいというだけではなく、この世界や人の世、あるいは空の星を眺めて宇宙の果てを思うなど、つまり真理を求めている、ということになるわけです。目の前のもの、存在しているものについて、調べたり研究したりする、これを人類が延々とやってきました。そして神の前に罪を犯した人類は、その心が歪んでいるので悪い方向に突っ走るのです。
2.神を明らかに示すイエス
そのような人類の歴史の中に、「わたしは真理である」と語るイエス・キリストが登場されました。キリスト御自身が真理である、とは一体どういう意味があるのでしょうか。ここで主イエスが言われる真理とは、例えば私たち人間は何か、と言った時に、生物学的・医学的にどんなものであるかを示す科学的知識としての真理のことを言っているわけではありません。例えば人間の体は、成人であれば半分以上は水によってできているのだそうです。それは確かな事実なのでしょう。あるいは万有引力の法則、慣性の法則、光の速度などについて、科学的な真理はいろいろあります。しかし主イエスがここで言われるのは、もちろんそのようなことではありません。
では、真理でないものは私たちに何をもたらすでしょうか。真理でないものを知って、それにより頼み、従って行ったとしてもいつまでも本当の知識に至ることができません。神について知ろうとしても知ることができません。神と呼ばれる方が本当に存在するのか、私たちとどのような関係にあるのか、それも知ることができません。そもそもこの世とは、私たち人間とは何者なのか、それは真理そのものに聞かなければ私たちは知ることができません。
イエス・キリストというお方は、そのようなことに関する真の知識を私たちにもたらしてくださるお方です。そして主イエスはそれを私たちに伝えると言うだけではなくて、御自身が真理そのものなのです。この世界は一体何なのか、なぜ私たちはこの世にいるのか。誰が何を目的として造ったのか。このようなことについての質問、疑問について、私たちがそのような問いを出していようがいまいが、主イエスはそれらの問題について私たちに光を与え、その答えを持っておられる方です。後に主イエスが捕えられてローマ帝国の総督ピラトのもとに連れて行かれた時、ピラトは主イエスに対していろいろな質問をしました。その際、主イエスが「わたしは真理について証しをするために生れ、そのためにこの世に来た」と言われたことがあります(ヨハネ18章37節)。それに対してピラトは「真理とは何か」と聞き返しました。それに対してイエスはお答えになっていません。真理に属する人はわたしの声に耳を傾ける、とその前に言われましたので、主イエスとすれば、真理を知りたかったらわたしの言葉に聞きなさい、と言いたかったのです。
3.イエスこそ真理である
そして、実はそこにこそ最も大事な点があります。主イエスの語られた御言葉は、神について、私たちの罪と罪からの救いについて教えています。そして神を知るために、神の前での自分の姿を知るためには、イエスというお方を知らねばならないのです。
14章6節で、主イエスは、「わたしは道である」と言われた後に「わたしは真理である」と続けられました。道であり、真理であり、命である、というこれら3つのことが密接に結びついているからです。イエスが道であるということは、主イエスによらなければ神に至ることはできないからです。そしてイエスによって神に至るのでなければ誰も神を知ることはできません。つまり真理を悟ることはできません。ですから、イエスが真理である、ということは、私たちはこの世でイエスという光に照らされて、イエスという道を通って神に至ることで、初めて知るべき真の知識を得られるということなのです。
今や、現代人はあらゆる知識を社会全体としては得ています。あらゆる科学の専門家の論じる所は、素人には殆どついて行けないものばかりです。そしてインターネットの世界には知らなくてもいいような知識も溢れています。しかし私たちは自分の知らないことを知りたくなるようにできているのでしょう。逆に、知らねばならないことについてなかなか知ろうとしない。それが神の前での人間の罪のなせる業です。そのような私たちに、主なる神は、聖書を通してこのように語りかけ、その聖書が証ししている救い主としてイエス・キリストを示してくださったのでした。
だから私たちは、真理について証しをされ、そして真理そのものである神の御子イエス・キリストに聞かなければならないのです。真理であられるイエス・キリストを知ることで、私たちはこの世に対するものの見方が変わります。そして人に対する見方も変わります。それは人間一般に対する見方と、個々の人々に対する見方です。真理であられる神の御子によって私たち人間の神の前での現実を知らされ、すべての人が救い主による罪の贖いを必要としているということを知らされると、人を必要以上に持ち上げることはしなくなりますし、人の力を恐れすぎることもなくなります。人の評価や評判に心を奪われる必要もなくなります。全てを見ておられる神の前では、人間の評価や判断などは、当てにならないことを知ります。かといって人を軽んじるのでもなく、神が分け与えられた賜物などについては、それなりに人を尊重することもできます。つまり神の前での自分と人々の姿を知り、全てをご存じの神に委ねるようになっていくのです。それにより、この世の中での人々に対する見方も変わります。人に対して自分を自分以上に見せかける必要がなくなります。自分は真理を知らされたからと言って、知らない人々を見下げることもありません。自分が世で接する人々のことも同じ罪人として見ますが、その働きや賜物を尊ぶこともできます。世の人々が称賛するものを、信仰者の目で判断できるようにもなります。神の前での人間の小ささと真の姿を知らされたからです。
そして特に主を信じる者同士の間では、神の御子イエス・キリストによって互いに神の子どもとされていることを知り、一つの教会の中で互いのことを祈りながら、助け合い、愛し合う道へと導かれます。しかし、私たちは知識も知恵も、実に不十分な者であり、愛においても足りない者であることを思い知らされることがしばしばあるはずです。それでも、聖なる神の御子がおられます。私たちを愛し、神の御子キリストの体の一部として造り上げようとしてくださる神の確かな御心があります。私たちはその憐れみ深い御手により頼み、歩み続けることができるのです。
1.真理を探究しようとする人間
これまで、人類の歴史の中で世界中にいろいろな人が登場して、自分を何か偉い者や、特別な存在であったり特殊な能力を持っていたりする者として世の人々に現してきました。特にいわゆる新興宗教の教祖と呼ばれる人たちがそうでした。自分が特別な存在であると人に思わせて、従わせ、そして自分の考えていることを実行させるのですが、それにより社会的に多大の悪影響を与える、人の命を奪う、大損害を与えたりします。そういうことを命じる教祖のもとで、なぜそのような行動に突き進んでしまうのか、ととても疑問に思いますが、それにはそれなりの理由はあるのだと思います。その理由と言っても、一般的には納得できないものになるでしょうが。そういったことについて研究している専門家はもちろんおられるわけですが、私たちは、聖書の示す主なる神のもとで、それらの事も受け止める必要があります。
一つ言えることは、人は真理を求めるものであり、特に真理探究に心が向く人、世の中に不満があり、何とかしたい人、いろいろあるでしょうが、やはりそれは旧約聖書コヘレトの言葉にあるように、神が「永遠を思う心を人に与えられ」たからです(コヘレト3章11節)。永遠を思う心を与えられたということは、単にいつまでも生きていたいというだけではなく、この世界や人の世、あるいは空の星を眺めて宇宙の果てを思うなど、つまり真理を求めている、ということになるわけです。目の前のもの、存在しているものについて、調べたり研究したりする、これを人類が延々とやってきました。そして神の前に罪を犯した人類は、その心が歪んでいるので悪い方向に突っ走るのです。
2.神を明らかに示すイエス
そのような人類の歴史の中に、「わたしは真理である」と語るイエス・キリストが登場されました。キリスト御自身が真理である、とは一体どういう意味があるのでしょうか。ここで主イエスが言われる真理とは、例えば私たち人間は何か、と言った時に、生物学的・医学的にどんなものであるかを示す科学的知識としての真理のことを言っているわけではありません。例えば人間の体は、成人であれば半分以上は水によってできているのだそうです。それは確かな事実なのでしょう。あるいは万有引力の法則、慣性の法則、光の速度などについて、科学的な真理はいろいろあります。しかし主イエスがここで言われるのは、もちろんそのようなことではありません。
では、真理でないものは私たちに何をもたらすでしょうか。真理でないものを知って、それにより頼み、従って行ったとしてもいつまでも本当の知識に至ることができません。神について知ろうとしても知ることができません。神と呼ばれる方が本当に存在するのか、私たちとどのような関係にあるのか、それも知ることができません。そもそもこの世とは、私たち人間とは何者なのか、それは真理そのものに聞かなければ私たちは知ることができません。
イエス・キリストというお方は、そのようなことに関する真の知識を私たちにもたらしてくださるお方です。そして主イエスはそれを私たちに伝えると言うだけではなくて、御自身が真理そのものなのです。この世界は一体何なのか、なぜ私たちはこの世にいるのか。誰が何を目的として造ったのか。このようなことについての質問、疑問について、私たちがそのような問いを出していようがいまいが、主イエスはそれらの問題について私たちに光を与え、その答えを持っておられる方です。後に主イエスが捕えられてローマ帝国の総督ピラトのもとに連れて行かれた時、ピラトは主イエスに対していろいろな質問をしました。その際、主イエスが「わたしは真理について証しをするために生れ、そのためにこの世に来た」と言われたことがあります(ヨハネ18章37節)。それに対してピラトは「真理とは何か」と聞き返しました。それに対してイエスはお答えになっていません。真理に属する人はわたしの声に耳を傾ける、とその前に言われましたので、主イエスとすれば、真理を知りたかったらわたしの言葉に聞きなさい、と言いたかったのです。
3.イエスこそ真理である
そして、実はそこにこそ最も大事な点があります。主イエスの語られた御言葉は、神について、私たちの罪と罪からの救いについて教えています。そして神を知るために、神の前での自分の姿を知るためには、イエスというお方を知らねばならないのです。
14章6節で、主イエスは、「わたしは道である」と言われた後に「わたしは真理である」と続けられました。道であり、真理であり、命である、というこれら3つのことが密接に結びついているからです。イエスが道であるということは、主イエスによらなければ神に至ることはできないからです。そしてイエスによって神に至るのでなければ誰も神を知ることはできません。つまり真理を悟ることはできません。ですから、イエスが真理である、ということは、私たちはこの世でイエスという光に照らされて、イエスという道を通って神に至ることで、初めて知るべき真の知識を得られるということなのです。
今や、現代人はあらゆる知識を社会全体としては得ています。あらゆる科学の専門家の論じる所は、素人には殆どついて行けないものばかりです。そしてインターネットの世界には知らなくてもいいような知識も溢れています。しかし私たちは自分の知らないことを知りたくなるようにできているのでしょう。逆に、知らねばならないことについてなかなか知ろうとしない。それが神の前での人間の罪のなせる業です。そのような私たちに、主なる神は、聖書を通してこのように語りかけ、その聖書が証ししている救い主としてイエス・キリストを示してくださったのでした。
だから私たちは、真理について証しをされ、そして真理そのものである神の御子イエス・キリストに聞かなければならないのです。真理であられるイエス・キリストを知ることで、私たちはこの世に対するものの見方が変わります。そして人に対する見方も変わります。それは人間一般に対する見方と、個々の人々に対する見方です。真理であられる神の御子によって私たち人間の神の前での現実を知らされ、すべての人が救い主による罪の贖いを必要としているということを知らされると、人を必要以上に持ち上げることはしなくなりますし、人の力を恐れすぎることもなくなります。人の評価や評判に心を奪われる必要もなくなります。全てを見ておられる神の前では、人間の評価や判断などは、当てにならないことを知ります。かといって人を軽んじるのでもなく、神が分け与えられた賜物などについては、それなりに人を尊重することもできます。つまり神の前での自分と人々の姿を知り、全てをご存じの神に委ねるようになっていくのです。それにより、この世の中での人々に対する見方も変わります。人に対して自分を自分以上に見せかける必要がなくなります。自分は真理を知らされたからと言って、知らない人々を見下げることもありません。自分が世で接する人々のことも同じ罪人として見ますが、その働きや賜物を尊ぶこともできます。世の人々が称賛するものを、信仰者の目で判断できるようにもなります。神の前での人間の小ささと真の姿を知らされたからです。
そして特に主を信じる者同士の間では、神の御子イエス・キリストによって互いに神の子どもとされていることを知り、一つの教会の中で互いのことを祈りながら、助け合い、愛し合う道へと導かれます。しかし、私たちは知識も知恵も、実に不十分な者であり、愛においても足りない者であることを思い知らされることがしばしばあるはずです。それでも、聖なる神の御子がおられます。私たちを愛し、神の御子キリストの体の一部として造り上げようとしてくださる神の確かな御心があります。私たちはその憐れみ深い御手により頼み、歩み続けることができるのです。
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